第12話 斉物論 8

夫道未始有封,言未始有常,為是而有畛也,請言其畛:


 道とは無限のものであり、区切りは存在しない。ならばそれを言い表している言葉にも、本来であれば制限が設けられないことになる。のだけれども、いったん言葉として使い始めてしまえば、そこにはどうしても限定的な意味合いが付与されてしまう。



有左有右,有倫有義,有分有辯,有競有爭,此之謂八德。


 左<>右。

 秩序<>等級。

 差別<>選択。

 競争<>紛争。

 これらが、そういった「限定的な区別」から生じている、とされる。なおここで言う「徳」は儒教的な徳ではなく、道教的な表現。老子では「道」がもたらす具体的な働き、として「徳」を用いている。で、荘子はそこからやや卑属的な表現にひきおろし、儒教的「徳」に対する当てこすりとして用いている感じ。「これを徳って呼んじゃうとかwwwプークスクスwww」的な。



六合之外,聖人存而不論;六合之內,聖人論而不議。春秋經世先王之志,聖人議而不辯。


 聖人と呼ばれる人たちは時間、空間の外にあるものを論じない。訳がわからんから。時間、空間の中にあるものを語りはするが、議論しようとは思わない。また歴史書に載るような内容についても、紹介はし、議論も、評価もしない。

 ここの表現は結構重要な気がします。高僧伝とかが語る「老荘の限界」が、まさにここにあるんですよね。老子にせよ荘子にせよ「いま、ここにある」以上のことを考える意味がない、踏み込むな、と語ります。けど仏教は「何故、ここにあるのか」を求めようとする。ぶっちゃけ老荘的スタンスの方が好きなんだけど、けど仏教がその先を求めようとする気持ちもわからなくはない。



故分也者,有不分也;辯也者,有不辯也。曰:何也?聖人懷之,衆人辯之以相示也。故曰:辯也者,有不見也。


 区別をつけないことが真の区別であり、価値付けをしないのが真の価値付け。ん、ううむ……? この部分の言葉はよくわかんない。

 とりあえず聖人が「すべてを受け入れる」姿勢を示す、これこそが重要である、と。けど人々は分別、区別、格付けに汲々とする。そこにばかり囚われるのは、結局本質が見えていないのだ、と。



 うぉー、これ道徳経一章から先にぜんぜん進まんぞ。いや二章の内容も含むか。「六合之外,聖人存而不論;六合之內,聖人論而不議。」の部分は個人的にすごい重要ですね。老子で言う無と有の話ですよこれ。「人間は有の輪郭からしか無を見出すことが出来ない」ってやつ。ずぶずぶに老子とクロスオーバーさせまくって読むべきだわ。ちょっと読み方変えて、手元に老子も持ってこよう。徹底的にぶつけまくった方が楽しそうだ。

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