第85話 再読 逍遙游5

惠子謂莊子曰:「吾有大樹,人謂之樗。其大本擁腫而不中繩墨,其小枝卷曲而不中規矩,立之塗,匠者不顧。今子之言,大而無用,衆所同去也。」

 惠子は莊子に謂いて曰く:「吾れに大樹有り、人は之を樗と謂う。其の大本は腫を擁し繩墨も中らず、其の小枝は卷き曲がりて規矩も中ざられば、之を塗に立つも、匠者は顧ず。今、子の言は大にして用無し、衆の同しく去つる所なり」と。


 ヒサゴのやり取りでギャフンと食らった恵施、ギャフンとさせ返してやる! と意気込み、荘周に話題を持ちかける。

 うちにある大木はイボだらけだし枝は曲がりくねってるしでまるで材木として役に立たんのだ! だから道端に生えてても、大工たちは全く見向きもせん! まるでお前の発言のようじゃあないか、やたらと壮大なことを言うけど、それでなんの役に立とうってのだ? 誰も彼もがお前さんの言葉にきょとんとしとるじゃないか!



莊子曰:「子獨不見狸狌乎?卑身而伏,以候敖者;東西跳梁,不辟高下;中於機辟,死於罔罟。今夫斄牛,其大若垂天之雲。此能為大矣,而不能執鼠。今子有大樹,患其無用,何不樹之於無何有之鄉,廣莫之野?彷徨乎無為其側,逍遙乎寢臥其下。不夭斤斧,物無害者,無所可用,安所困苦哉?」

 莊子は曰く:「子は獨り狸狌を見ざるか? 身を卑くし伏し、以て敖ぶ者を候い、東西に跳び梁ね、高きも下きも辟わず、機辟に中り、罔罟にて死す。今、夫の斄牛は其の大なること垂天の雲が若し。此れ能く大為るのみにして鼠を執う能わず。今、子の大樹有せるに其の無用なるを患えど、何ぞ之を無何有の鄉,廣莫の野に樹て、彷徨とて其の側にて為す無くし、逍遙とて其の下にて寢臥せんか? 斤斧に夭られず、物に害さる者も無く、用うべき所無かれば、安んぞ困苦せる所ならんか?」と。


 はあ、そうですか。

 荘周さんもサクッと反撃。

 あんた、イタチのこと知らんみたいだな。はしこく地面を駆け回り、捕まえようとする者たちの手をするり、するりと抜けていく。あらゆるところを縦横無尽に駆け巡るわけだが、だからこそあっさり罠に引っかかるし、イタチ取りカゴの中で殺されてしまうのだ。

 一方で、あのどでかい牛はどうだね? 能力と言えば無駄にでかいこと、それだけ。そのデカさのせいでねずみ一匹まともに捕まえられん。のんびりとしたもんだ。そんな感じだから、なんとなく、のんびりと生きられているではないか。

 さてさて、あんたが庭に抱えてる大樹とやらはどうだね? さても立派なものなのだろう? ならばどこか誰もいない、広々とした地に植え替えてしまえばいいではないか。そのふもとを廻って思索するもよし、あるいは寝転んでのんびりしてしまうもよし、だ。

 材木として斬られる心配があるわけでもない木だ。それが誰かの迷惑にならないのであれば、どうしてあんたが、いちいち素材としての有用性に対してあれこれ思い悩む必要があるというのだ?



 すでに語ったけど、無用の用って概念は、俺みたいな「ピーキーなローソー原理主義者」的立場に基づけば「は? 何その教条主義的提案? なんでお前じゃない何者かについてお前が適当な予断を語れるの?」みたいな意味でファック&ヘイトがノンストップ。もちろん常識として考えれば「自分の体が他人の都合に沿って勝手に運用される」のなんざ死ね以外の何物でもないわけですが、けどそれって結局「この世に肉体を帯びて生まれ落ち、言語でもって思考するに至った存在の基準にのみ基づいた独断」でしかないわけなのですよね。


 なるほど、で、それって本当に自分にとっての常識をすべてすっ飛ばした先の世界にいる何者かにとっての「自分の満喫」に、本当に沿うものなんですか? わからないよね? もちろん自分もわからないです。なら、どのような思考であっても、ひとまずこれを言わねばならないよね? 「なにはともあれ、断定だけはすべきでない」と。


 莊子で語られる「外の世界が見えてない奴ら」への苛立ち、嫌悪的なものについては、まぁある程度は理解せずにおれない。ただ、「奴ら」を「外」に向かせようとするにあたり、莊子にて行われている論理操作に対しては、正直忌避感が半端ない。いや莊子の言葉を絶対化したら、それは莊子のメンタリティを否定するよね? なんでお前らはそこで莊子の言葉を絶対化しようとするの?


 人間は知恵を得た。これにより人間と、人間以外との世界観が分かたれた。けどそのせいで、人間は余計なことに思い悩むようになった。「人間に遥かに及ばない存在」がこの世にいて、同時に「人間では遥かに及ばない存在」もまたこの世にいてしまう、ということ。知恵がなければ、自分がまるで及ばない存在に対する理不尽さなぞ覚えずに済んだ。けど、そうじゃない。自分を偉大な存在だと糊塗すれば、それだけ「自分ではどうあがいても及ばない」圧倒的な存在を自覚せずにおれない。


 人間の分際で自己絶対感を得ているひとは世の中にたくさんいるわけですが、お前らよくもまぁそこまで雑な世界理解の上で生きてられますね、とびっくりしてしまいます。いやびっくりはしねーわ、俺も割とつい最近までそんな感じでしたし。どれだけ名目として自分自身を「ゴミカスである」と語ってみたところで、それでもなお自分に対する盲信は避けがたきものでした。


 斉物論にまで至れば、荘周がどれだけ恵施をリスペクトした上で批判したのかが伝わるのですが、逍遥游を読んだだけでは、恵施に対してマウントを取っているようにしか見えません。秋水にもみられるような「及ばない思考に対するマウント」って、基本的には老荘思想的だとは思えないのですよね。だってマウントって弁別じゃないですか。弁別を拒否する莊子が盛大に弁別するとか、なんのご冗談ですかそれ、みたいに思うわけですよ。


 それともあれかな、弁別に対する拒否感こそが莊子の後継者による思考の進展なのかもしれません。つまり莊子自身はあくまで逍遥游的な思考にのみとどまり、むしろ弟子たちがその思考を発展進化させ、斉物的な思考を組み上げた、みたいな。まぁけどこのあたりって考察する意味なんて全く無くて、逍遥游斉物論を踏まえ、では俺が世界と、その世界を知覚する自分をどう解釈するのか、みたいな部分に思考を進めるべきなのですよね。


 しかし改めて思うけど、世説新語が桓温に「荊州の大牛」を語らせたのって、当時の清談に対する評価を微妙に物語っている気もしないではありませんね。つまり「無用の用ってまぁわるくないけど、それはそれとしてクソだから潰したいよね」的な。ここで沈約が宋書隠逸伝にやや辛い評価を下していたのとかも交えると、「荊州の大牛」に比定されうる南朝貴族たちに対する感情がどのようなものであったか、を間接的に示していそうな気もします。

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