第2話 立ち上がる
コントレイル子爵家に生まれた男児ウィニングは、よく泣く子供だった。
赤ん坊はよく夜泣きをする。そのせいで育児をする者は夜な夜な叩き起こされ、睡眠時間を削りながら赤ん坊を寝かしつけなければならないわけだが……ウィニングは夜泣きをしなかった。
代わりに、よく分からないところで泣いた。
「ふおー、むおー」
(あぁ……はいはいができるって、素晴らしいなぁ)
両手と両足を使いながら、床を進む。
己の足で進む感覚を、ウィニングは噛み締めた。
「おぎゃーー! おんぎゃーーあ!!」
「あらあら、またウィニングが泣いているわ」
「ううむ、怖い夢でも見たんだろうか」
両親が心配して近づいてくる。
いけない、また感激のあまり泣いてしまった。
見た目は赤ん坊でも、精神年齢は赤ん坊ではないのだ。人前で泣くことが恥ずかしいという一般的な感性は残っている。
「ウィニングは本当に可愛いわねぇ」
「ああ……それに理知的な目をしている。きっと将来は優秀な領主になるぞ」
親バカな両親がウィニングを見つめていた。
父の名はフィンド=コントレイル、母の名はメティ=コントレイルと言うらしい。
父は髭が立派な灰髪の青年だった。母はサラリとした橙色の長髪が美しい女性だった。
ウィニングは父の影響を受け、灰色の髪を生やしていた。
ウィニングは母の髪を見る。灰色はともかく明るい橙……地球ではあまり見たことのない髪色だった。
(取り敢えず、この世界がどう考えても地球じゃないことは分かったぞ)
ウィニングはまだこの世界の文字が認識できない。
しかし以前、両親であるフィンドとメティがテーブルに地図を広げていたので、それをこっそり盗み見した。
絶句した。
その地図には、ウィニングが全く知らない大陸と国が記されていたのだ。
明らかに自分の知る世界ではない。
ここは――異世界だ。
(……なんで俺、転生したんだろ?)
ウィニングには、転生の直前の記憶が抜けていた。
地球での日々はちゃんと覚えている。足が不自由なため、両親はなるべく屋内で過ごしてほしいと言っていたが、ウィニングはたとえ車椅子でしか動けなくても外に出るのが好きだった。
その日は確か学校を休んで病院に通っていたはずだ。
いつも通り、車椅子に乗りながらぼんやりと外の景色を眺めて――やっぱり走りたいなぁ、なんてことを考えていた。
そこから先の記憶がない。
気づけば自分は、異世界に転生していた。
地球にいた頃の自分はどうなったのか、死んだのだろうか、というかそもそも転生って実在したのか、などなど色々考えるとキリがないが――。
(まあいっか!)
今がよければそれでOK。
この世界ではきっと走ることができる。
ずっと叶えたかった夢が、実現できるのだ。他のことなんてどうでもいい。
「フィンド様、メティ様。お客様が――」
「ああ、もうそんな時間か。すぐに出るから応接間へ通してくれ」
「畏まりました」
穏やかな雰囲気が、少し忙しないものに変わる。
コントレイル家が貴族の家であることも、ウィニングは把握していた。というのも、このように客が訪れることが何度もあったのだ。その客が父と母のことを子爵と呼んでいたため、爵位の確認もできた。
今のところ兄妹はいないので、ウィニングは自分が子爵家の長男に生まれたことを悟る。
貴族の長男と言えば、色々と面倒な制約を受けそうだが……。
(まあ、今はそんなことより走ることだ)
とにかく走りたくて仕方ない。
もう、はいはいだけでは満足できなかった。
(まずは、せめて立ち上がりたいけど……っ)
筋肉がないためか、どれだけ力を込めても立ち上がることはできなかった。
積み上がった本を支えにして立とうとしても、腕に力が入らない。
もう少し時間が経つのを待つべきだろうか?
――いや。
幸いこの無力感には慣れているので、どれだけ失敗しても心が傷つくことはない。
挑戦するだけなら
立ち上がりたい。
そして、走りたい。
そんなウィニングの意志に呼応するかのように――不思議な光が現れた。
(なんだ、これ……? 変な光が、全身に纏わり付いてるような……)
虹色の光が、ウィニングの全身を――特に足の周りに集まった。
直後、変化が起きる。
(お? おお……っ!? 身体に力が湧いてくる……っ!?)
今ならきっと――立ち上がれる!
積み上がった本を支えにする必要すらない。
ウィニングはゆっくり、焦ることなく、丁寧にバランスを取りながら――その二本の足で立ってみせた。
「おぎゃーー!!」
(やったーーー! 立ったぞーーーーーーーー!!)
本当は拳を握り締めて天に突き上げたかったが、腕にはあまり力が入らなかった。
ただ、それでも嬉しい。嬉しすぎる。
初めてだ。
前世と今世を合わせても――初めて、自分の足で立つことができた。
「ウィニングー! どこで泣いているのー!?」
いつもより大きい泣き声を聞いて、心配性な母メティが駆けつけてくる。
「おぎゃあーー!」
「ああよかった。まったく、いつの間にこんなとこ、ろ、へ――――」
怪我一つないウィニングを見て、メティは胸を撫で下ろした。
だが次第に、その目を見開き――。
「フィンド!! フィンドーーー!!」
「どうしたメティ! 何かあったのか!?」
「ウィ、ウィニングが、立ってるわーーー!!」
「なにぃっ!?」
ドタドタドタ、とフィンドが足音を立てて駆け寄ってくる。
「た、立つって……そんな馬鹿なっ!?」
フィンドは、実際に仁王立ちしているウィニングを見て、目を見開いた。
それはフィンドとメティにとって、有り得ない光景だった。
「まだ
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
感極まって泣きじゃくるウィニングを、両親は口をポカンと開けて見ていた。
この日を境に、両親や使用人たちのウィニングを見る目が変わる。
ウィニングは天才なんじゃないか……?
誰もが同じことを思った。
――紋章が現れるまでは。
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