第45話 向き合うべきは
好天に恵まれた日曜。朱に黃と紅葉の色付く中、穏やかな陽気が外出を促す。駅前広場は、行き交う若者や待ち合わせする人々でごつた返し、半身を反らして歩く程である。
そんな混雑の渦中、改札側で飛び跳ねる女性がいた。ベージュ色の秋コートに身を包んだ安里伊那だ。ぴょこんぴょこんと、時々頭を覗かせ、掲げた手のひらでも懸命にアピールする。
「おぉい、こっちこっち!」
子供じみた呼びかけに対して、タケルはかすかに苦笑を漏らし、隣のニーナは冷たく微笑む。そんな寒暖のくっきり分かれた2人は、予定通りイナとの合流を果たした。
「時間通りだね。じゃあ張り切って行ってみよう!」
はつらつとした声とともに、イナはタケルの腕に抱きついた。それを黙って見過ごすニーナではなく、すかさず反対の腕にしがみついた。唐突にもタケルはムニンとした感触に挟まれてしまい、裏返った声で叫んでしまう。
「ねぇちょっと、2人とも離れてよ。囚われの宇宙人みたいになってるから!」
「確かに見栄え悪いよね。ニーナさん離れてよ」
「お断りです。安里さんこそご遠慮ください。タケル様の純情が汚れます」
「そんな事ないよ。タケル君は私の方が好みだもん。心が洗われるって顔に書いてあるよ、楷書で」
「それは私が浄化しているからです。何せ私はタケル様の好みを完全再現した存在であり……」
「いいからどっちも離れて! 道行く人にすっごい見られてる!」
両手に花。どちらも美女とあって、一見すると羨ましい立場だ。しかし、その花には触手が生えており、気を抜こうものなら全身を絡め取られる危険性がある。それを嬉しいと感じるかどうかは、判断の分かれる所だ。
そんな一幕はさておき、タケル達は目当ての電車に乗り込んだ。窓の向こうで軽快に流れていく景色。目の当たりにする風景は、農地混じりの住宅街で、徐々にアスファルトの比率が増えていく。
「ところで安里さん。急な話だったけど、迷惑じゃなかった?」
「全然、これっぽっちも! ほんとお安い御用ってやつだから気にしないで良いよ」
「ちなみにお金もかかったよね? どれくらい……」
「そっちも気にしないで。だいたいが『お話し』しただけで、協力してもらえたんだぁ」
タケルは、ライブ本番を見越した練習がしたいと、あらかじめイナに相談していた。その結果、こうして呼されただけなので、彼自身も全容を理解していなかった。
「でも、さすがに会場を借りるんだから、無料って訳にはいかないよね?」
「タケル様。気にするなと言うなら甘えましょう。さもないと、見返りにデートに連れて行けとか、例のアレを出し入れしろとか言い出す恐れがあります」
「何よニーナさん。人を色情魔みたいに。まだそんな関係じゃないからね」
「まだ?」
「未来の事は誰にも分からないでしょ、そういう事!」
そんな他愛のない会話を車内に響かせつつ、移動する事数十分。やがて目的の駅に辿り着くと、電車を降りた。そこでタケル達が目の当たりにするのは、世界のAsato夫妻の一人娘による『お話し』の威力であった。
「うわぁ、何これ……」
視界を埋め尽くす垂れ幕、ノボリにポスター。その全てに『伊那お嬢様、ピアニスト飯場様、雛浸商店街(ひなびたしょうてんがい)へようこそ』とある。さすがのタケルも目眩を覚えて膝が折れた。
「これは何事? まるでお祭りというか、大統領でも来たような騒ぎじゃないか」
「うん。私も正直、ここまでとは思ってなかった。だいぶ張り切ってるなぁ」
「面妖な事です。イナさんはいったい、どんなお話をしたのでしょうか。これらの文字からは、媚びと畏れが感じられます」
「そんな事ないもん。可愛くお願いしたよ、一応は」
