第3話 影が差す休日

 焼けていく。自分にとって、家族にとって大切な場所が、思い出が焼けていく。

 大人たちの怒号が、絹を裂くような悲鳴がまだ幼い子供の耳をつんざく。

 家を焼き、それでも勢いが止まらない炎。焼き尽くされていく家の中で燃えることのない玄関扉。子供の目には痛々しいその光景が焼き付いた。

 果たして自分はあの時、大切なものを助けようとしたのだろうか?



 四月六日、土曜日。暖かい陽射しが桜や木々に栄養を与える。

 渋谷区のとある街道に大勢の人間の集団が集まっていた。彼らは各自で動きやすい恰好をしている。ジャージに帽子、運動靴など色やブランドに統一感は見られなかった。しかし、全員が共通していたのは軍手を両手にはめて火ばさみとごみ袋を持っていること。

 集団のリーダーらしき初老の男性が両手でメガホンの形を作り、参加者に大声で挨拶をした。


「皆さん!集まっていただきありがとうございます。今日も頑張って街を清潔に保ちましょう!終わった後にはジュースが配られます!楽しみにしてくださいねー!それじゃ張り切っていきましょう!!」

「「「「「「「「「「「はーい!!」」」」」」」」」」」


 初老の男性の言葉が終わると全員が元気よく返事をして、各自でごみを拾うために場所を離れていく。残ったのは上が白で下が青いジャージの海堂と、上下が黒を基調としたピンクのジャージに白い帽子を被った美代だった。


「なんで美代がいんの?」


 なぜ自分のいつもの休日に美代の姿があるのか、海堂にとって当然の疑問だった。

 不思議がる少年に美代は左手に持った何も入ってないごみ袋を持ち上げ、右手で火ばさみをカチカチと鳴らす。


「私も自分の街に貢献しようと思ってね。ダメかな?」


 美代のボランティアに参加する理由として模範解答的な返答に海堂は言葉に詰まった。誰でも自由に参加でき、本人の自主性を重んじるのがボランティアだ。

 海堂は美代から目線を外しつつ言葉を濁す。


「いやダメじゃないけどさ……」



 二人は一度始めると作業に熱中する性質なのか、街中に落ちているごみを着々と拾っていった。街道の端に落ちている空き缶や紙くずを見つけると火ばさみで掴み、ごみ袋に入れる。その単純作業を繰り返し、袋にある程度ごみが溜まっていくと美代が口を開いた。


