第55話 イヤン旅行

 立ち昇る豊かな湯気が、丸い月を翳(かげ)らせる。ボヤリと眺めるタケルは、夜空に視線を向けたままだ。その姿勢をかれこれ5分、10分と続けていた。


 満点の星空が煌めく露天風呂だ。誰しも見上げた景色に見惚れる事だろう。もっとも、タケルの場合は無闇に視線を下げられない制約により、であるが。



「どうかね飯場君。研究所イチオシの保養所は。風呂も食事も一級品だと評判だぞ」



 通話相手はノボルだ。聞こえてくる快活な声に、タケルは生返事で応えた。今ちょうど入ってますよ、と。



「それから264号、もといニーナ君に実装した拡張パーツの具合は? 私自らが調整したのだ、問題ないと思うのだが」


「ええ。それはもう、順調みたいです」



 タケルはちらりと横目を振った。そこでは、同じ湯船に浸かるニーナの笑顔が咲き乱れ、傾げた小首が後れ毛を垂らした。一糸まとわぬ姿だ。視線の角度を誤れば、タケルの平常心は霞になって消え失せるだろう。


 先日の騒動後、すぐに話し合いの席が用意された。研究所側の法務部が提示した和解条件は、こちらにとって相当有利な内容だった。差し当たってタケルには和解動画を公開し、今後は騒動を蒸し返さない事が課せられた。円満解決だと公言して欲しいと。


 それに対して研究所側のお詫びは盛り沢山だ。まずは保養施設の旅館に無料ご招待。自慢の露天風呂とA5和牛を心ゆくまで愉しめる豪華プラン付きだ。学生の身分では到底味わえない贅を、一夜にして体験することが可能である。



「ノボルさん、ニーナです。使用感なら完璧です。もはや水気など怖くありません」


「そうかね。気に入ってもらえたらしいな」


「もちろん。それはもう」



 お風呂でウフフ。和解の一環に渡されたのは拡張パーツだった。経緯としては、何か好きな物をと尋ねられ、せっかくだからニーナに任せた結果がコレである。タケルが別物を促しても無駄だった。極めて珍しい事なのだが、ニーナは頑として譲らなかった。


 そうして実現したのが、この2人きりの混浴である。湯を弾いては煌めくスマホボディは妖艶だ。更には抜群のプロポーションが、見る者の心を狂わせる。大きな胸元は脇を締める事で深さを増し、膨らみの間に潮溜まりらしき隙間まで生成された。微かに触れでもしたなら、あらゆる理性を打ち壊すだろう威力が、そこにある。


 タケルが少し手を伸ばせば届く。波打ち際も、沖まで出るもお気の召すまま。どう振る舞ったとしても嫌がられるどころか、柔和な笑みで受け止められる事は確実だ。あとは一線を飛び越す勇気だけあればいい。


 そこまで見えている純朴青年は、艷やかな肌には目も向けず、ただ空を眺めるだけになる。



「それはそうと、研究所は被害届を出さんらしいな。我々が騒がした分を不問にするとの事だ」


「話し合いの席で聞きましたよ。警察沙汰にならないのは素直に嬉しいです」


「だがなぜか、会社ロビーと社用車の破損については色々言われてね。私は向こう半年ほど減俸処分だよ。そこに道交法違反までも追加だ。解せぬ」


「身から出たサビでしょう。嬉々として壊したんだから」


「もっとも、所長の処分よりは遥かにマシだがな。彼は既に左遷されたぞ、アラスカ支局に」


「アラスカ支局って、一体どんな事してるんですか」


「詳しくは知らん。もっぱらラッコやアザラシのご機嫌伺いだと聞いた事はあるが」


「まぁ、僕から遠ざけてくれただけで安心ですけどね」


「彼も2度と悪さしようとは思うまい。過酷な環境と愛くるしい動物たちが、余分な感情を削ぎ落とすだろうからな」



 ノボルは快活に笑いながら話を続けた。今や研究所内の風当たりが変わり、スマホにも人権を与えようとする機運が高まっているという。差し当たって契約者の身分確認や、スマホ少女との面談を必須化する方向で進めると息巻いた。実現するかは定かでないが、彼の覇気は十分だった。



