第47話 ほどけていく縁
静かな熱気がタケルの肌を打つ。舞台袖からは、押し寄せた観客の姿が見え、雑談の声や物音で賑やかだった。
「音大でもないのに1000人収容できるホールがあるとか、日本中探してもウチくらいじゃないの」
開始前の会場だ。客席は十分に明るく、離れていても仕草の一つひとつが見える様だ。楽しみだね、あの人は何番かなという声が幾重にも重なる。そんなムードの余波が、出演者の意気を押し上げていく。
「今日はがんばろうねカナちゃん。絶対に大賞を取ろう!」
「もちろんだよ。あんなに練習したんだもん!」
アコギをブラ下げたフォークデュオの2人が、手を取り合いながら互いを激励する。活気づくのはそこだけではない。開始を待ちわびる演者たちは、そこらに陣取っては、チューニングや指ならしに没頭していた。
この空気感はタケルにとって懐かしい。それこそピアノ教室以来である。
「良いなぁみんな、楽しそうで」
「どうしてノンキなの。大賞取るんでしょ、気合入れようよ」
「まぁそのつもりなんだけど。こんな大勢の中で一番になると考えたら、無理かもって思えて」
「今さら弱気にならないで。さぁ準備を進めましょ」
いそいそとした仕草で準備を促すイナ。演者本人よりも前のめりだ。タケルの出演は最後なので、まだまだ時間的なゆとりはある。クジで決まった順番は、果たして良いか悪いか、彼には分からなかった。
そんな、とりとめも無い会話を重ねるうち、誰かが鼻で嘲笑った。タケルに注がれる侮蔑の視線は強烈で、無視する事を許そうとしない。
「大賞をとるだって? マジで言ってんのかよオイ」
「はぁ、まぁ、そうですけど……」
不躾な男は赤の他人だった。見覚えすら無い。だが身なりは良く、演者の中で最もそれらしい格好をしていた。
金と黒メッシュのアシメトリーな髪、レザージャケットに膝の破けた黒ジーンズ。少しくどい装いだが、整った顔立ちと筋肉質な体つきには似合っている。少なくとも、紺トレーナーにベージュのスラックスというタケルの出で立ちよりは、遥かにタレント性を感じさせた。
その見知らぬ男は、悪絡みをやめようとしない。顔を獰猛に歪めながら、まるで遊び半分でいたぶる様に、ねちっこく話し続けた。
「ザコどもは無駄な努力が好きだよな。頑張ったとか、練習したとか。そんなくだらねぇモンで賞を取ろうってんだから、頭お花畑かよ」
この男も本日の出演者だ。バンドの顔、つまりボーカリストである。今は無名に近いものの、界隈ではジリヒンの愛称で親しまれるグループのメンバーで、場数や実績は頭一つ飛び抜けている。更に若さも相まって、言葉がいちいち強くなりがちだ。
「そうかもしれないけど、やってみなきゃ分からない事だし」
「分かるんだよ、決まってるから」
「何が?」
「今日の大賞だよ。ライブ前から話が済んでる。オレたち「ジャン・リード・ヒンターラント」が選ばれるってなぁ!」
彼の声は舞台袖に響いた。このライブは出来レースであると。それを知るなり、誰もが絶句し、中には震えて涙を浮かべる者さえ居た。
「だからさ、やるだけ無駄なんだよ。まぁ、素人のザコ連中でも前座くらいは出来るだろうから、せいぜい客席を温めておけよな」
「酷いことを言うね。もし仮に本当だったとしても、今ここで明かす意味なんてないじゃないか。何か恨みでもあるの?」
「文句があるならさっさと消えろよ。今日のステージは新人発掘のためじゃねぇ。オレ達に箔をつけるための場所なんだ。ザコの1匹2匹足りなくても問題ねぇんだわ」
「帰らないよ。事前に談合があったとしても、大賞を取る可能性に賭けるだけだ。ねぇ安里さん?」
「も、そ……もちろんそうよ! 根回しとか汚いやり口に負けたりしないんだから!」
イナの反論がぎこちない。彼女自身も経験があるので、耳が痛くて溜まらないのだ。
だが、そんな態度がジリヒンの眼を惹いた。イナの美貌も手伝い、まとわりつく様な視線が飛ぶようになる。
「悪くねぇ顔だ、胸もでけぇし。そんな陰キャの取り巻きなんか止めてこっち来いよ。最高に気持ちいいこと教えてやる」
「誰がアンタなんかと! 私はタケル君から離れないって決めてんの!」
「ハッ、男の趣味が最悪かよ。じゃあいい、そっちの青髪の女はどうだ。オレらの世話をさせてやるぞ」
次に視線がニーナへ向けられると、タケルの胸はズキリと痛んだ。にわかに過る不安。見限られるかもしれない恐怖。それらの想いは苦いものとなって、腹の奥からこみ上げてきた。
しかし次の瞬間には、全てが強い言葉で吹き飛ばされていった。
「お断りします。私は最後のひとときまで、タケル様に付き従います」
この言葉に、タケルの胸は軽くなった。ここ最近の不審な態度から、距離感を感じていたからだ。嫌われてしまったとすら考えていたので、ニーナの態度は素直に嬉しかった。
それと真逆の気分になるのはジリヒンの方だ。立て続けにフラれた事が、若いプライドを深く傷つけもした。
「どいつもこいつもフザけやがって。つうか、よく見たらドブスじゃねぇか。オレ達がスターになっても話しかけてくんなよ、バカが伝染る」
好き勝手に罵倒すると、メンバーは揃って通路の方へと消えた。控室の大部屋に戻ったのだ。
一方で、残された演者たちの意気は最悪だ。方々からすすり泣きが聞こえ、壁を蹴るものまで現れる始末。そんな最中、怒りを隠そうともしないイナは、辺りを憚る事なく叫んだ。