「授業はどうだった?まだ初めの方だけど着いてこれそう?」


 美代が海堂に尋ねたのは学校生活のことだった。やはり途中から入ってくるよそ者にはそういう質問が来るかとあらかじめ考えていた嘘を海堂は美代に聞かせる。


「ん?ああ、やっぱり学校が違うと授業の進み具合も全然違うなと思ったよ。こっちの方が断然早い」

「……へえ、そうなんだ」


 海堂の嘘に少し考え込む美代。そんな彼女に最初の学期から授業の進み具合が違うのはおかしいかと、海堂は慌てて取り繕う。


「県もちがうからかなあ。勉強置いてかれないかちょっと心配だったりする。あ、その空き缶も取って」


 それなりに筋が通っていると海堂は自画自賛しつつ、話題を逸らそうとする。

 海堂の目線の先にあった空き缶を火ばさみで挟みつつ、美代は海堂の意図に反して話題を続ける。


「りょうかーい。ほいと。そんなに心配ならさ、私のノートでも見る?」

「…………マジで?」


 思ってもない美代の提案に海堂は面を食らった。


「マジマジ。全教科見せたげる」


 太っ腹だなぁと思いつつも海堂は一抹の不安を口にする。


「それは参考にして大丈夫なノートですか?」

「あー!頭悪いと思ってる?」


 心外なセリフだと美代は言外に海堂を抗議した。海堂は自己紹介のときから気になっていたことを冗談半分に口にする。


「いやだって、好きなことがおもしろいや楽しいことを探すって。小学生じゃないんだからさ」


 小学生並みの趣味、思想に加えて見た目や中身が活発的な少女。海堂にとって美代は勉強よりも他のことに楽しみを見出して学生の本業を疎かにするタイプに思えた。


「ひ、人が本気で思っていること馬鹿にしないほうがいいよ。痛い目見るから」

「いや、悪かった。今の揶揄いはなかった。ごめん」


 美代は口元を引きつらせながら海堂に忠告をする。そんな彼女の様子に軽々しく扱ってはいけないところに触れてしまったと海堂はほんの少し焦りながら謝罪をする。


「…………いいよ。許す」


 海堂が真剣に謝ってると感じたのか美代は不貞腐れつつも謝罪を受け入れた。

 そんな美代に笑いつつ海堂は礼を言う。



「ありがとうな」

「で!話戻るけど私これでもこうなんだから!」


 美代は指が開いた右の手のひらを海堂の顔の前に翳す。素直に受け止めれば数字の五を表してるということだろう。海堂は五と成績という言葉で連想したものを口に出す。


「5?成績がオール5か。すげえじゃん」

「ノンノン。違うよ」


 海堂の言葉を聞いて被りを振る美代。


「……クラスで5番目ってことか?」

「ノン!」


 美代は最初より大きくかぶりを振る。


「…………もしかして学年で5番目?」

「イエス」


 美代は首を縦に振りどや顔をした。

 海堂は驚愕に目を見開く。思ったことをそのまま口に出してしまう。


「うっそだあ!!信じられねえ……」

「私が嘘吐くと思うの?」


 友達の言うことを信じないのかと美代は大げさに悲しそうな顔をする。

 海堂はそんな美代に二つの意味で頭を下げた。


「いや思わないけどさあ。……ノートの件よろしくお願いします」

「よろしい」



 日が空の頂上にまで登り始めた正午。二人の作業は順調に進んでおり、袋の半分以上が彼らの成果となっていた。作業終了時刻までもう少し、ラストスパートだと二人は張り切りつつ、ごみを拾っていく。


「海堂ってさ」


 二人の間に流れていた穏やかな空気を裂くように口火を切ったのは美代の方であった。

 道端に落ちているゴミを拾うことを止め、海堂の動きを注視する。


「ん?」


 彼女の纏う雰囲気が剣呑なものに変わりつつあるのを海堂は感じ取った。

 海堂もゴミ探しに辺りを見回すことを止めて美代の顔を正面から見据える。


「なんでボランティア始めようと思ったの?」

「なんとなく」

「嘘」


 少年の言葉を美代は即座に否定する。誤魔化そうとする海堂に対し、悲しみと怒りがごちゃ混ぜになった表情を彼女はしていた。


「…………」


 美代のその表情にあっけにとられつつも海堂は何も言わない。何も言うことができなかった。ほんの少しの誤魔化しでさえ彼女のことを傷つけてしまいそうで。


「海堂はさ、少し会っただけの私でも分かるくらい真面目だよ。私みたいに社会貢献の一環って答えたら納得できたよ。けどって海堂から一番遠い言葉でしょ」


 美代は何もかも海堂のことを見通しているとばかりに話す。彼女が言ったなんとなくが理由ではないは確かにその通りだった。海堂にとって誰かのために何かをするということは人生の重要な部分に位置していた。このボランティアも軽い気持ちで始めたわけではなかった。


「……分かったようなことを言うんだな」


 海堂は苦し紛れの返答をする。会って一週間にも満たない人間に自分という人間が分かるわけがないだろうと。


「分かるよ。海堂は嘘吐くの下手だし」


 海堂のぶっきらぼうな言い方に怯みもせず、それでも美代は言葉を続ける。


「誰が嘘吐くの」


 否定しようとした海堂を美代はまだ自分の話が終わってないとばかりに遮った。


「ボランティアのリーダーさんに、聞いたの。海堂は今年に入る前から、ずっと前からこのボランティアに参加している古株だって」


 そこまでばれてしまったのかと海堂は焦る。心臓が早鐘を打つ。なぜこうもうまくいかないのだと、うまく物事を進められない自分に嫌気がさしそうになる。

 海堂は美代の顔を見る。悲しげな表情をしている彼女が段々と嫌なものに見えてきた。


「…………」


 海堂は彼女が発する言葉一つ一つにイラついて仕方なかった。返答するのも億劫になっていった。


「何か言ってよ」


 そんな海堂を美代は急かす。ドロドロとした感情が海堂の内に生まれた。少年はその感情を乗せるように言葉を吐き出していく。


「お前は人が黙ってること、秘密にしていることを詮索し回って警察か何かかよ?言ってんだろ。必要な嘘もあるって」


 美代は海堂の態度の急変に戸惑いを隠せなかった。


「……必要な嘘って何?」

「教えねぇよ」


 美代の表情が徐々に怒りに変わっていく。

 海堂の瞳が冷たいものに変わっていく。


「私、友達に隠し事して友達面してるやつって一番嫌い」

「俺もお前みたいな秘密暴こうとするやつ無理だわ」


 二人はお互いににらみ合う。その緊張状態をほぐしたのは風に運ばれて、美代の前に転がってきた紙くずだった。

 今はボランティアの最中だったことを思い出す。今はどんな感情が胸の内に渦巻いていたとしても始めたことは最後までやるべきだ。


「……そのごみはこっちの袋に入れてくれ」

「……わかった」


 集められたゴミ袋は主催者が借りたトラックに載せられ、ボランティアの参加者には缶ジュースが配られた。受け取った缶ジュースを手に帰る参加者達。海堂と美代も缶ジュースを受け取る。


「それじゃ」

「じゃあな」


 気安い友人へ贈るようにした別れの挨拶。込めた気持ちは一生の意味で。

 お互い真逆の方向へ歩き出した。



 海堂は美代と喧嘩したことを思い悩みながら帰路についていた。

 思い描いていた順風満帆な高校生活とはかけ離れた現実が海堂を押しつぶす。


「高校生活一週間目にしてこれか……最悪だ」


 海堂にとって美代希という少女は厄介というほかなかった。

 まさか嘘がばれるとは思ってもみなかった。それらしい学校生活エピソードを何個も用意していたのにだ。友達に嘘を吐く奴は嫌いと彼女が言っていたことを思い出す。彼女は嘘を暴くのが目的ではなく嘘を吐かないでほしいと頼むことが目的だったのではないかと少年は改めて考えた。


「俺が引くべきだったか、……いやでもなあ」


 一年間他の高校に通っていたという嘘はばれてはいけないものだった。その嘘がばれれば他のことまで芋づる式にばれてしまう恐れがある。どんな理由があっても退魔師であることはばれてはいけない。ばれたら現場に復帰は不可能になる。どんなに仲良くなりたい人が相手でも嘘を貫き通さなければならない。

 そんなことを頭の中で堂々巡りしていた海堂はゾワリと全身の肌が粟立ち、立ち止まった。海堂の視線は店と店の間の路地に吸い込まれていく。


「この感じ……先輩とのときと似てる」


 先日、寸前だったナニカと戦った時と同じ、なにか危ないものがすぐそばであふれ出しそうな気配。自分の近くで何か大変なことが起こっているのに気づけないもどかしい感覚。海堂は服が汚れるのも気にせず路地の奥へと入っていった。


「見つけた。やっぱりだ。なんでだ?感覚でも鋭くなってんのか?俺は」


 入口から直線に少し進んだ路地裏にはあった。空き地の入口を塞ぐように巨大な黒い亀裂が浮かんでいる。もはやそれは路地の壁となっていた。

 海堂はいつも通りの動作でジャージのポケットから仕事用のスマホを取り出そうとし、躊躇した。未確認生命体を送還する場合、捜査官は原則二人。それに加えて少年は停止処分を受けた身、これ以上の失点は重ねると取り返しがつかない。

 ゆっくりと息を吐き、電源のついていないスマホの画面を見る。真っ黒な画面には眠そうな顔が映っていた。

 自分が身や心を削ってまでナニカを送還するのは退魔局に居続けるためか?


「俺は別に退魔局に飼い慣らされるために入ったわけじゃない」


 少年はスマホの電源をつけ、ボイスレコーダーを起動する。


「2024年4月6日14時29分東京、渋谷。□□ビル近くの路地裏。

 本局からの連絡はなく、対象のカテゴリーは不明。完全受肉までもう少しと思われる。これから未確認生命体の送還を行う。そうさか……現地協力者の海堂時恩。一名。…………つつがなく終わることを願っている。以上」


 海堂は音声データをメールに添付し退魔局に送る。

 倒せれば文句なし。時間稼ぎができれば上々。

 音声データが自身の遺言になるかもなと縁起でもないことが海堂の頭をよぎる。

 逸る鼓動を落ち着かせるために深呼吸する。

 少年は事態の解決のためにまずやるべきことを口に出す。


「寝るか」



 美代はボランティアの帰り道を後悔しながら歩いていた。

 あまりに唐突すぎたと反省していた。


「はあ~先走り過ぎたぁ。逆に険悪になってどうすんのよ。もう」


 人には触れないでほしいという部分があることは分かっている。

 触れないでほしいと思うならそう言ってくれればいいのにと、美代は友達に嘘をついてまで隠そうとする海堂を理解できなかった。


「謝る?うーん」


 友達に嘘を吐く人間と関係を続けるか否か美代は悩む。だが、友達と言ってもたかが数日、まだ話せる信頼関係を築いてないだけかもしれないと彼女は考えを改めた。


「やっぱりちゃんと謝って仲直りしよう」


 美代は来た道を小走りで引き返す。彼は嘘を吐くのが苦手な素直な人間だ。いつかは本当のことを話してくれるはず。まずは謝ることから始めようと美代は海堂に会ったときどうするか思案した。

 来た道を引き返して数十秒、美代は辺りを見回す海堂を見つける。


「あ、海堂だ。おーい!」


 美代の声は雑踏にかき消されたのか、海堂に届かない。少年はそのまま路地へと姿を消す。追いかける美代は海堂がさっきまでいた路地の前まで辿り着いた。

 路地の入口からでも漂う異臭。用事があっても通りたくない場所だった。


「うわあ、この路地通るのか。……しょうがないか」


 人一人入れる程度の薄暗い路地を横歩きで抜けていく。ゴミやホコリが沢山散っており換気扇やごみ箱が狭い道をより狭めていた。ジャージを着ていて本当によかったと美代は思う。通り続けるとようやくスペースが開いてきたのか、横歩きを止めて真っすぐ歩こうとした彼女が何かに足を引っかけた。そこには壁に寄りかかるようにして座り込む海堂がいた。よくよく少年の様子を観察すると寝息を立てている。つまり眠っている。こんな汚い場所で眠るなんて図太いのか、無神経なのか、とにかく起こそうと肩に手を置こうとして美代は気づいた。

 彼女の目の端にありえない現象が起きている。


「え!?何してるの海堂。こんなところで寝るなんてだめ……だよ……うそ、なにこれ」


 顔をそれに向けて美代は息を呑む。

 眠る海堂の正面には人間の大きさを優に超える巨大な黒い亀裂が浮かんで揺らめいていた。



「くそ、蜘蛛か!!」

 

 鋼板の玄関扉を自身を囲うように召喚し、海堂は人間の子供サイズ蜘蛛の集団の猛攻を防ぐ。

 ギリギリと扉を引っかく音、キィキィと鋏がかち鳴る音が上下左右無数に聞こえた。

 群がる無数の子蜘蛛の対処だけなら海堂一人でも十分気をつければ問題はなかった。

 しかし、この洞穴の奥にいたナニカが問題であった。

 海堂が一瞬見えたソレは、洞穴の奥に鎮座する鬼の顔を持つ縞模様の巨大蜘蛛だった。大きさは見た限りだと大型トラックと同程度。


「カテゴリーBとDの複合体とはついてねえな、俺!!」

 

 扉で造られた箱の中で海堂は悪態をつく。

 未確認生命体はその数や大きさによってカテゴライズされている。Aは一体で人間以下の大きさ、Bは一体で人間を超える大きさ、Cは二体で人間以下の大きさ、Dは無数で人間以下の大きさ。今回のナニカはBとDに当てはまる特殊な事例であった。

