第32話 徳充符 3

魯有兀者叔山無趾,踵見仲尼。仲尼曰:「子不謹,前既犯患若是矣。雖今來,何及矣!」

無趾曰;「吾唯不知務而輕用吾身,吾是以亡足。今吾來也,猶有尊足者存,吾是以務全之也。夫天無不覆,地無不載,吾以夫子為天地,安知夫子之猶若是也!」


 足切りの刑に遭った、と言うか膝の件を壊されたのであろう叔山無趾が足を引きずって孔子に会いに来たところ、そんな目に遭ってからようやくわしのところに来てどーすんのじゃ、と言われたのだそうな。

 んー、まぁそうね。けど足切りの目に遭ってなお大切にしたいものもあるのでね。あんたならそういった人間も受け入れると思ってたけど、どうやら見込み違いみたいね。



孔子曰:「丘則陋矣!夫子胡不入乎,請講以所聞!」無趾出。


 やや、これはわしが悪かったです。どうぞお入りください、先生のお見聞きになったことをわしにお話しくだされば。

 そう孔子は言ったけど、叔山無趾は立ち去ってしまう。



孔子曰:「弟子勉之!夫無趾,兀者也,猶務學以復補前行之惡,而況全德之人乎!」


 このあと孔子は弟子たちに言った。「弟子らよ、勉めよ。叔山無趾のように足切りの刑に処されるような振る舞いの者でも学ぼうとしているのだ、ましておまえたちの身は全うのなのだから」



無趾語老聃曰:「孔丘之於至人,其未邪?彼何賓賓以學子為?彼且蘄以諔詭幻怪之名聞,不知至人之以是為己桎梏邪?」


 いっぽうで叔山無趾は老子に言ったのだそうな。

 孔子はそれなりの境地に達している人だと思っていましたが、ぜんぜんですな。なんでああも賢しらにしておるのでしょうな。愚にもつかぬ名声なぞ、ひとしきりの境地に到達した者にとって手枷足枷であることに気付けておらんようだ」



老聃曰:「胡不直使彼以死生為一條,以可不可為一貫者,解其桎梏,其可乎?」

無趾曰:「天刑之,安可解!」


 ふぅーむ、どうにか彼の目を覚まさすことはできないもんでしょうかね。

 天から処罰を受けとるのです、まぁ難しいでしょうな!



 ここでの振る舞いは道徳経一章の「常無欲以觀其妙,常有欲以觀其徼。」から引っ張ってる印象がある。現世に対して恬淡な態度を貫けていれば本質が見えるけど、現世での名誉に対してあくせくされていればその表層しか見えない、みたいな。うーんたぶんこれ、養生主2にのってた「古者謂是帝之縣解」=昔の人が言った『天帝よりの束縛』と同じことを言ってるんじゃないかなあ。

 こうしてみると、荘子にとっては「おれさま>老子>孔子」みたいなヒエラルキーができているのかもしれない。あるいはそれは、この本を語るに当たっての便宜的クラス分けをしておかねばならないためなのかもしれないな。「本当に正しいものなんてどこにもない」ことを言葉を尽くして語るのだけれど、そのとき聞く者 の理解の助けのためにはいくらかの階層分けがないことにはどうしようもない、的な。まぁただそれによってテキスト的には「全てのものが相反せず、ただ、ある」ことにバッティングしているように見えてくるのだけれど、荘子にしてみりゃ「うるせーお前らにもわかりやすくなるように書いてやってんじゃボケ」って感じなのかもしれない。

 まぁ、荘子もだいぶん性格悪いのは間違いが無い。

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