玲香と俊樹
いつもよりも歩く速度が遅い俺たち。
展望室はこのホテルの最上階にある。専用エレベーターに乗って俺たちはそこへ向かう。
玲香はいつも髪を後ろに結んでいるが、今は降ろしていた。それが妙に大人っぽく感じられる。
普段から見慣れているのに新鮮に感じる。
「俊樹、ちょっと見すぎよ」
「ああ、ごめん。玲香の髪が綺麗だと思って……」
「もう、いつもはそんな事言ってくれないのに」
「あ、あははっ、そ、そんな事ないよ」
俺たちはずっと昔から一緒にいる幼馴染。子供の頃は毎日遊んでいた。
父さんの事件があって、玲香は坂下親父さんの仕事の都合で海外を飛び回り年に一度しか会えなくなった。
俺もその頃の記憶があいまいだ。
エレベーターを降りて玲香が俺の手を引きながら先に歩く。このホテルの地図は二人とも頭に入っている。俺は玲香よりも少し後ろを歩く。
子供の頃の俺たちみたいだ。
気弱な俺の手を引いてくれた玲香。いつも俺を引っ張り回して遊んでいた子供時代。
懐かしさが胸にこみ上げてきた。
玲香とは毎日会っているのにこんな風に思うなんてどうしてだろう?
時折玲香は後ろを振り返り俺に笑顔をくれる。
いたずらっ子みたいな感じですごく可愛い。
……玲香が来てから俺の日常が変わった。父さんが亡くなってから玲香が離れてから俺の世界は愛梨ちゃんだけで彩られていた。
凄くもったいない気がしてきた。だって玲香と毎日一緒にいるのに、俺はその幸せを特に何も考えずに過ごしていた。本当に幸せな毎日だった。愛梨ちゃんの事で色々あったり、アンダーグラウンド関係で問題があったけど、俺はすごく楽しんでいたんだ――
「俊樹、着いたよ。うわぁーー、すごく綺麗だね……」
展望室のガラスから見える景色。ずっと灯りを落とさないサマーソルトアイランドが幻想的に見える。
それ以外は何もない田舎の風景であった。
「うん、綺麗だね」
もっと気の利いた事を言いたかった。俺はそんなに器用じゃない。
本当に器用だったら、愛梨ちゃんの事で悩まなかったと思う。
玲香が俺の脇腹を軽く小突く。
「な、何するんだよ」
「ふふん、べっつに……。だって、俊樹、今違う女の子の事考えてたでしょ」
「……なんでわかったの?」
玲香が意地悪そうな表情で俺に言った。
「だって前はずっとそんな顔してたもん。……愛梨ちゃんの話をしてる時よ」
「そっか、ねえどんな顔だったの?」
「うんとね、凄く優しい顔して愛梨ちゃんの事話すのよ。でも苦しそうで心配だったんだ。愛梨ちゃんと仲直りできて本当に良かったね」
「……そうだね、色々あったけど愛梨ちゃんは俺の幼馴染だからな」
俺がそう言った時、玲香は軽い吐息を漏らした。
「俊樹がずっと好きだった愛梨ちゃん。ははっ、やっぱり凄く可愛いよね。みんな大好きになる理由がわかるわよ」
この時、俺は初めて玲香と距離というものを感じた。
俺は感覚的にわかっていた。俺はこの話を真剣に聞かなければならない。
存外心の中は冷静であった。
「俊樹、ちょっといいかな?」
俺は玲香を見つめて頷いた。
「……愛梨ちゃん、俊樹の事大好きだよ。あの子の恋心は偽物なんかじゃないわ。すっごく純粋で色んなものに隠れて見えづらいけど、ずっとずっと俊樹の事を想っているわ」
玲香は穏やかな笑顔だけど、ほんの少しだけ苦しそうな顔をしている。
そんな顔にさせたのは俺だ。過去と現在の俺がそうさせたのだ。
「私ね、子供の頃から俊樹を通して愛梨ちゃんの話を聞いたのよ? ……ああ、あの子が俊樹の好きな人なんだって……。俊樹、愛梨ちゃんの事が大好きだもんね」
「……そうだったかもね」
「愛梨ちゃんと一緒にいる俊樹を見ていると幸せそうだよ。……ねえ俊樹、愛梨ちゃんと付き合いなよ――」
頭の中は冷静だ。それでも殴られたような衝撃を食らう。
どんなパンチを受けた時よりも痛い。胸が凄く苦しい。
玲香と俺は幼馴染だ。
時折会う玲香に愛梨ちゃんの事を話していた。もしも玲香が俺の事を好きだったとしたら、俺は玲香を苦しめていたんだ。愛梨ちゃんと同じ事を俺はしていたんだ。
好きになるのがこんなに苦しいなんて思わなかった。好きな人を苦しめていた自分が嫌になる。
俺たちは展望室のソファーに座って外の風景を眺めている。
外を見ているようでガラスに写っている自分の姿を見ているのかも知れない。
そこには玲香によって小綺麗に整った自分の姿があった。
「私、思ったんだ。俊樹の頭の中にはさ、あんまり私の事を考えてないでしょ? 思い返してみなよ」
それだけは否定したかった。俺はいつも玲香の事を考えていたはずだ。
俺は玲香と再会した時から記憶を遡る。
俺が愛梨ちゃんに振られてデートに連れて行かれた時、家で一緒にゲームをしている時、映画館でのデートの時、教室で一緒に過ごした時間、玲香を助けに基地へと向かった時――
いつでも玲香の事を考えていたと思っていた。
だが、その間にも愛梨ちゃんの問題やアンダーグラウンド関係から絡まれたり、俺は玲香の事を真剣に考えていたのか?
