第20話 新種の魔物がいるらしい
ウィニングは八歳になった。
正確には八歳と半年強。あともう少しで九歳になる。
ウィニングが自由に生きるか否か、それを決めるための成果発表会は、ウィニングが九歳になる誕生日に実施すると決めてある。
期日まであと半年。
そろそろ追い込みをかけるべきか、とマリベルは考えていた。
「おーい! マリベルさーん!!」
コントレイル子爵領の街で買い物をしているマリベルに、領民の男が声を掛けた。
かれこれ一年半もこの街で暮らしているのだ。マリベルの存在は、既に領民にも知れ渡っていた。
「どうかしましたか?」
「ちょっと魔物について相談に乗ってほしいことがあってな。よければ来てくれねぇか? マリベルさんは凄腕の魔法使いだから、手伝ってくれると頼もしい」
「分かりました。凄腕なので行きましょう」
マリベル=リスグラシュー(22歳)。
未だ承認欲求が衰えることはなかった。
この手の相談は十日に一度くらいされる。そして、その全てを訓練の空き時間に対処していた。
おかげで領内のマリベルに対する好感度は天井知らずである。
「それで、具体的に何があったんですか?」
「ああ……実は、最近この領内に新種の魔物が出没しているみたいでな」
「新種の魔物?」
それは穏やかでない。
新種の魔物となれば、対策も一から考えなければならない厄介な相手だ。気候変動などによって生息地が変わるか、何らかの原因で既存の個体が特殊な進化を遂げたか……大抵、新種の魔物が現れる時はこのようなケースである。
しかしそれ以上によくあるのは、勘違いだ。
新種の魔物はそう簡単には現れない。既存の個体が、怪我などで見た目が変化するとよく間違われる。
「見てくれ、コイツを」
領民の男が、目の前の地面を指さした。
その地面は一直線上に大きく抉れている。まるで巨大な槌を叩き付けながら進んだかのような、豪快な足跡だった。
「これは……」
「コイツはその魔物の足跡だ。……恐ろしい規模だろう? 地面を抉りながら辺り一帯を走り回ってるんだ」
男は戦慄した様子で語った。
「目撃情報もある。なんでも、細長い魔物らしい。頭の方は灰色で、白くて長い胴体を持っているとか。……一瞬しか見えなかったらしいから、相当、速く動く魔物だぜ」
ひょっとしたらこの辺りに縄張りがあるのかもなぁ、男は呟く。
そんな男に対し、マリベルは申し訳なさそうな顔をした。
「……すみません」
「? なんでマリベルさんが謝るんだ?」
「いえ……もう、本当に……すみません……」
マリベルは胃痛を我慢した。
◆
その魔物が二度と現れないよう善処します……そう告げて男と別れたマリベルは、主従訓練でよく使っている森に移動した。
本来、主従訓練は半年だけ行う予定だったが、ウィニングへの指導を延長することにした結果、主従訓練そのものも延長することにした。ただし、流石にシーザリオン家とファレノプシス家からは延長分の報酬金を貰っていない。子爵であるコントレイル家ならともかく、ただの家臣に過ぎない両家は、マリベルを一年半も雇う資金がなかった。
マリベルは報酬なしでも訓練を延長していいと両家に主張したが、それぞれの当主は遠慮して、最終的には週二回だけ訓練を行うという形に落ち着いた。
空いた時間の分だけ、ウィニングへ個別指導する時間が増えた。
その結果……ウィニングは、爆発的に成長した。
「ウィニング様!」
森の中心で、マリベルは叫ぶ。
「ウィニング様ーーーー! すぐ来てくださーーーーーい!!」
マリベルは声を張り上げる。
しかし返事はなかった。
「もうっ! ――《
マリベルは上空に水を噴射した。
一直線に昇る水は、やがて青空に鮮やかな虹を描いた。
領民たちは、偶にコントレイル家の館か森の近辺で現れるこの虹を、きっと訓練で何かしているんだろうなぁ……と考えていた。
しかし実際は違う。
これはただの照明弾だ。
常にどこかを走り回っていて、もはや探すことすら一苦労の少年――ウィニングを呼ぶための合図だった。
「ウィニング様――――」
「――なんですか先生!?」
もう一回叫ぼうとしたマリベルの背後に、ウィニングが突然現れた。
遅れて風が巻き上がり、マリベルの長い髪をふわりと持ち上げる。
もはやマリベルですら視認できない速さだった。
しかしその光景にすっかり慣れているマリベルは、動揺することなく――。
「ウィニング様! 足跡!! 足跡がついてます!!」
「え? ……あれっ!?」
マリベルが指さす先を見て、ウィニングも驚愕する。
ウィニングの通り道となった地面は激しく抉れていた。
それはまさに、マリベルが領民に見せられた魔物の足跡と全く同じ形をしている。
「気をつけてくださいね。ウィニング様が走ると災害みたいになるんですから。……新種の魔物が出たと勘違いされてましたよ」
