第10話 終末までの小休止
「いい湯だねぇ~、時恩君。たまにはこういうのもいいんじゃないかい?」
「そうですね。こうして叔父さんと一緒に出かけるのも久しぶりです」
二人の会話が湯気交じりの空間に反響して消えていく。二人は銭湯の大浴場に並ぶように浸かっていた。こうして銭湯に来ているのは叔父の提案によるものだ。家族水入らず積もる話もあるだろうからとのことだった。海堂は叔父の提案に快諾して今に至る。
叔父が手でお湯をすくい顔を洗う。お湯で顔を拭うことで血行が良くなった赤ら顔でほぅと息を吐く。叔父はなにか思いを馳せているのか遠くに視線をやりながら呟く。
「……どれくらいになるかなぁ」
「俺が一人暮らししてしばらくですから、三年ぶりですかね」
海堂が一人暮らしをしてから連絡を取り合うことは度々あったが、こうして会って話すということは無かった。海堂は世話になっていた人達に対する自身の薄情さにほんの少しだけ顔をしかめる。
思っていたよりも年月が経っていたのか、おやと叔父は驚いた顔をして海堂を見る。
「そんなにかい。時が経つのも早いねぇ」
「ほんとあっという間です」
海堂もここ数年間は気が休まる時間なんてなかったと顧みる。幸せだった、家族がいたあの頃よりも時の流れは確実に早くなっていた。ほとんど毎日のように家族に対する贖罪の方法を考えていた。退魔局に所属してからは未確認生命体をどうやって送還するか、退魔師としてどう成長するかに変わっていった。同世代の人間と比べて娯楽というものを享受してこなかったように思える。海堂は美代と出掛けることでそれを痛感した。
壁に背中を預けてお湯の水面を見つめる。暖色の蛍光灯が水面に映りお湯の動きに合わせて揺らめいている。海堂は右手をゆっくりと握りしめた。心臓がバクバクと早鐘を打つ。心の内を言葉にしようとするのがこんなにも緊張するものだと少年は思いもしなかった。
「叔父さん」
「ん?どうしたんだい」
海堂の様子を知ってか知らずか優しげな声で叔父は海堂に返事をする。
「叔父さんと叔母さんに黙っていたことがあったんだ。本当は言わないといけなかったんだ。だけど黙ってた。叔父さん達が手を差し伸べているのに俺はそれを振り払って生きてきた」
「…………」
「それが正しいと思っていた。家族を殺した俺が平和を享受するなんて許されないと思っていたから。いや今でも思ってるのが正しいのかな」
「時恩君……」
「とにかくまずは謝罪させて欲しいんです。今まで叔父さん達の心配を無下にしてすみませんでした」
海堂は湯に浸かりながらも頭を下げた。謝罪する海堂に慌てて叔父は頭を上げさせる。
「時恩君! 君が頭を下げる必要なんかないよ。君とは家族らしいことは他の家族と比べてほとんどできなかったと思う。それでも君がそれを負い目に思う必要はないんだよ」
「……叔父さん。ありがとうございます」
「いいさ。家族だからね」
叔父は朗らかな笑顔を浮かべた。海堂もそれにつられて思わず笑顔になる。だが海堂は笑みを引っ込めて顔を引き締めた。海堂の言いたいこと、まだ本題にすら入っていない。このまま有耶無耶に終わらせるつもりは少年にはなかった。
「叔父さん。俺は」
海堂のセリフを叔父は片手で制した。
「いいんだ、時恩君。わかっている。君が抱えている事情は分かっているつもりだ。君が同世代の子たちと比べて何かを抱えて生きていることも。それを私に話すことがはばかれることもね」
「……すみません」
「そう謝ることじゃない。秘密にしておくべきだよ。そう、君が未確認生命体対策局の捜査官。通称退魔師であることとか」
叔父の言葉を聞いた海堂の血の気が一気に引いた。知りえる情報ではなかったはずだ。身内である叔父、叔母にもこれまで話したことは一度たりともないはずだ。なのに目の前の人間はなぜその情報を知っているのか。海堂はほんのすこし放心状態になった。
「知らないとでも?知っているさ。退魔局、未確認生命体、退魔師。私にとってこれらは身近にあるものだからね。私以上に詳しい人間はいないんじゃないのかな」
「な、なにを言って」