 右手に宿した炎を周囲に振りまくと同時に前後左右の扉を一斉に開け放ち、周囲の子蜘蛛を焼き払うと別の子蜘蛛が襲い掛かる前に閉める。

 この一連の流れを繰り返すことで着実に子蜘蛛の数を減らしていた。 


「グオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 自身の子供を焼き殺されて怒り心頭に発したのか、巨大蜘蛛はおどろおどろしく叫ぶ。

 海堂は扉越しなのにビリビリと腹の底を叩くような衝撃を感じる。この叫びは攻撃の合図だと直感した。


「来るか!」


 左右の扉を開けて、開いた空間に玄関扉で天井と壁を作り、一本の長い通路を造る。

 二拍置いて前方の扉を開けて全力で駆けだす。

 外に出た瞬間、跳んできた巨体が通路を押しつぶした。

 ほんの一瞬出遅れていればそのまま玄関扉で造られた通路が海堂の棺桶になっていただろう。

 衝撃にそのまま身を任せ、巨大蜘蛛から距離をとる。

 海堂は巨大蜘蛛との距離を保ちつつ、自身に襲い掛かる子蜘蛛を冷静に右手の炎で処理していった。

 子蜘蛛の焼ける音に気づいたのか、少年に背を向けていた巨大蜘蛛が身体を正面に反転させる。少年と巨大蜘蛛の距離はおよそ五十メートル程度、奇しくもお互いの位置を交換したことになった。

 海堂は左手の人差し指で円を描いた。

 巨大な鋼鉄の扉が鬼の顔を持つ蜘蛛の周囲を囲う。

 それに続くように右手の指を鳴らす。


「グオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」


 玄関扉で出来た囲いの中で炎が発火した。先ほどの怒りに満ちたものではなく、痛みに呻く叫び声が聞こえる。もう二、三度発火させ、炭にしてやろうかと海堂が思っていると鋼鉄の覆いがはじけ飛んだ。

 飛んでくる鋼鉄の塊を慌てて地面にへばりつくようにして避ける。

 海堂は鋼鉄の爆心地を注意深く見た。

 灼熱の鋼鉄の牢獄から蜘蛛の怪物が脱獄する。

 大火に焼かれた巨大蜘蛛は凄惨な姿に変わり果てていた。

 鬼の顔は焼け爛れ、縞模様の身体からは体液が漏れ出し、脚の何本かは炭と化していた。それでもなお巨大蜘蛛は生きる意志を見せていた。体の奥底から力を振り絞りながら身構え、火と扉を操る少年と相対する。

 ビシリと何かが罅入るような音が聞こえた。

 まずいと、海堂は焦った。これは夢が終わる合図。夢の中で育った怪物が夢から覚め現実に現れる合図。一瞬だけ目の前の大蜘蛛から他のことへ気を取られた少年はこの戦いで初めて大きな隙を生んでしまった。


「グルルルルルルルルル!!!!」


 巨大蜘蛛が焦る海堂の隙を突いて周囲に息を吹きかける。海堂は気づいて口元を覆うが遅かった。目の前の景色が揺れ、体が異様に熱く、頭が割れるように痛む。立ち続けようとするが足の力が抜け、少年は膝をついてしまう。

