第13話 斉物論 9

夫大道不稱,大辯不言,大仁不仁,大廉不嗛,大勇不忮。道昭而不道,言辯而不及,仁常而不成,廉清而不信,勇忮而不成。五者园而幾向方矣。


 老子の説いた「道」は何かで呼び表し切れなどしない。なのでそれに合致した言葉を発することは出来ないし、仁、清廉、勇気といったものもまた、人間が感知しうる形を取ることはない。しかしこれらの言葉尻に捕らえられ、本来すべてが円環のように相通じ合うものであるはずなのに、四角四面となり、身動きの取れないものとなりがちである。

 うーん、ここはどうなんだろうなぁ。そもそもにしてこの五つを区分することがおかしい、のほうが適切じゃないだろうか。この荘子の言はやや「斉同的」ではないように思われる。すべては「道」に融け込んであるものであって、その発露たる「徳」として辯、仁、廉、勇が見える、のほうがスマートな気がするのだが。なんでここをあえて分けてきたんだろう。「儒」へのアンチテーゼ? この頃の「儒」は既に間に孟子も挟まれてるから、だいぶ弁の面でも高められていそうな気もするし。ただ、そこで儒の概念に付き合っちゃうのは悪手だと思うんですよねー。これは老子でも思ったけど。



故知止其所不知,至矣。孰知不言之辯,不道之道?若有能知,此之謂天府。注焉而不滿,酌焉而不竭,而不知其所由來,此之謂葆光。


 ゆえに、「わからない」ところは「わからない」ままでいるのが、最高の知である。そもそも人知の届きようがないはずのものにたどり着けるのであれば、そのようなものは天に等しいというしかない。そこにはいくらつぎ込んでもあふれることがなく、いくら汲み出しても尽き果てることがないのだ。この状態を「葆光」という。

 ここも謎。いや言ってることは「道」からの引き下ろしをすればわかるんだけど、どうしてそこに「定義」を与えてしまうのか。もちろん定義を見たところで、要は老子で言う「徳」を様々な面から言い表したにすぎないし、老子で言う「有との境目から浮かび上がってくる、消去法で見えてくるだけの無」を言い表すにすぎないんですが、こういう風に定義を与えちゃうと却ってわけわからんくない?

 道の容量は「天府」と呼ぶしかなく、その性質は「葆光」なのだ、とか言われちゃうと、却ってわからんくなると思うけどなぁ。



故昔者堯問於舜曰:「我欲伐宗、膾、胥敖,南面而不釋然。其故何也?」舜曰:「夫三子者,猶存乎蓬艾之間。若不釋然,何哉?昔者十日並出,萬物皆照,而況德之進乎日者乎!」


 昔、堯が舜に言ったそうな。「反乱者どもがムカつくんで征伐してーけどモヤモヤする。なんだろこれ?」「いやあんな辺境の地のカス相手にうだうだ考えても仕方ないでしょうよ、あんたが真に聖王なら征伐するまでもなくその偉大な徳だけで焼き尽くせるでしょうに」

 これ舜、堯に対してわりとネガティブ発言してない? と言うか荘子って結構堯のこと嫌いじゃない? 荘子の人物評をひととおり引っ張り上げるのも面白そうだけど、荘子韓非子はそういうところには踏み込まないのだ。

 

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