「それにしても飯場君。君は凄まじいコネクションを隠し持っていたな。驚嘆に値するぞ」


「何の話ですか?」


「言わずもがな、安里のお嬢さんだ。まさか昵懇(じっこん)の仲とは思いもしなかった」


「彼女は単なる友達ですよ、たぶん……」



 その言葉が呼び水となったか、浴場の入口が騒がしくなる。そしてスライドした木戸から、タオル1枚という軽装の少女が姿を見せた。わざわざ見るまでもない、安里のお嬢さんである。


 彼女の誇る美貌はニーナと比べても遜色ない。強いて言えば、タオルの端から覗くフトモモに若干、お菓子食べすぎた感を漂わせるくらいだ。



「お待たせタケル君。入浴中の、ながらスマホはマナー違反じゃない?」


「そうかな、そうかも?」


「そんな訳でニーナさん。後は私に任せて、アナタはロビーで待ってて。小一時間くらいで戻るから」


「無用なお世話です。今や防水加工も万全で、人間も同然なのです。すなわち、この様にして湯を楽しんでも良い。そうですよね、タケル様?」


「そうかな、そうかも?」



 タケルに最早、判断力など残されていない。のぼせたやら、恥ずかしいやら、たわわ祭りやらで思考がボヤリとするのだ。たとえ周囲が2人の美女による口論で冷え込んだとしても、頭を冷ますまでには至らない。



「問答無用よニーナさん。今日こそは隣を譲って貰うから!」



 イナが覇気を漲(みなぎ)らせて駆け出した。風呂場で走るのはマナー違反ではないのか。そんなツッコミを許さぬ程に素早い動きだった。


 しかし、危険行為は良くない未来を示した。イナの足は盛大に滑り、体が宙を舞う。そして慣性に任せるまま、タケル目掛けて一直線。奇しくも角度は絶妙で、タオル越しの胸を押し付ける格好にも見えた。


 反応が遅れたタケル。その顔にムニュんとした衝撃。押されるままに退がれば後頭部に、今度はニーナのモニュんとした柔らかさを実感。そうして4つのムニッムニに挟まれた。ここがタケルの限界点だった。


 滾(たぎ)りに滾る熱い血は鼻に集約され、遂には勢いよく噴出。浴槽は朱に染まり、ちょっとした事件現場に様変わりした。



「これは危険です。タケル様に治療を!」


「ごめんねタケル君、しっかりして!」



 2人がかり、抱きかかえるようにして運ぶのだが、歩む度にムニュモニュんとしてしまう。やはり都度、朱い華が咲き誇る。


 ニーナ達は介抱したいのか、トドメを刺す気なのか。迂闊で無自覚な振る舞いが、両者を隣合わせにまで近づけてしまった。


 そうして風呂からあがり、容態が安定した頃。一同は大広間に集合した。晩餐の準備が整ったのだ。本来なら50人規模でも歓待できる所に、6人で貸し切りだ。贅沢というよりかは無駄に広々としており、隅に寄せた座布団の山で転げ回っても虚しさが強い。


 実際、シトラスはどこか不満げになり、最後は無意味にカツトシから叱られて終わる。



「おぅいタケちゃん、先に貰ってるぞ」



 食卓を彩るジョッキには金色のビール、豊かで白い泡がたゆたう。松茸ご飯の釜飯。鉄鍋はA5牛のすき焼きで、甘めの汁が気泡を弾かせながら待ち受ける。皿で山を成すのは季節の野菜と茸の天ぷら。脇を固める大ぶり銀杏の茶碗蒸し、そしてたっぷり湯葉の味噌汁。


 眺めるだけでも嗅覚はもちろんの事、五感の隅々まで脅かされてしまい、ものの数分すらも堪えきれない。実際カツトシは、皆の到着を待てずに舌鼓を乱打していた。目まぐるしく鳴る舌先のリズムは激しく、和風というよりサンバに近い打点だった。



