第81話 再読 逍遙遊1-3
故夫知效一官,行比一鄉;德合一君,而徵一國者;其自視也亦若此矣。
故に夫れ知は一官に効ありて、行は一郷に比す。徳は一君に合し、而は一国に徴ぜる者ならん。其の自ら視ることまた此の若し。
知識なぞ一官僚に役立つものであり、ならば一地方にしか行き渡らぬ。徳行なぞひとりの君子に役立つものでしかなく、ならばその力の及ぶ範囲はひとつの国まででしかない。彼らの自任なぞ、ウズラやひぐらしが自らの分に満足していることとどう違うというのだ。
而宋榮子猶然笑之。且舉世而譽之而不加勸,舉世而非之而不加沮;定乎內外之分,辯乎榮辱之境;斯已矣。彼其於世未數數然也。雖然,猶有未樹也。
而して宋栄子は猶然と之を笑う。且れ世を挙りて之を誉うも勤を加えず、世を挙りて之を非るも沮かるを加えず、内外の分を定め、栄辱の境を弁せるは斯れなるのみ。彼れ其の世に於けるや未だ数数然たらざるなり。然りと雖ど、猶お未だ樹たざる有るなり。
この状態を宋栄子が見て笑う。かれは世の人間たちがみな讃えたとしても励もうとはしないだろうし、みな誹ってこようとも肩を落としはしないだろう。自分は自分、自分以外は自分以外、と線を引いている。何が栄誉で恥辱であるかは、自らにしか決められないことを理解しているのだ。世にあることにあくせくとはしていない。
もちろん、その処世は見事なものである。しかしそれでもなお、未だ自由である、とは言えまい。
夫列子御風而行,泠然善也,旬有五日而後反。彼於致福者,未數數然也。此雖免乎行,猶有所待者也。
夫れ列子は風に御して行き、泠然として善し。旬有五日にして後に反る。彼れ福を致す者に於いて未だ数数然たらず、此れ行くことを免ると雖ど、猶お待む所の者有るなり。
列子の風に乗って自由気ままに飛び回るさまは素晴らしい。十五日ほど飛び回り、ようやく元の場所に戻ってくる。世のありように対してどころか、自らの幸福に対してすらあくせくはしていない。
とは言え、それでもなお風に頼らねばならない。
若夫乘天地之正,而御六氣之辯,以遊無窮者,彼且惡乎待哉?
若し夫れ天地の正に乗じ六気の弁を御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼は且た悪くにか待まんとするや。
もし、ただ天地のありようにのみ従い、世に満ちる六種の気をよく操り、無限の世界の中に身を置いて心漂わせるものがいたならば、いったいなにに頼ろうとするだろうか。
故曰:至人無己,神人無功,聖人無名。
故に曰く、「至人は己なく、神人は功なく、聖人は名なし」と。
「至人に私なく、神人は功なく、聖人に名なし」と言われる。世界と溶け込んでいるものは世界と自分を弁別せず、ゆえに功名に縛られることがない。ゆえにその存在は和光同塵となり、世間に燦然とあらわれることはないのだ。
うーん、ぶっちゃけ荘子自身「ただ天地のありようにのみ従い、世に満ちる六種の気をよく操り、無限の世界の中に身を置いて心漂わせるもの」なんていねえけどな、と言う考え方のような気はするのですよね。「自分は自分、自分以外は自分以外。とは言え本来的にはすべてが繋がっている」と言った話を少しでも理解させやすいように、極端な物言いをしているような気がする。
繰り返すけど、逍遙遊における「思考」の描かれ方は、それでもなお斉物論を経てみせられた景色から比べると窮屈で仕方がない。それは結局なんなのかというと、この段階では荘子がまだ人間の視界という制限を未だ外していないからなのだと思う。逍遙遊の段階では最後までここに留まり続けるのでしょうね。
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