「何なのよアイツ……失礼なんてもんじゃないでしょうが!」
「声を落としてよ安里さん。客席に聞こえちゃう」
「この落とし前、どうやってつけようか。いっそセワスキンに命じてコッソリ暗殺してもらおうかしら」
「悪い冗談は止めて。ギリ実現できそうなやつは笑えないよ」
波乱含みの舞台裏は、やがて落ち着きを取り戻していく。実行委員から開幕を告げられたからだ。
いよいよ始まるのだ、臭花祭(しゅうかさい)ライブコンテストが。
各人に与えられた時間は10分程度。手早く準備を終え、軽く挨拶をしてから1曲を披露して、楽器を抱えて撤収。それだけで持ち時間が終わってしまうので、酷く慌ただしい印象を与えた。何十時間という練習の成果を見せるには、あまりにも短すぎるのだ。
「バッタバタだね。機材の多い人は大変そう」
「でもさ、皆楽しそうに演奏してるよ。あんな事が起きたばかりなのに、それだけが救いかもね」
曇り顔も、赤く腫らした眼も、演奏の途中から色味を変えていく。誰かに歌を、曲を、メッセージを届ける快感に酔いしれているのだ。それが生きる喜びであったり、悲恋の嘆きであったりの違いはあれど。曲を奏でる事は、それだけで尊いのだ。
「あぁキメェ、ヘッタクソばかり集まりやがって。耳が腐りそうだ」
舞台袖に再び悪態が戻る。ジリヒンの出番はタケルの直前だ。もうそんなに時間が過ぎたのかと無言のままで驚いた。
「さてと、行ってくるかね。本職のステージを見せてやるよ。ド素人とは別次元のもんをな」
いちいち悪態をつかないと動けないのか。タケルは、そんな揶揄を抱きながら、去りゆく背中を睨みつけた。
それからジリヒンのメンバーがステージに立つと、彼らは両手を掲げた。すると客席から黄色い声援が沸き起こり、ホールが揺れた。これまでの様子より、数段上を行く盛り上がりだった。
大口を叩くだけの腕前はあった。重厚で隙のない演奏に、客の関心を片時も逃さないパフォーマンス。確かに一朝一夕には会得できない技術が、随所から感じ取れた。これには、本職を自称するだけの事はあると認めざるを得ない。
「へぇ、ただの性悪かと思ったけど、意外とやるじゃん。ちゃんと実力も伴ってたんだね」
「何ノンキな事言ってんのタケル君? ライバルだよ、競い合う相手なんだよ?」
「でも見応えあるし。彼らは嫌いだけど、曲は割と好みだし」
「それよりもセワスキンが所定位置に着いたって。いつでも命を貫けるって言ってるけど?」
「ほんと止めて。ライブどころじゃなくなっちゃう」
そんな会話を繰り返すうち、演奏は終わった。ジリヒン達が反対側の袖からはけていく。それと入れ替わるようにして、タケルも『楽器』を運ぼうとした。
大きめのテーブルに、所狭しと並べたワイングラス。登場しようにも、見た目には少しばかり危なっかしい。
「タケル君、大丈夫? ひとりで運べる?」
「平気だよ。そこも練習してるし」
「そう……ともかく頑張ってね、ここで応援してるから!」
イナが両拳を胸に当て、力強い声援を送った。
その隣で佇むニーナは、対象的に、静かな声色で言った。
「タケル様。私はいつでも、あなたの事を応援しています。たとえ、どれだけ遠く離れようとも」
タケルにぞわりとした悪寒が駆け巡る。どこか不吉な言葉が彼の足を縛り、思考すらも止めてしまう。
今すぐに問いただしたい。一刻も早く真意を確かめたい。そんな衝動に駆られはしたが、進行役がタケルの登場を強く促した。時間的猶予はほとんど無い。
「ニーナ、これが終わったらじっくりと話そう!」
そんな言葉を告げながら、タケルは慌ただしくステージの方へと消えた。
袖に残されたイナは、どこか気不味い。これまでに無い不穏さに、身の置きどころが無いといった様子だ。
「ニーナさん。タケル君と喧嘩でもしたの?」
ニーナは答えない。ただジッと、ステージの方へ眼を向けるばかりだ。
「しょうがないわね。ライバルだけど、話くらいは聞いてあげる。でもタダじゃないから。例えば、そうね。タケル君と1日デート権とか、2人きりお風呂権とか、そんな見返りが……」
小悪魔的に微笑むイナに向けて、静かに頭が下げられた。音もなく揺れる青髪。その恭しさに、イナは思わずたじろいだ。
「あなたに頼むのが正解でしょう。これからもタケル様をよろしくお願いします。できれば、末永く」
「ちょっと待って、それはどういう意味……」
「では失礼します」
ニーナは問いかけには答えず、足早に立ち去っていった。ステージに背を向けて、通路めがけて一直線だ。その頃のタケルはというと、演奏を終えるどころか、これから始めようとするタイミングだ。
唐突すぎる二者択一。激しく煩悶(はんもん)するイナ。顔を左右に何度も振って、歯ぎしりを鳴らした挙げ句、ようやく腹を決めた。
「タケル君の生ライブ、それを不意にさせられるんだから。この借りは高くつくよニーナさん!」
イナは遅れて追いかけた。しかし逡巡(しゅんじゅん)が致命的となり、ニーナの姿を見失ってしまう。控室、通路、どこにも居ない。そこから外に出れば激しい人混みだ。
結局は手当たり次第に探し回るのだが、とうとうニーナの姿を見つける事が出来なかった。
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