「それにしてもタケちゃんよ、鼻血出すまで風呂に入るとか。ガキでもやんねぇぞ」


「僕はそのつもり無かったけどね。完全に成り行きだよ」



 極端に広い宴会場だが、いつものメンツが揃えば騒がしくなる。活気は十二分。賑やかさは通路にまで響く程になった。



「つうかタケちゃん、箸が止まってんじゃん。食欲ねぇの?」


「割とダルい。それにしても、このままじゃ身がもたないよ。どうにかしないと……」


「ニーナちゃんとの混浴がそんなにヤバかった? ちょっと純情すぎんじゃね」


「にぃに。私も欲しい、お風呂でウフフ」


「だめだっつの。あれはバカ高ぇんだぞ」



 そんな会話が続く間も、タケルを惹きつけようと争奪戦が繰り広げられる。



「タケル様、お疲れでしょう。食べさせてあげますので、アーーンしてください」


「そんな肉よりほら、タケル君。先にこれ飲みなよ。その名も『男の自信・すっぽんマムシ皇帝ナマシボリエキス』だよ。これ飲んだらゴリッゴリに効いて夜も眠れないそうよ!」


「止めとけお嬢。虎にジェットエンジンを与える真似をするな」



 右にニーナ、左からイナが世話を焼き、その対面からセワスキンがたしなめる。


 もちろんタケルは落ち着けない。旅館に着いてからというもの、引っ掻き回されるばかりなのだ。木々で鳴く鳥も紅葉の染まり具合も愉しめずにいる。自慢の風呂では湯当たりし、出たら出たで食事も満足に味わえない。


 慰安旅行のつもりが一層くたびれた。気晴らしには程遠い。贅を凝らした料理に少しだけ箸をつけたタケルは、足元をフラつかせながら部屋へと戻っていった。今日はもう寝ると言い残し、ニーナに支えられるようにして離席した。


 これにてタケル争奪戦も休戦。かと思われたのだが、そうはならず。月明かりが雲で翳る中、イナが蠢き出した。



「どうなのセワスキン、準備できてる?」


「本当にやる気か、お嬢」


「もちろん。そろそろ決着をつけてやるんだから」



 皆が寝静まった頃、声を潜めての通話。イナは6人部屋の一画でスマホを握り、その通話相手は駐車場付近に佇む。


 これからタケルを拉致する。そして車を山中まで走らせ、人里から離れた所で2人きりになり、後は流れだ。トランクには、強壮剤とスポドリを満載するという徹底ぶりだ。


 ともかく既成事実さえあればニーナなど恐れるに足らぬ。ついでに、勢い余って婚姻届も書かせてしまおう、とまで考えていた。



「じゃあこれから連れて行くね。すぐ出発できるようにしといて」

 

「あまり無茶するな。まだ婚約前だぞ」



 イナは返事をせずにスマホを切り、タケルの方へとにじり寄った。懸命に足音を殺す。何せタケルの隣で、ニーナも布団を並べて寝入っている。勘付かれては厄介。標的だけをコッソリ連れ去らなくてはならないのだ。



「ピピッ。淫乱な侵入者を感知、駆逐します」


「チッ。気付かれたか!」



 作戦変更。急ぎタケルを引っ掴んで背負い、駆け出した。飛び出した通路。角を横滑りしつつ曲がり、足を懸命に走らせる。


 その時イナは反射的に飛び退いた。すぐさま切り裂くような風が背後に吹き荒れる。ニーナの猛追は想像以上に激しく、車まで辿り着く前に捕まる事は確実だった。



「クッ。かくなる上は……!」



 イナは浴衣の袂からペットボトルを取り出した。その中身を木目の床にブチまける。すると、ヌルッヌルの液体が潤滑油の役目を果たし、追跡者を華麗に転ばせてみせた。またイナ自身も、ヌルッヌルの床に尻を滑らせて加速していく。軽やかなる撤退だった。