「ふむ。まだ事態をきちんと把握できていないようだね。ナニカの捜査だったらそれは命取りだよ。少年」
目の前の叔父の皮を被ったナニカは楽しそうに笑っている。まるで悪戯が成功した子供のように。
「誰だ、あんた」
海堂は立ち上がり目の前の男から距離をとる。海堂の本能が目の前の男は危険だと警鐘を鳴らす。
「ああ、まだそこか。よく見てごらん。私は誰に見える?」
叔父らしき人物は人差し指を自分の顔に向けて問いかける。
中肉中背の中年の男。どこにでもいるような顔立ち。髪型は丸刈り。海堂はこの男をごく最近見たことがあった。
「伊達丸、幸雄!?」
「正解だ、少年。遅かったじゃないか。忘れられてしまったかと思ったよ」
海堂は相手が伊達丸幸雄であることに驚いているのも確かであった。しかし、一番動揺したことは伊達丸幸雄を自分の叔父だと誤認したことである。似ても似つかない二人。それを自分が疑いをもつことなく叔父だと思っていた。騙した伊達丸とまんまと騙された自分自身にはらわたが煮えくり返りそうな気分であった。
「なんで今更接触してきた? 自分がお尋ね者って自覚はあるのか。おっさん」
「ああ、今血眼になって探してるんだってね? そんなことしても無駄だというのに」
伊達丸は浴槽の縁に置いていたタオルを手に取り頭の上に乗せる。ちらりと海堂を見る。
「いつまでも突っ立ていないで座ったらどうだい。聞きたいことはたくさんあるはずだ」
「確かにある。けどそれはあんたを捕まえてからでも問題ない」
啖呵を切る海堂に伊達丸は目を丸くして思わずといった調子で吹き出す。
「少年。君は相手が完全受肉したナニカだという自覚は? それにここは夢でも何でもない確かな現実だ。夢の中でなければ君はただの一般人と変わりない」
「だから見過ごせっていうのか? 冗談じゃないぞ」
「真面目なのは良いが使いどころを誤るな。少年がすべきなのはここで死ぬことではなく、情報を持ち帰ることだ。違うかい」
伊達丸の言葉に海堂は呻く。伊達丸を自分の叔父と誤認したこともある。目の前の人間が普通の人間だと侮ったら痛い目をみるのは明らかだった。逡巡する海堂に伊達丸は言葉をかける。
「それに君に会いに来たのは何も驚かせようというだけじゃない。忠告しに来たのさ」
「忠告?」
「ああ、いつまでも立っていないで座ったらどうかな? 湯冷めしてしまうよ」
「……くそっ」
何も出来ないと言う伊達丸の言うことも一理あった。こちらは丸腰、対抗するための武器も退魔局と連絡を取るためのスマホもない。ここはおとなしく言うことを聞くべきだろう。海堂は伊達丸の言う通りに座って湯に浸かる。伊達丸は座った海堂を見て満足げにうなずいた。
「さて、何から話そうか……うん。こういうのはまずは本題を話すべきかな」
「……」
「明日、この渋谷を起点として世界が終わると言ったら君はどうする? それも穏やかな終末ではなく大勢の未確認生命体による世界の破壊だ」
目の前の男の発言を海堂は素直に受け止めることができなかった。明日世界が終わると言われてどれほどの人間が信じることができるだろう。海堂は信じることができなかったが話を続けることにした。伊達丸の言った通り情報をみすみす逃す手はない。この男の言うことが万が一正しければ渋谷を中心とした未曽有の災害が起きるのだから。
「あんたがそれを引き起こすのか?俺たち人類に対する宣戦布告ってわけか」
海堂のそれは早とちりだと伊達丸はかぶりを振る。
「まさか、君たち人類に害をなそうというなら二十二年前の生まれたときにやっているよ。退魔局の設立、ナニカの捜査及び送還のノウハウ。それを与えた我々は人類の味方さ。少なくとも敵ではない。我々の敵は他にいる」
伊達丸の言葉に海堂は引っ掛かりを覚えた。
「我々っていうのは誰を指している? 他に完全受肉した未確認生命体がいるのか?」
「そうだ。私のほかにも完全に受肉しこの世界を謳歌している未確認生命体はいる。全て私の仲間だがね」
伊達丸の発言は未確認生命体対策局の根幹を揺るがしかねないものだった。彼の言うことが正しければ退魔局の捜査方法に重大な欠陥があるということだ。
