第9話 斉物論 5

勞神明為一而不知其同也,謂之朝三。何謂朝三?狙公賦芧,曰:「朝三而暮四,」衆狙皆怒。曰:「然則朝四而暮三,」衆狙皆悅。名實未虧而喜怒為用,亦因是也。是以聖人和之以是非而休乎天鈞,是之謂兩行。


 巨視的な視点も拾わず、目の前の一つのことに汲々として、結局何もかもが「一つのこと」でしかないことに気付けぬまま疲弊する。こういった状態を朝三という。猿回しの親方が猿たちに「朝飯のどんぐりを三つ、夕方のどんぐりを四つにする」と言ったら猿が怒り、「では朝を四つ、夕方を三つにしよう」と言ったら猿が喜んだ、と言う話である。結局は一緒でしかないのに、怒る。何故だろうか。目の前のものに縛られているからではないか。ここですぐ「どちらも七つだ」と気付けるのが聖人の立場である。すべてをあるがままと見て、受け止める。これを「兩行」と呼ぶ。

 


古之人,其知有所至矣。惡乎至?有以為未始有物者,至矣,盡矣,不可以加矣。其次以為有物矣,而未始有封也。其次以為有封焉,而未始有是非也。是非之彰也,道之所以虧也。道之所以虧,愛之所以成。


 ある意味で、古の人は「知者であった」と言うべきだろう。彼らは自然そのものであった。しかし時が下るにしたがって「世界」を意識し始めた。もっともそのときはまだ自他の区分までには至らなかったであろうが。しかし更に下ると自他の区分、すなわちものの優劣という考え方が発生した。ここで人間は「道」から離れ、執着を手にした。



果且有成與虧乎哉?果且无成與虧乎哉?有成與虧,故昭氏之鼓琴也;無成與虧,故昭氏之不鼓琴也。


 さて、人間が道から離れたところで、道の意義が欠けるだろうか? 結論から言えば、そのようなことはない。

 音楽の名人、昭文が妙なるメロディを奏でたとする。となるとこのとき昭文の奏でなかったメロディは失われた、と言うことになる。ここに昭文の演奏、すなわち人間の作為こそが「失われる」ことを生み出したことになる。



昭文之鼓琴也,師曠之枝策也,惠子之據梧也,三子之知幾乎,皆其盛者也,故載之末年。惟其好之也,以異於彼,其好之也,欲以明之。彼非所明而明之,故以堅白之昧終。而其子又以文之論論緒,終身无成。


 昭文の音楽、師曠の作曲、惠施の思考。いずれもが人間の及びうるうちの到達点と言っていいだろう。ゆえにこそその名が残っている。しかし思うに、自身がその才能に溺れ、他とは隔絶したもの、至上の価値であるがごとく人々に示そうとしてしまった。人間の枠では決してそのような境地になど到達しようがないのに、である。ゆえに恵施の論は詭弁としてのみ伝わった。理解されずに終わった。昭文が自らの理論を子に伝えてみても、子は親の教えに縛られて大成すること叶わなかった。



若是而可謂成乎?雖我亦成也。若是而不可謂成乎?物與我無成也。是故滑疑之耀,聖人之所圖也。為是不用而寓諸庸,此之謂以明。


 もし昭文らの到達した境地を「成果」と呼ぶのであれば、いま我々がなしていること、すべても「成果」と呼ばれるべきであろう。そこに欠損を語り始めればまた、すべての事柄に欠損がある、と言う話にもなってしまう。「和光同塵」と老子は語ったが、この言葉は「滑疑の耀」とも呼べるかも知れない。すなわちありとあらゆるものを照らす輝きではなく、様々なものがあたりに転がっている中でも、確かな輝きを示す、と言う考え方である。




 オゲーーーー、荘子はこれ、いやでも超訳してかないと理解できなさそうだ。まぁ楽しいからいいんですが。ここの話は「みんな違って、みんないい」と表層的に捉えてもいいけど、「みんな違って、みんな無価値」もちゃんと後ろにしのばせた上で言わないといかんよね、もしくは「みんな違って、みんなどうでもいい、と言うより目の前の一つに囚われすぎるだけ無駄」みたいな。


 はい。そういう境地になってみたいです。

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