「ね、そうでしょ。俊樹は友達や愛梨ちゃんの事が大事なのよ。もちろん私の事も大切にしてくれているけど、それは恋とは違うと思うわ。……多分、亡くなったお母さんと重ね合わしてるのよ」
「違う」
それだけははっきりと告げる。玲香は微笑むだけだった。
「……愛梨ちゃんの事十年間ずっと好きだったんでしょ? なら俊樹が傷ついている愛梨ちゃんを守ってよ。それにさ……、私、また海外に行くと思うし……、もうそばに居ないほうがいいでしょ」
玲香がそれっきり黙ってしまった。
海外へ行く。愛梨ちゃんと付き合え。もう俺のそばにいない。
全部自分の事じゃないみたいに客観的に捉えていた。
俺は無駄な事を喋らなかった。
玲香が言いたい事を全部言うまで待っていた。
想いを溜め込んでいた。
俺はポツリと呟く――
「――『俊樹、私がずっとそばに居てあげるから泣かないで』」
父さんが死んだ時に言った玲香の言葉だ。あの時の記憶は曖昧だけど、自分の殻を破ってから段々と鮮明になってきたんだ。
「俊樹? そ、それって……」
「――『俺……いつか強くなって、玲香ちゃんを守るよ』だったっけな。懐かしいな、あの時の俺はひ弱だったからね」
思えば、父さんが死んでから愛梨ちゃんが引っ越してきた。
玲香は親父さんの都合で会えなくなったけど、そこから俺は愛梨ちゃんに振り回されていた。実際には愛梨ちゃんは命令されて俺の仲良くしていただけだ。
今、あの時代を思い出すと、愛梨ちゃんの俺への好意は歪なものであった。
だけど、今の愛梨ちゃんは違う。純粋でちゃんとした好意を俺に向けてくれる。
……でもあの好意は恋心じゃない。まるでお父さんが好きな娘みたいな感じなんだ。
「玲香の言いたい事は分かった。理解もした。俺は愛梨ちゃんの事が好きだ」
俺がそう言っても玲香は表情を変えなかった。だけど、雰囲気でわかる。悲しんでいる。離れていてもずっと一緒だったんだから。
俺は言葉を続ける。
「心配で心配でたまらなかったんだよ。愛梨ちゃんの父親がわりの男としてはさ。……はっきりわかったんだ。俺が向けていた愛梨ちゃんの好意は恋じゃない。家族に近い愛情だったんだ」
「――そんな事」
「はっきり言う。俺は玲香が異性として好きだ」
その言葉に玲香の動きは止まってしまった。
「……だ、駄目だよ。わ、私達付き合えないよ。だって、愛梨ちゃんがまた壊れちゃうし、私は海外に行くし……」
俺は優柔不断で駄目な男だ。好きな人が友達のために身を引こうと苦しんでいるのに俺は何をしているんだ?
恋というものが初めて分かった気がした。
周りの事は関係ない。その人がいればいい。たったそれだけの事だ。
だから――
「関係ないんだ。玲香が海外に行くなら俺も行く。俺の想いは母さんの代わりなんかじゃない。俺は玲香に恋しているんだ。だって、俺の初恋なんだから――」
心の打ちに溜め込んでいた初恋が玲香と再会して開花した。この想いが本物じゃなければ何が嘘かわからない。
逃げようとする玲香の肩に手をそっと添える。
玲香の身体は震えていた。
「……お、遅いよ……バカ……、なんでもっと早く行ってくれなかったの……。もう手遅れだよ。……私がいたら俊樹の邪魔になるもん。私といたら平穏な暮らしなんてできないもん……」
「玲香、全部どうでもいいんだ。『俺が玲香を守る』」
玲香は俺の父さんが死んだ事件の詳細を知っている。俺は正当防衛で誰かを殺してその後死んだ、としか知らない。お祖父ちゃんも玲香も今まで俺に説明して来なかった。
「だ、だって……、ひっく……、と、俊樹の、お父さんが死んだのは……、私をかばったから……」
「そんな事はどうでもいいんだ。――俺は玲香を愛してる。だから、玲香の答えを聞かせてくれ――」
怯えている玲香の身体を抱きしめた。華奢な身体は柔らかくていい匂いがする。
ごめんな、玲香。俺が弱かったから……。
「……そんなの……、好きに決まってるでしょ……バカ。ずっと、ずっとずっと大好きだったわよ!!」
俺はこの時やっと自分の事を理解できた。
俺が強くなろうとした理由は全て玲香のためであったんだ―――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます