第84話 再読 逍遙游4

惠子謂莊子曰:「魏王貽我大瓠之種,我樹之成而實五石,以盛水漿,其堅不能自舉也。剖之以為瓢,則瓠落無所容。非不呺然大也,吾為其無用而掊之。」

 惠子は莊子に謂いて曰く:「魏王は我に大瓠の種を貽る。我れ之を樹え成らば實に五石にして、以て水漿を盛らば、其の堅にて自ら舉ぐ能わざるなり。之を剖りて以て瓢と為さば、則ち瓠は落ち容る所無し。呺然にして大きからざるに非れど、吾れ其の無用為るに之を掊りき。」


 恵施が荘周に自慢する。

 いやー魏王様からヒサゴの種を親しく頂戴しちゃってさー、これがまた植えてみりゃめっちゃでかいし。杯にしようと思ってもそこに水入れりゃ重すぎで持ち上げられりゃしねー。ならかち割って柄杓にしようと思っても、今度は平べったすぎてぜんぶこぼれ落ちちまう。まったく、どでかい、どでかいのはいいことなんだけど、ぜんぜん使い道がねーんだよなー、困ったなぁー! なんでもうぶち割って捨てちまったよ!!!



莊子曰:「夫子固拙於用大矣。宋人有善為不龜手之藥者,世世以洴澼絖為事。客聞之,請買其方百金。聚族而謀曰:『我世世為洴澼絖,不過數金;今一朝而鬻技百金,請與之。』客得之,以說吳王。越有難,吳王使之將。冬與越人水戰,大敗越人,裂地而封之。能不龜手,一也;或以封,或不免於洴澼絖,則所用之異也。今子有五石之瓠,何不慮以為大樽而浮乎江湖,而憂其瓠落無所容?則夫子猶有蓬之心也夫!」

 莊子は曰く:「夫子は固より大を用うに拙かりき。宋人に手を龜せざるの藥を為すに善き者有り、世世を絖を洴澼すを為す事を以てす。客は之を聞き、其の方を百金にて買わんと請う。族は聚まりて謀りて曰く:『我れ、世世を絖を洴澼せるを為せど、數金に過ぎず。今、一朝にして技を鬻りて百金たる、之を與えん請う』と。客は之を得、以て吳王に說く。越に難有り、吳王は之をして將せしむ。冬に越人と水戰し、大いに越人を敗り、地を裂きて之を封ず。手を龜せざる能うは一なるも、或いは以て封ぜられ、或いは絖を洴澼せるを免ぜず、則ち之を用う所の異なればなり。今、子に五石の瓠有り、何ぞ以て大樽を江湖に浮かべるを為さんと慮わず、其の瓠落の容る所無きを憂えんか? 則ち夫子は猶お蓬れたるの心有らんたるか!」


 荘周、恵施をせせら笑う。

 君はおっきなものを使う才能がないな!

 こんな話を聞かせてあげよう、宋に木綿洗いを生業としていた者がいたのだが、ずっと水に触れねばならない彼らの仕事にはあかぎれがつきもの。だから一族には秘伝のあかぎれにならない薬があった。そこにひとりの客が来て、その秘伝の薬を百金で買いたい、と言い出す。宋人は一族と会議を開く。「今までずっと木綿洗いをしてきたけど、その上がりは数金程度にしかなったことがない。この薬は秘伝でこそあるが、その製法を教えれば百金にもなるという。これは客人に教えてしまってもよいのではないか?」

 そうして薬の技術を得た客人、今度は呉に向かった。呉と越との戦いには水戦がつきもの、ましてや冬ともなればあかぎれとの戦いですらある。この薬があれば越人との戦いに対する士気は下がらずにすみますよ! 客人は呉王にそう説いた。ほほうと思った呉王、実際に客人に兵を与え、冬に越と戦わせてみた。そしたら、見事快勝。これに喜んだ呉王は客人に土地を与え、大臣として遇した。

 はてさて、手をあかぎれにさせない秘伝を持っている、で宋人と客人は何も変わらないわけだが、片方は大臣として取り立てられ、片方はあぶく銭を得こそしたものの、その後も木綿洗いからは解放されていない。それがどのように用いられるとよいのか、が把握し切れているかどうかで、大きな差ができたわけだ。

 で、君が手に入れた、ばかでっかいヒサゴ? そのまま川や湖に浮かべて船にすれば良かろうに。そんなことも思いつかずせせこましい用途に見合わないとひーこらしたのだ。ちゃんと気付きたまえよ、自身が抱くそのせせこましいこだわりに!」



 福永光司氏はこのエピソードを荘子自身の筆ではないだろうと書いていて、その点については同意。宋人の得た利益があまりにも莊子の立てた論としては卑近すぎるというのが一つだし、先に見た宋人が越に冠を売りに行ったってエピソードとの類似性が結構キツい。ついでに言えば宋人、つまり殷の子孫たちと言うことで、周人(この頃にはめっちゃ形骸化した言葉だけど、形骸化すればこそ差別意識が強くなるのは良く見受けられる)から一段低く見られたりとかもあったんじゃないかしらと思わずにおれない。先の提示では宋人と越人がそれでも斉同的、ただの習俗や価値観の違いとのみ描かれていたのに対し、こちらでは明確に「弁別」がなされていますしね。やや「人の美なる」に縛られてる印象です。まぁ、「固定観念から解放されろ」が逍遙游の大きなテーマだと思っていますし、そのときには少しでも固定観念からの脱却を「わかりやすく」語るものも必要なんでしょう。


 おそらくだけど、荘子の語り口ってのは大いに名家からの系譜を受け継いでいるんでしょうね。ただ名家の思想そのものでは「世界に対する拭いがたき大きさ」がどうにも説明しきれないから、そこから脱した。恵施=名家のトップであり、世間的な栄誉にも浴した人物との絡みは見ていて楽しいのだけれど、「もと名家で、その狭い枠から脱した荘周すごい」的な臭気は感じずにおれません。斉物論では恵施を「人間の思考の極み」とまで荘周は言い出しているわけで、そんなひとがここまで侮蔑意識をむき出しにするかなあ。いや侮蔑意識をむき出しにした上で「こいつの思考はすごい」とも言うのかもしれんけれども。


 まぁ荘周と恵施との絡みは、たぶん後世の荘周ファンによるBLが八割でしょうね。そしてそんな中にうっかり荘周自身の真筆が混じってたりするんだ。ぼく知ってるよ。荘周くんはそういうやつだ。

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