恋は消し炭


 平塚先輩の顔からは怒りと恐怖の色が見え隠れする。

 俺は知っている。中途半端な暴力は暴力の連鎖を作ってしまう。

 強ければ強いほど泥沼にハマっていくんだ。

 だから俺は暴力をふるいたくなかった。


 平塚先輩は男に担がれて教室を出て行ってしまった。止める必要もない。また別の機会で謝罪をもらおう。


 正直、俺は素手の戦いは自信がない。あの程度で良かったけど、おじいちゃんクラスだと刃が立たない。最低でも武器が必要だ。


「……俊樹、お疲れ様! えっと……、私先に行ってるわ。後輩ちゃんピックアップするからあとで連絡ちょうだいね」

「うおぉ、坂下!? カバンを引っ張るなって!? てか、この後始末大丈夫かよ!?!?」


 玲香と早川は俺を置いて教室を出ていってしまった……。

 他の生徒もすでに教室にいない。ここには俺と愛梨ちゃんだけであった。……友達のヒカリさんもいない。


 非常に気まずい。玲香はきっとここで愛梨ちゃんと話せって言う意味で先に行ったんだろう。

 早川はきっと何も考えてない。


 愛梨ちゃんが一歩近づく。非常に距離が近い。


「えへへ、トシ君、やっぱりトシ君が一番かっこいいね……」


 いや、そんな事を話している場合じゃないでしょ? そもそも愛梨ちゃんがこの教室に来なかったらこんなこと起こらなかったのに……。でも、危ない目に合いそうだったから良かったのかな。ああ、もうなんでこんな状況なんだよ。


「愛梨ちゃん、ちょっと離れようね。誤解されたら嫌でしょ?」


「ううん、トシ君となら大丈夫だよ。まさか平塚先輩が付き合った瞬間豹変するとは思わなかったよ……」


 俺はなんと返答していいかわからない。最近はわからない事だらけだ。

 ただ一つ確実な事がある。あの泣いた夜、俺は愛梨ちゃんへの想いを捨てた。

 10年間の想いを捨てるのは苦しかったけど、もう振り返らない。

 それでも愛梨ちゃんに別れを言えなかったからここでけじめを付けよう。


「あのさ、愛梨ちゃ――」

「私ね……、実はね、今まで付き合った彼氏って、トシ君を困らせたくて付き合ったんだよ」

「……………っ?????????????????????????????????」


 思わず声にならない声が出てしまった。わけがわからない。本当に君の気持ちがわからない。昨日玲香と遊んで少しだけ冷静さを取り戻した俺なのに、全く理解できない。

 愛梨ちゃんは構わず続ける。


「……トシ君はいつまで経っても私に告白しないし、絶対好きだってわかっていたから、誰かと付き合ったら嫉妬して奪ってくれるかなって思ってたんだよ?」


 嘘だ。

 心臓の鼓動を数える。そうすると気分が落ち着く。この子は何を言っているんだ?

 俺がどんな思いで恋心を捨てたと思っているんだ?

 彼氏がいる女の子を奪い取らなきゃいけないのか? 俺じゃない人が好きって俺に相談しているのに?

 それに父さんの事を……。


「あのさ、愛梨ちゃん。俺の父さんが犯罪者だから嫌だって言ったよね?」


 愛梨ちゃんは一瞬苦い顔をした。次の瞬間また笑顔に戻った。


「え、ええーー、あれは冗談だよ〜。お父さんはお父さんでトシ君はトシ君。私はずっとトシ君の事を待ってたの」


 俺の脳裏に過去の愛梨ちゃんとの思い出が浮かんだ――







 中学に入ってすぐの事だ。

 愛梨ちゃんは一個上の田代先輩に告白をされた。


「トシ君、私ね、初めての彼氏ができるかも……。えへへ、トシ君応援してくれるよね?」


「あ、う、うん……」


 俺が一番恐れていた事が起こった。父さんの件もあり、愛梨ちゃんと付き合わない方がいいと思っていた俺は、いつか愛梨ちゃんに恋人ができると思っていた。

 そもそも、愛梨ちゃんは可愛い。俺を男として見ていない。

 いつも好きになる男子はイケメンでワイルドな男子だった。愛梨ちゃんは好きになった男子の事を俺にずっと語る。それこそ毎日だ。

 俺はその度に心が苦しかったけど、愛梨ちゃんが幸せならそれでいいと思っていた。


 初めての彼氏とのデートの前には『ねえトシ君、デートの予行練習したいから付き合ってよ!』『彼氏のプレゼントを一緒に選んでもらえる?』

 苦しくて苦しくてどうしようも無かった。


 愛梨ちゃんは彼氏が出来ても長続きをしない。いつも喧嘩になって終わる。

 その理由も――

『なんかトシ君の悪口言ったから怒っちゃったの! もう、幼馴染のお話したっていいでしょ』『トシ君の方が何倍も優しかったよ! もうありえないよ』『トシ君なら――』


 彼氏の前で他の男、俺の話ばかりするのが理由であった。

 愛梨ちゃんには幸せになって欲しかった。心からそう思っていた。

 だけど、そんな事言われたら……もしかしたら愛梨ちゃんは俺の事好きなのかな? って勘違いしちゃうだろ……。

 浅ましい自分が嫌だった。どんどん暗くなる自分が嫌だった。


 今でもはっきりと覚えている。

 その年のお正月、俺は玲香と一年ぶりに会っていた。

 色々話していくうちに、俺が愛梨ちゃんの事が好きだっていう話になった。


「へ、へえ……、と、俊樹にも好きな人が出来たんだ……。ど、どんな人?」

「愛梨ちゃんは優しくて可愛くていつも俺の事を気にかけてくるんだよ」

「そ、そう……、そうだよね。こんながさつな女……」

「玲香?」

「う、ううんなんでもないわ。それで、い、いつ告白するの?」


 俺は父さんの事もあって告白をしない事を伝えると玲香は――


「ばかっ!! そんなの関係ないじゃない! 本当に好きだったら気にしないでよ! それにあんたの事が好きだったら絶対気にしない。……ぜ、絶対大丈夫。あんた、超かっこいいでしょ……。だから……、後悔しないで」