「……すみません」
ウィニングが申し訳なさそうに視線を下げた。
灰色の髪に白色の服。なるほど、これが魔物の目撃情報に繋がったのだろうとマリベルは納得した。細長い胴というのは、恐らくウィニングが走った際にできた残像のことだ。
後にこの噂を聞いたウィニングは「俺は……スカイフィッシュだった……?」としばらく混乱する。
この一年半でウィニングは更に速くなった。
より魔法を活用できるようになったというのも理由の一つだが、何より身体の成長が大きい。
マリベルも時偶忘れそうになるが、ウィニングはまだ子供である。
成長期は訪れていないが、ただでさえ異様な魔力回路を持つウィニングの場合、些細な成長でも劇的な変化が起きた。筋肉の量は増えたし、足の長さも伸びている。スタミナだって向上した。それらはウィニングの魔力回路と相乗効果をもたらし、ウィニングの走りを飛躍的に進化させていた。
「でも一応、セーブしていたつもりなんですけど……」
「……ウィニング様、自分の足を見てください」
溜息交じりにマリベルが言う。
言われた通り、自身の足元を見たウィニングは首を傾げた。
「靴が、消えた……?」
「また壊れて脱げたんでしょう」
ウィニングに履かせていた靴は魔物の素材を惜しみなく使った高価なもので、衝撃を和らげる性能があった。
今まではそれを履いていれば地面を傷つけずに走ることができていたが、どうやらその靴もウィニングの脚力に耐えられなかったらしい。
靴が壊れても気づかないくらい、《身体強化》を発動した時のウィニングの足は頑丈だ。
その頑丈な足で何の対策もせずに走ってしまえば、地面が抉れてしまう。
「替えの靴が必要ですね。うーん……でもこれ以上、丈夫なものは中々見つかりませんよ」
既に何度も靴を替えた後だ。
今回の靴だって領内で随一の職人に作ってもらった特注品である。
それ以上のものとなると、少し入手するまで時間がかかるかもしれない。
「いい職人がいないか誰かに聞いてみます。私が戻ってくるまではいつもの瞑想をしてください」
「分かりました」
ウィニングが目を閉じる。
瞑想によるトレーニングは、ウィニングの魔力回路を更に発達させた。
体内に宿る魔力を筋繊維の一本一本にまで浸透させていく。一度魔力を浸透した箇所には、次からより浸透させやすくなり、それは繰り返すほど如実に効果を発揮する。
これが魔力回路を発達させる手順だ。
魔法使いにおける瞑想とは、この魔力回路を発達させるためのトレーニングを指す場合が多い。
一分と経たずに、ウィニングは瞑想に集中した。
そんなウィニングに、マリベルは声を掛ける。
「ウィニング様」
「はい?」
返事をするウィニングに――マリベルは杖を振った。
刹那、計五十本の《
激しい衝撃が地面を揺らした。
水飛沫が辺りの木々を濡らす。
全ての《
とん、と小さな着地音がマリベルの背後から聞こえる。
マリベルが振り返ると、そこには無傷のウィニングが佇んでいた。
「……お見事。ついに不意打ちでも、掠りさえしなくなりましたね」
「先生のおかげです!」
ウィニングは頭を下げ、瞑想を再開した。
実戦は模擬戦と違って「よーいどん!」では始まらない。大抵、いきなり襲い掛かるか、いきなり襲われるかのどちらかで戦いが始まる。この理由から、マリベルは訓練中でも時折ウィニングに不意打ちを仕掛けることがあった。
しかしウィニングにはもう不意打ちも通用しない。
ウィニングは、マリベルでさえ倒すことが困難な相手になっていた。
(まだ子供ですが……ほんのりと、凜々しくなってきましたね。こうして集中している時は特に大人っぽく見えます)
瞑想するウィニングの横顔を、マリベルはぼんやり眺めた。
一つのことに本気で打ち込む人間というのは、こうもかっこいいのか。
(…………もっと一緒にいたいなぁ)
あと半年でお別れだなんて、寂しすぎる。
いつの間にかウィニングに見惚れていたマリベルは……少ししてから我に返った。
(いけません、いけません……私はなんてことを。ウィニング様はまだ八歳……もうちょっとで九歳ですけど……)
マリベルは美貌の持ち主だが、とにかくエマに対するコンプレックスが強かったため、今まで色恋にかまける暇がなかった。
しかし今、マリベルはそのコンプレックスから解放されつつある。
そして、解放してくれた本人であるウィニングに、少なからず好意を抱いていた。
(ウィニング様が成人する頃には、私は三十二歳。………………若返りの魔法とか、ないんでしょうか)
マリベル=リスグラシュー(22歳)。
恋愛初心者の彼女でも、流石にこの性癖はマズいと分かってるので、悪あがきを画策していた。
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