「じゃあねニーナさん。お留守番よろしく!」


「いいえ。決して逃しません!」



 ニーナは幾度となく転び、立ち上がる事を諦めると、すかさず腹ばいになって滑った。速い。さながら氷上を滑るペンギンのようではないか。



「ヒェッ。何なのよそのスピードは!」


「返してもらいます!」



 追い抜きざまにタケルの所有者がニーナに移る。引き続き腹ばいで滑り、背に乗せて運ぶ。その最中にタケルの後頭部を削る形になったが、断腸の思いで逃走を優先させた。


 今度はイナが追う番となる。ニーナの脇に横付けすると、すかさずタケルを奪い取る。腹ばいの相手に対し、尻で滑る彼女は両手の自由が利くのだ。



「さぁ、これでタケル君とイヤンな夜を……って離しなさいよ!」



 ニーナの右手がタケルの帯を強く握る。それが最後の抵抗となった。



「こんの馬鹿力! なんてしつこいの!」


「それはこっちの台詞です……!」



 滑りながら繰り広げる鍔迫り合い。だが世の中には前方不注意という言葉があり、今この瞬間にも牙を剥いた。


 仲良く揃って壁に激突する美女2名。その拍子に投げ出されたタケルは、仰向けのままでツルリと流されていく。やたらと冗長に滑った先は階段で、彼の体は段差を降りに降り、生々しい音を響かせてしまう。



「大変、タケル君が……ふべしっ!」


「今すぐ参りますタケル様……ゆべしっ!」



 2人は慌てるあまり、無闇に立ち上がろうとしては倒れてしまう。そうして肩だの顔面だのを強打するうち、辺りには不穏な足音が響き渡った。


 ヒタリ、ヒタリ。素足が床に絡みつく音。どこか勿体ぶるようであり、自らの存在を知らしめる意思まで感じられた。


 やがて足音に合わせて、階下からタケルが姿を現した。彼が浮かべる満面の笑みに言い知れぬ迫力を感じたのは、辺りが薄暗いせいだろうか。



「タケル様。大丈夫でしたか?」



 ニーナが問いかけるも、返事はない。そして笑顔にも翳りはない。



「ごめんねタケル君。起こしちゃったよね……?」



 タケルはまたしても返答しない。そして笑顔を貼り付けたまま、無言で床を指差した。説教の始まりだ。つい先日、大いなる試練を乗り越えた彼は、確かな強さを培っていたのである。



「普通に考えてさ、夜中に五月蠅くするってどうなの。特に安里さんは最近、思い切りが良すぎるよ。いや違う。恥じらった方がそそるとか、そんな話はしてないから」



 ヌメりを残す床の上で、話はまだまだ続く。



「ニーナも流れに乗っからないで、ちゃんと止めてよ。分かってる。途中からちょっと楽しくなったんでしょ? でも他のお客さんに迷惑だから、その辺を弁えた上でね……」



 理路整然とした説教ながらも、いくつかの異論反論を挟んだため、そこそこ難航してしまった。



「何でそんなに元気が有り余ってんの。分かったよ。だったら今夜は2人とも寝かさないから」


「待ってタケル君! いきなり3人でとか、ハードモード過ぎるでしょ!?」


「ご命令とあらばお請けしますが、序列を定めるべきです。私を1番とし、イナさんは2番手、ついでという立場に留めるのが……」



 声を裏返らせて迫る2人の鼻先に、雑巾が突きつけられた。



「掃除だよ、掃除。まさかここまで散らかしておいて、放ったらかしにしないよね?」



 タケル本日1番の笑顔に逆らえるハズもなく、しぶしぶながら掃除用具が手に渡った。そして3人揃っての床掃除が始まる。



「まったく。一体何なんだよ、この液体は。すんごいヌメるよ」


「バラ色の夜が何でこんな事に……。ニーナさん、勝負は引き分けのお預けだからね」


「残念ながら、私の勝ちとなりそうです」


「どうしてそんな事言うの?」


「四つん這いの後ろ姿は、殿方を興奮させるとの事。立ち位置からして私が優勢です」


「あっズルい! そこ退いてよ!」



 真面目な時間も長くは続かず、先頭の取り合いとなった。懲りない人達だなと、タケルは苦笑を隠さずに呟いた。この争奪戦は、一体どちらに軍配が上がるのか。その未来を知る者など1人も居ないのだ。


 空ではいつしか雲が裂け、豊かな月光が窓から降り注ぐ。タケルがふと、そちらを見れば、鈴虫の鳴く声が聞こえた。それは果たして祝福を意味するのか、あるいは労いを示したのか。


 タケルには、まだ分からない。

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