二  斉物論

第5話 斉物論 1

南郭子綦隱几而坐,仰天而噓,嗒焉似喪其耦。顏成子游立侍乎前,曰:「何居乎?形固可使如槁木,而心固可使如死灰乎?今之隱几者,非昔之隱几者也?」

子綦曰:「偃,不亦善乎,而問之也!今者吾喪我,汝知之乎?汝聞人籟而未聞地籟,汝聞地籟而未聞天籟夫!」

子游曰:「敢問其方。」

子綦曰:「夫大塊噫氣,其名為風。是唯无作,作則萬竅怒呺。而獨不聞之翏翏乎?山林之畏隹,大木百圍之竅穴,似鼻、似口、似耳、似枅、似圈、似臼、似洼者、似污者;激者、謞者、叱者、吸者、叫者、譹者、宎者、咬者,前者唱于而隨者唱喁。泠風則小和,飄風則大和,厲風濟則衆竅為虛。而獨不見之調調,之刁刁乎?」

子游曰:「地籟則衆竅是已,人籟則比竹是已,敢問天籟?」

子綦曰:「夫吹萬不同,而使其自已也,咸其自取,怒者其誰邪!」



 南郭子綦も顏成子游も架空の人物なんですって! どういうことやねん! いやもしかしたら実在してたけどその伝記が散逸しただけかもしれんけどさ!

 ともあれここでは、子綦が「ひとの奏でる音楽」「大地の奏でる音楽」の境にあって陶然としているところを、弟子の子游に「あれ、師匠なんかいつもと違いますね!?」と言われたそーなんである。そこで子綦、弟子に対し「ひとの発する音楽は聴いたことがあろうが、大地の発する音楽は聴いたことがあるかな? 大地の発する音楽を聴いたとして、天の発する音楽は聴いたことがあるかな?」と、ほぼほぼ難解な謎かけと言うに相応しい呼びかけをしてくる。

 そこで様々な音の種類が語られるわけだけれど、そこに語られるのは(人の奏でる音楽はおそらく自明のものとして扱った上で)地の音楽についての解説のみ、天の奏でる音楽については触れられない。

 条の最後で子綦は「大地の奏でる音楽は様々な種類があるのだが、そもそも「何者か」が奏でさせようとし、耳に届けようとしているのだ、と語る。さて、それは誰なのだろうか?


 斉物論は「あらゆる物事はいろいろ違った形を取るけれど、根本の所では同じ」と話が収斂されていくはず。後段でここの投げっぱなしジャーマンが解消されるのかしら。やや不安ではある。

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