 敵が模った怪物は土蜘蛛。源頼光を熱病で苦しめたとされる巨大蜘蛛。

 力ではなく病で人を襲う怪物。

 敵の不調を感じ取ったのか我先に肉にありつこうと、子蜘蛛たちが一斉に群がる。



 海堂の様子が急変したことに美代は驚いた。

 海堂の身体は熱く、汗が止まらない。呼吸が荒くなり、眉根を寄せ呻いていた。美代がほとんど反射的にとった手は異様に冷たく感じる。

 その海堂の様子から救急車を呼ぼうとスマホに手を伸ばそうとするが、呼んでどうなると美代は躊躇した。

 おそらくこの不可思議な現象と海堂の体調不良は連動している。ここから引き離すのが正解か、不正解か彼女はわからない。

 だから彼女は冷たくなった手を両手で包み、海堂に声をかける。


「大丈夫だよ!海堂。絶対に。だから大丈夫!」


 支離滅裂な言葉。けどその言葉はきっと誰かの背中を押す。美代は言葉を思うがままに吐き出していく。喧嘩していることも忘れて。必死に、ただ必死に。



 炎の爆発が起きた。いの一番に少年に飛びついていた子蜘蛛たちは跡形もなく吹き飛んだ。パラパラと死骸の一部が舞い落ちていく。

 少年の容態は変わらない。息が上がり、今にも倒れこみそうな様子だ。けれど変わったことが一つだけ。目だ。目だけが相手を焼き尽くさんと煮え滾っている。ふらふらとした足取り、それでもなお足は、海堂時恩は前に進んでいた。


「…………」


 巨大蜘蛛が焼け爛れた鬼の顔でそれを見ていた。何を思ったか怪物は口から病をまき散らすのを止めた。

 一人と一匹だけの時間。お互いがお互いのみを目に映す。他者の介在を許さない。それを邪魔しようとした不埒者をそれぞれが燃やし尽くし、踏みつぶす。

 両者ともに逃げる選択肢はなかった。

 一人がすべてを灰にしようとし、一匹がすべてを飲み込もうとする。

 結果はすぐに訪れた。



 海堂が目を覚ますと頭を美代の肩にのせていた。ずっと海堂の様子を伺っていたのか、ゆったりとした優しい笑顔で労う。


「お疲れさま」


 慌てて起き上がろうとする海堂を美代は手で制した。

 少年が起き上がらないことを確認すると美代は黒い亀裂が浮かんでいた空き地を見つめる。


「大丈夫、もう何も聞かないよ。嘘をついてた理由なんとなくだけど分かったし」


 ばつが悪そうにする少年。二人の間にほんの少しの時が流れる。しばらくして少年の口から出たのは謝罪の言葉だった。


「悪い」


 美代が不思議そうに聞き返す。


「何が?」

「嘘ついてたこと、黙ってたこと。何よりさっき暴言吐いたこと」


 海堂の言葉にかぶりを振る美代。自分のジャージの裾を握りしめながら答えた。


「喧嘩したのはお互い様じゃん。私の方こそごめん。私たちのこと本当に気遣ってたのに」


 海堂が空を見上げる。あんな死闘を繰り広げたのに空は何も知らないかのように青いままだった。友人から謝罪されたからにはいうべき言葉は一つ。


「いいよ。許す」


 美代が顔を海堂に向け口をとがらせる。


「何それ、私の真似じゃん」

「ちょっと真似してみた」


 今まで喧嘩していたのが嘘のように二人は笑いあった。


「……明日さ、暇?」


 美代が首を傾けながら明日の予定を聞く。


「なんの予定もない」


 ぼーっと空を見上げ流れる雲の動きを目で追いながら海堂は返事をする。


「じゃあ、明日どっか遊びに行こうよ。についてはもう何も聞かない。けど海堂の本当の姿が知りたい。何が好きで何が嫌いか。どんなことが楽しいのか」


 美代は海堂の人となりをもっと深く知りたいと心中を吐露した。


「ほんと、楽しいことが好きなんだな」

「だって一度きりの人生だもん。楽しまなきゃ損だよ」


 海堂は雲から美代に目線を移し彼女の楽しそうな笑顔を見る。

 彼女が心の底からそう思っていることを見て取れた。


「たった一度の人生を楽しむべき……か。大人な考え方だな」


 海堂にはただ流されるのではなく自分で行きたい道を選んで進もうとする美代の姿は大人びて見えた。


「子供の考えって言ったくせに」


 さっきと言ってることが逆だと美代は呆れる。


「それと」

「それと?」


 海堂は美代の正面に向き合うように座り直し、改めて彼女に感謝を伝える。


「ありがとう」


 頭を下げる海堂に美代は顔を赤らめながらお礼の返事を言った。


「……どういたしまして」







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