第3話 地道な練習
ウィニングは五歳になった。
この五年間、とにかく色んなことがあった。
一度目の人生では、五歳の頃の自分が何をして何を考えていたのかなんて全く覚えていない。しかし今回の――二度目の人生は赤ん坊の頃から意識がはっきりしていた。
だから気づいたが、人間は赤ん坊のうちから色んなことをしている。
誰もが覚えていないだけで、赤ん坊はハードスケジュールをこなしているのだ。
特に面倒だったのは挨拶回り。
ウィニングは親に抱かれて移動するため体力的な負担はなかったが、父がウィニングのことを色んな人に自慢したがったので精神的に疲れた。貴族だからきっと挨拶も大事なのだろうが、ウィニングはこの五年間で恐らく百人以上の大人と顔を合わせている。流石に疲れた。
それから、両親に言語を教えてもらった。
地球で身に付けた母国語が邪魔して、こちらの世界の言語には中々馴染めなかったが、やることがなかったのでひたすら集中して学んだ結果、同世代より遥かに多くの語彙を身に付けることができた。
本当は隙あらば走り回りたい。そんな欲求もあった。
しかしウィニングにはトラウマがあった。
生後一ヶ月の頃、ウィニングは不思議な力を使って立ち上がったが――実はあの後すぐに倒れ、熱を出してしまったのだ。
それは生死を彷徨う苦しみだった。
ウィニングは、生まれて初めて死を意識した。
無理をしてはいけない。
下手すると、今度は足どころか心臓が動かなくなってしまう。
だからウィニングは、あの不思議な力に頼らなくても自然と立ち上がれるまでは、絶対に走らないでおこうと決めた。
そんな誓いを立てて早数年。
五歳になったウィニングは――自分の力で走れるようになっていた。
「ウィニング! そろそろお昼ご飯よーー!」
「はーーーい!」
昼食を作っていた母が、庭に出てウィニングを呼ぶ。
「いやっほーーーーーーっ!!」
ウィニングは、芝生が一面に敷かれた庭を走り抜けながら家に向かった。
伊達に貴族ではない。ウィニングが走る庭は広大で、見晴らしがよかった。端の方にはベンチやブランコもあるが、それらをウィニングが使ったことは一度もない。
自力で立てるようになってから、ウィニングは毎日のように庭を走っていた。
何度走っても飽きない。朝、目を覚ましてから夜眠るまで、体力が尽きるまで常に走り続けたい。そんな気持ちが止めどなく溢れ出ている。
「ウィニングはわんぱくねぇ」
走る息子を見て、メティは癒やされていた。
「母上! もう一回走ってきていいですか!」
「お昼ご飯が終わってからにしましょう」
まだ走り足りないウィニングは「ちぇっ」と唇を尖らせはしたが、母の言葉には従った。
母はいつもおっとりしていて穏やかな性格だが……怒るととても怖いのだ。
母と共に、長い廊下を歩いて食堂へ向かう。
そこには小さな先客が二人いた。
「にーちゃ!」
「にーちゃ!」
二人の男女が目を輝かせてウィニングに近づいた。
「はいはい、兄ちゃんだぞー」
ウィニングは弟と妹の頭を撫でる。
レイン=コントレイルと、ホルン=コントレイル。二人は二年前に生まれた双子だった。
レインは父、兄と同じように灰色の髪で、ホルンは母と同じく明るい橙色の髪をしている。
前世で兄妹がいなかったウィニングは、この二人を心底可愛がっていた。
走ることの次に愛している。
「メティ、飲み物を用意してくれるか」
その時、フィンドが言った。
するとメティはコップの前に手を翳す。
「水くらいなら
メティの掌が水色に輝く。
掌の前に水球が現れ、ぽちゃりとコップの中に落ちた。
コップの中には、透明な水が揺らめいている。
――魔法。
この世界には魔法が存在する。ウィニングがそれを知ったのはつい最近だ。
父はあまり使わないが、母は今みたいに偶に使う。
母が掌を前を出すと空中に水が現れるのだ。普段はそれを飲み水を出したり、洗濯で使う桶に溜めたりしている。
心躍る光景だ。
走ることの次に興味がある分野である。
「いただきます」
その後、すぐに父も合流して五人で食事を楽しんだ。
食事が終わった後、ウィニングはすぐに立ち上がる。
「にーちゃ!」
「ごめんよ。そろそろお兄ちゃんはお勉強の時間だ」
弟と妹はウィニングと遊びたがったが、ウィニングはこれを葛藤の末、断った。
昼食が終わった後――ウィニングはいつも魔法の勉強をしていた。
食べ物の消化中に走ると腹痛がするため、他のことに集中するしかなかったのだ。
「母上。魔法の教科書が読みたいです」
「分かったわ。……はい、これね」
魔法は扱い方を誤れば、極めて危険な武器になる。
だからウィニングが魔法を学ぶには毎回親の許可が必要だった。魔法に関連する本は、親が手渡しした物以外は読んではならないルールだ。
「ウィニング、読み聞かせてあげましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
そう言ってウィニングは、黙々と読書を始めた。
しかしその前に顔を上げ、
「母上。そろそろ俺も、魔法を実際に使ってみたいです」
「うーん……でも魔法は危険だし、六歳までは座学だけで我慢してちょうだい? 他の家庭でも同じなのよ」
「………………分かりました」
ウィニングは子供らしくない複雑な顔で頷き、読書を再開した。
◇
黙々と読書するウィニングを、メティとフィンドは見守っていた。
「ウィニングはきっと天才ね。まだ五歳なのに受け答えがしっかりしているし、それに魔法に対する興味も凄いわ。将来はとんでもない魔法使いになるわね」
メティは嬉しそうに呟いた。
しかし、
「……メティ。あまりそういうことは言わない方がいい」