 玲香はそう言って俺の背中を押してくれた。

 俺は玲香の言葉を聞いて泣きそうになった覚えがある。


 そして、俺は愛梨ちゃんに想いを伝えようと決意した、が――。


「え、愛梨ちゃん、あ、あのさ、俺、愛梨ちゃんの事が――」

「トシ君? あっ、ねえ聞いてよ! 気になってたサッカー部のマルコメ君と両思いだってわかったんけどね……、ちょっとありえないんだけど、お父さんが痴漢で捕まったんだって」

「えっ……、それって」

「……はぁ……付き合う前で良かった。冤罪だって言ってるけど、もう噂がね……。親が犯罪者だなんてちょっとありえない。だって私まで変な噂に巻き込まれちゃうもん。でね、ダンス部のミハエル君からデートの誘いがあってね――」


 俺はその時なんて喋ったか覚えていない。

 愛梨ちゃんの好きっていう気持ちの軽さが怖かった。自分の10年間の片思いの強さが重かった。絶対好きって言っちゃいけないんだ、という事が理解できた。

 だって、俺の父さんは正当防衛で事件を起こしたんだから……。


 その時の俺は、愛梨ちゃんへの愛情を捨てる事が出来なかった。好きで好きでたまらなかった。そんな想いを胸に隠して、俺は愛梨ちゃんが好きな人とうまくいくように努力をする。


 段々と心が削られていった。

 愛梨ちゃん以外の事がどうでもよくなってきた。

 愛梨ちゃんの愛情が他の人に向いていても、愛梨ちゃんの距離感がない発言にドキッとしたり、勘違いしないように言い聞かせたり……。









 でもね、愛梨ちゃん。

 俺は目が覚めたんだ。俺には大切な人たちがいる。次の恋なんてできるかわからないけど……、俺は二度と過去を振り返らない。


 昨日の玲香とのデートが脳裏に浮かんだ。愛梨ちゃんと遊びに行くときとは大違いで自由に楽しめた。心から玲香の事を大好きな友達と思えた。

 玲香の心配する顔も見たくない。


 柔らかい笑みで俺を見つめる愛梨ちゃん。

 俺が大好きだった笑顔。その笑顔は、俺ではない愛梨ちゃんの好きな人に向けられていたもの。

 凄く欲しかったのに。心が揺らぎそうになるほどの恋心だったのに。

 誰かと付き合っても必ず俺の元へと戻ってきた愛梨ちゃん。


「愛梨ちゃん、俺……」


「えへへ、いろんな人と付き合ったからわかったけど、トシ君よりも優しくて可愛い男の子いないもん。なんでも言うこと聞いてくれて、趣味もピッタリだしね。それにあんなに強かったなんて知らなかったよ。……これからも私の事……守ってね」


 玲香。『後悔しないで』だよな? 

 もう俺は後悔はしない。だから、十年分の想いを込めて――




「――愛梨ちゃん、十年間ありがとう。……もう遅いよ、さよなら。もう二度と愛梨ちゃんに話しかけないよ」




 愛梨ちゃんは身体をビクッとさせた。俺の返事が予想と違ったものだったんだ。

 俺は知ってるんだ。平塚先輩と並行して立花先生ともデートを繰り返している事を……。

 愛梨ちゃんは駄々をこねるように俺に言う。


「嫌、嫌だよ。だってトシ君は私の幼馴染だもん!! みんなと過ごしてわかったもん、トシ君が一番ステキな人だって!! なんで意地悪言うの? 私の事好きだったんでしょ!!!!」




 俺は十年間の恋心をこの瞬間、心の中で消し炭にした――






「――ううん、もう好きじゃないよ」






 愛梨ちゃんが泣いている。

 別れたり、振られたり、振ったり、その度に愛梨ちゃんは泣いていた。いつも俺が隣で慰めていた。

 だけど、もう、俺が慰めることはない。


 俺は泣いている愛梨ちゃんをその場に置いて教室を出ていった――

 そして、教室の外で俺たちの話を聞いていたヒカリさんに短く伝える。


「あとはよろしくね」

「……う、うん、ほ、本当に良かったの? あんたら超仲良かったじゃん」

「変わらない関係なんてないよ。じゃあね」

「うん、あとは任せてね」



 一人学校を歩く。

 思えば一人ぼっちな人生だった。

 どんな時も愛梨ちゃんが隣にいた。……あれ? 悲しくないのになんだか胸からこみ上げてくる。

 もう愛梨ちゃんの事は気にしなくていいのに……。


 泣いちゃ駄目だ。みんなに心配される。

 涙を拭いてみんなのところに行かなきゃ……。


 廊下を曲がると、柔らかい何かが俺を包み込んだ。


「……おつかれ、俊樹」

「玲香……、俺……おれ……」

「大丈夫、何も喋んなくていいの。早川たちは先にアイス屋へ行ったから。私らは少しゆっくり行こ……」

「……う、ん」


 幼馴染の玲香は俺が泣き止むまで包み込んでくれた。

 俺は涙とともに自分の感情を全て洗い流した――――



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