「簡単に信じられると思うのか。退魔局の捜査から逃れて完全受肉することができるなんて」
「さっきも言ったがナニカ、未確認生命体に対する捜査、送還の基礎は私が作り上げた。誰でも使える訳ではないが、当然抜け穴を用意しているとも。君はその実例と戦ったじゃないか。先週の土曜日に」
海堂はこの前の土蜘蛛のことを思いだす。退魔局の捜査を掻い潜り受肉しようとしていた普通の未確認生命体とは違うナニカ。模ろうとした姿以上に強い意志を感じさせたあの怪物を。
「あの土蜘蛛もあんたの仲間なのか」
「だったが正しいかな、彼は自分の仲間を無断でこの世界に連れ込もうとしていたからね。残念ながら彼をこの世界に入れることはできなくなった。だから隠すのをやめたのさ」
海堂は今得た情報を咀嚼する。退魔局の捜査から完全に隠れる方法。先程、伊達丸が言った隠すのをやめたという言葉。目の前の男は十年の間退魔局の捜査から逃れている事実。海堂は一つの答えに辿り着いた。
「あんたはただの人間のナニカじゃない。自分やそれ以外の何かを誤認、隠ぺいすることができるんだな」
「その通り。私はそうやって退魔局を創設し、自身の仲間をこの世界に引き入れた」
「あんた達はなんで危険を冒してまでこの世界に入ってこようとする?退魔局を設立したこともそうだがなんで人類に未確認生命体に対する対抗手段を教えたんだ。あんたやあんたの仲間が送還される可能性だってあるかもしれないのに」
伊達丸は眩しいものを見るかのように目を細めた。
「この世界が私たちにとって夢のような場所だからだよ。ソトはね、何もないんだ。ただ真っ黒な世界が広がっているだけ。そこに上も下もない。底も天井もないんだ。あるのはナニカの本能のまま目の前の全てを食べるという衝動のみ。お互いを貪り食うことを永遠とやっている。実に馬鹿らしいと思わないかい」
話を終えるころには伊達丸の目には冷たいものが宿っていた。ただ嫌悪の感情を抱いているわけではない。むしろそれ以上の憎しみに近いように思えた。
「昔はこれでもソトをどうにかよいものにしようとしていたんだ。私は他のナニカと違っていてね。生まれながら本能に縛られることもなく理性や感情を有していたんだ。だからソトの冷たさ、ナニカの愚かさを呪ったよ。そして私自身を憎んだ。」
伊達丸は一度目を瞑り呼吸を整える。海堂はその様子を黙って見つめていた。海堂にとって伊達丸幸雄というナニカはいつも飄々としていて捉えどころのない人物であった。そんなナニカが負の感情をこんなにもむき出していることに驚いていた。
「だが、とある物を手に入れてね。それは触れると不思議と私に安らぎを与えてくれた。生まれて初めて暖かい感情が芽生えた。私はこの気持ちを誰かと分かち合いたいと思ってね。私は肉を貪られる代わりに感情や理性を周りに与えた。自分の仲間を増やすことにしたのさ。仲間はみるみる増えていった。だがね、ソトは冷たいままだった。どこに行こうとソトは相も変わらずただ黒一色でナニカ同士が貪るのみ。私たちが望む場所はどこにもなかったんだ」
伊達丸は片手でお湯をすくった。手のひらに浮かぶ水面の光は宝石のように乱反射している。伊達丸はそれを見て目尻を下げた。
「そんなときこの世界と出会った。……出会ったは、少し違うかな。私たちは既に持っていたんだよ。私たちに安らぎを与える物、それこそが私たちが望む場所だったんだ。ソトから見たこの世界は……そうだね、光る小さなガラス玉かな。この世界に偶然入れたときの興奮たるや筆舌に尽くしがたいものだったよ。この世界の何もかもが私にとってまだ見ぬものでありすべてが輝いて見えた。この世界が私達にとっての理想の世界そのものさ」
「……あんたにとってここは夢の場所なんだな。自分が叶えたいと思ったもの全てがここにある」
「ああ、一度は諦めたものが自分の手の届くところにあったら手を伸ばすだろう?」
「あんたがこの世界に来た理由は分かった、留まる理由も。同情はしない。けど理解はできる。何もないなら諦められた、けど一度手に入ってしまったなら捨てることなんてできないよな」