フィンドは、ウィニングに聞こえない声量で告げる。
「知っているだろう、ウィニングの紋章は三級だ」
四年前、ウィニングは「紋章の儀式」を行った。
紋章とは、人間が凡そ一歳になると、身体の何処かに刻まれる刺青のようなものだ。その紋章を見つけて解析することを「紋章の儀式」と呼ぶ。
儀式なんて仰々しい名前で呼ばれているが、実際には専門家に紋章を軽く見てもらうだけのこと。
しかしその行事は、今後の人生を大きく左右するものだった。
紋章の模様によって、その人物の魔法使いとしての才能が調べられる。
ウィニングの才能は――大したものではなかった。
「風と火の二属性持ちだと知った時は私も興奮したが、紋章自体が三級ではどちらも満足に使えない。……あの子には、魔法ではなく政治について学んでもらおう。なに、魔法など使えなくてもいい領主にはなれる」
紋章には一級から四級までの等級があり、数字が小さいほど優れている。
ウィニングの紋章は三級……下から二番目だった。
四級と比べると魔法は使えるが、紋章の絶対数は二級が一番多い。
よって三級は、活躍の場が殆ど二級以上の者に奪われてしまうため、魔法使いとして生計を立てることが難しい等級なのだ。
紋章からは、その人物が使いこなせる属性も読み取ることができる。
ウィニングは火と風の二属性持ちだった。複数の属性が使える者はかなり珍しい。これだけならウィニングには魔法使いの才能があると言える。
だが、如何せん紋章自体が弱いため、たとえ複数の属性が使えても、これでは使いこなせない。
父フィンドは、長い葛藤の末、残念ながらウィニングに魔法の才能はないのだと認めた。
しかし、母メティはまだ諦めていなかった。
「あなた、それは時期尚早では? ウィニングはあんなにもやる気を見せているのに」
「魔法は才能の世界だ。……残酷だがな」
フィンドは苦虫を噛み潰したような顔で告げた。
フィンドとて、できればウィニングを応援したいのだ。しかし紋章が――絶対的な才能の壁が冷や水を浴びせてくる。
メティも、そんなフィンドの心境を察してか、これ以上の反論は止めておいた。
◆
(あ~~~!! 早く実践したいな~~~~!!)
ウィニングは本を読みながら、溢れ出る衝動を必死に堪えていた。
既に知識は頭の中に入っている。正直、やろうと思えばすぐにできる気がした。
しかし無茶はしない。
五歳の身体は脆いのだ。またこの前みたいに寝込んでしまっては困る。
だから今はひたすら我慢して、自分が覚えるべき魔法を考える。
(やっぱり一番は身体強化魔法だなぁ。無属性の魔法だから簡単に習得できるし、何よりこの魔法を使いこなしたら今まで以上に走ることが楽しくなるぞ……!!)
身体強化魔法が可能になると、この小さな肉体でも成人並みの速度で走ることができる。
頭の中で夢を膨らませていると、ふと視界の片隅で両親が話し込んでいるのが見えた。
(最近、俺が魔法の勉強をしているとよく話すようになったな。……多分、俺の紋章が三級だからだろうなぁ)
ごめんなさい。俺は立派な魔法使いにはなれないみたいです。
しかし代わりに弟と妹はどちらも二級の紋章を持っているので、魔法使いとしての名誉はあの二人に譲ろう。
どうせ才能はないのだ。
ならせめて、好きにやらせてもらう。
(魔法を教えてもらえるのは一年後。その前に綿密な計画を立てるんだ。……最初の方針としては、速さとスタミナを無限に伸ばしたい)
世界中を自由自在に駆け回るためには、その二つが不可欠だと思った。
しかし、その二つを極めるにはどれだけの時間がかかるだろうか。
できれば早めに手に入れたい。
(だから、せめて魔力のコントロールだけはやらせてもらおうかな)
ウィニングは体内に宿る不思議なエネルギーを操作する。
魔法の燃料である魔力は、人間の体内に蓄積されると本に書いていた。
これこそが魔力なのだろう。
地球では感じたことのない、不思議なエネルギーだ。
ウィニングはこれを毎日適当に操って訓練していた。右半身に魔力を寄せたり、左半身に魔力を寄せたり、上半身や下半身にも寄せたり、指先に集中して集めたり……。
最初はここまで上手く操作できなかったが、ここ数日でようやくコツを掴めたところである。
魔法は使っていないから、父や母に後ろめたい隠し事があるわけでもない。……まあ、敢えて言う必要もないと思うので黙っているが。
そしてウィニングは、一つの答えにも至っていた。
(生後一ヶ月で俺が立った時の、あの不思議な力……あれは魔力だったんだな)
この魔力を更に膨らませて、全身を包めば、恐らくあの時と同じように力が漲るはずだ。
きっとそれが魔法を発動するための条件だったのだろう。
どうやら自分はあの時、無意識に魔法を発動していたらしい。
(でも……微妙に感触が違うような)
あの時に感じたものが魔力だとしたら、今、自分の体内にある魔力とは感触が異なっていた。
あの時に感じた魔力は、自分の体内からではなく……どこか
まあ、いいや。
分からないことは一旦保留にしておく。なにせこの世界は地球とは違うのだから、たとえ精神年齢が大人だとしても解明できないことが多すぎる。
(足。とにかく足だ。足に思いっきり魔力を流せるようにしておこう。骨と筋肉、皮膚と爪……全部に流す。きっとこの技術は魔法を使う時、役に立つぞ)
起きて朝食を食べたら、体力が尽きるまで庭を走り回る。
昼食を食べたら、本で魔法の勉強をしながら魔力のコントロールを練習する。その後、夕食までまた走り回る。
そんな日々が、長く続いた。
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