海堂は自身の家族の顔、友人達、先輩そして美代の顔を思い浮かべる。彼らと過ごした日々は自分にとって宝石のようなものだ。キラキラと輝いていて何物よりも勝る価値あるもの。それを捨てろと言われても絶対に捨てないだろう。
「君はやはり優しい子だ。だからこそ不憫でならないよ。きみには退魔師としてではなく一般人として最後の日常を過ごしてほしかった。だがそれは叶わない。明日世界が終わるんだから」
「さっきから言っている世界の終わりってなんだ? それはなんで起こる? 避けることは出来ないのか」
海堂は伊達丸を問い詰める。最初から諦めていたら解決なんてできない。なにかできることはあるはずだ。
「起こるんじゃない。すでに世界の崩壊は起きていて明日、拮抗が崩れる。既に我々の手に負える範囲を超えてしまった。二十二年前のあの日からずっと世界の終わりは近づいていた。私は滅びの道を避けるために仲間をこの世界に迎い入れ、そして人類に脅威とその対処方法を教えた」
「二十二年前はあんたが退魔局を設立する前、とするとあんたがこの世界に来た年になるのか? こんなことは言いたくないがあんたが引き起こしたんじゃないのか」
「そうとも言うね。この世界の持ち主であった私がここに入った以上世界を守る番人はいなくなった。墓守がいなくなったところで墓泥棒は消えてなくならない。この世界を本能のまま食い荒らそうとする無粋な連中が後を絶たなかった。私に感情と理性を与えられなかったナニカ、それが君たちの言う未確認生命体の正体だよ。数がとても多くてね。なにせ私の仲間以外が敵だから。内とソトで我々が二十二年の間守ってきたがついに限界がきてしまった」
伊達丸は悲しげにつぶやく。大事にしていた物の寿命がついにきてしまったかのように。現にそうなんだろう。彼にとってこの世界は大事にしていた夢のつまったガラス玉なのだから。
「……あんたはどうするつもりなんだ」
海堂は伊達丸に問いかけた。世界が終わる。それは分かった。それが避けようのないことも。ただこの世界を愛しているナニカが最後に何をするのか気になった。
「見守るつもりだよ。この世界が終わるのを。この綺麗で美しい箱庭が崩れ去るのをね。少年はどうするつもりだい?」
「俺は……」
海堂は天井を見上げる。天井に取り付けられた暖色の蛍光灯が眩しく光っていた。自分の隣で湯に浸かっているこの男はこの世界と共に心中するつもりらしい。だが自分はどうしたいのだろうと海堂は自分自身に疑問をぶつける。大事な人たちと一緒に終えるかそれとも――
「俺は大事な人達のために最後まで戦いたい。諦めろと諭されても納得なんてできない。自分が死ぬ最後まで大事な人の笑顔を守りたい」
「勝てないと分かっているのにかい? 叔父に化けた私が言うことじゃないが大事な人の側にいるべきだと思うよ」
「一分でも一秒でもいい。大事な人達が自分よりも長く生きてさえいてくれれば俺はそれで十分なんだ」
海堂は伊達丸の目をみて告げる。昔だったら周りの人の気持ちも何も考えず贖罪のために喜んで戦っただろう。けど、今は違う。好き好んで戦いたくはないが大事な人達の命に、笑顔に関わるのなら話は別だ。
「そうかい。君に休暇をあげるように仕向けたのはいらぬ世話ではなかったようだ」
伊達丸は顔を綻ばせた。最近になって伊達丸が現れた理由の一つに自分に休暇を与えることが含まれていたらしい。
「色々大変だったけどそのことだけは感謝している。ありがとう」
「いいさ、そのくらい。君のためならね」
海堂は伊達丸の厚意に照れくさくなって顔をそらす。ふと今さらになって気になった。なぜこの男はこんなにも自分のことを気にかけてくれるのだろう。海堂は伊達丸の方に振り返って問いかけようとした。
「なあ、なんであんたはそんなに……」
隣に伊達丸の姿はなく伊達丸がいたであろう場所に波紋が広がっていた。
「いねぇし。あのおっさん」
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