大歓迎の文言は改札前だけに留まらない。大通りを歩き、商店街入り口に辿り着くまでに嫌というほど見せつけられた。その頃にはもう、タケルは足早となり、道行く人と顔をあわせる事も出来なかった。
そうまでして辿り着いたのはピアノ教室だ。ここは県内でも最大級の施設で、室内練習場だけでなく、コンサートホールに野外ステージまでも併設される程に広い。それは良いのだが、場所を借りるだけの話なのに、なぜ垂れ幕まで晒されるハメになったのか。タケルには理解が及ばなかった。
「じゃあタケル君、とりあえず受付を済ませようよ」
「ところで安里さん。垂れ幕にピアニストがどうのって書いてあったけど、一体どんな話を……」
タケルの指摘に割り込むように、歌声にも似た声が響いた。現れた男は30代、ストライプ柄のブラックスーツで、細身の長身。否応無しに目立つタイプであった。
「これはこれは安里のお嬢様、むさ苦しい所によくぞお越しくださいましたぁ」
「こんにちわ。予約したんですけど、もう始めちゃって良いですか?」
「もちろんロンでございますぅ。今日は予定が入ってませんので、それこそお気の済むまで、ご随意にどうぞぉ」
「ありがとうございます。ちなみに、彼がタケル君です」
「ほぉほぉ。この坊やですか、なるほどねぇ……」
男の視線が、タケルの爪先から天辺まで絡みつく。これが舐め回すように見るといヤツかと、生まれて初めて体験した。確かに不快でしかない。自分は金輪際、こんな態度はするまいと誓いつつ、不躾な態度に堪えた。
「うぅんなるほど。確かに才気の片鱗が感じられます。繊細さと、ふてぶてしさが半々くらい。さすがはお嬢様、目利きでいらっしゃいますぅ」
「うふふ。褒めるのはまだ早いですよ。演奏を聴いたら、すっごく驚くと思います」
「それは楽しみでございますねぇ。山積する急ぎの仕事を、スコッと空けて時間を作った甲斐があるってものですよぉ」
「じゃあタケル君。そういう事だから、気兼ねなく練習してね」
「気兼ねなくは無理だよね、この流れは!」
哀れにもタケル、謎の期待を寄せられてしまう。その漠然とした懸念は見事に的中し、野外ステージの客席は、若者で埋め尽くされていた。彼らはピアノ教室の生徒たちで、全員がタケルの演奏を心待ちにしている状態だった。そして最前列には先ほどの男が軽やかに座り、足を組んだ。お手並み拝見という姿勢である。
「安里さん。これはどういう事かな?」
「ごめんね。タケル君が上手だって、自慢半分に話したら、いつの間にか天才ピアニストって伝わっちゃって……」
「いきなりこんな所で弾くとか、拷問みたいなもんだよ。全然やれる気がしない……」
「タケル様、大丈夫でしょうか? 一説によると、乳房を揉みしだくと落ち着けるのだとか。ぜひお試しください」
「待って、スマホ相手にエッチな事するとか不健全だよ! ここは、落とし前って意味を込めて、私のを……」
「2人とも気持ちだけもらっとく! じゃあ行ってきます!」
こうしてタケルは壇上へと上がるしかなかった。すると温かな拍手によって出迎えられ、途端に緊張してしまう。客はせいぜい50人弱といった所だが、現役を長らく離れた彼にとっては、十分なプレッシャーであった。
しかしタケルに撤退の2文字はない。舞台袖に引っ込もうものなら、胸元を緩めた仲間たちに絡まれてしまう。
今は無心になって弾く。存分に、あらん限りの力をもってして、やりきるだけだ。それで失望されたとしても、彼に落ち度などない。外野が盛り上がっただけの事だから。
「では、早速弾かせてもらいます」
蚊の泣くような声で挨拶すると、タケルは鍵盤と向き合った。手始めに、難度の低い定番曲。指を温める意味があり、緩やかな曲調から、徐々にテンポアップしていく。車のギアを上げていくかのように。
すると会場の空気が変貌していく。最初こそ半信半疑だったものが、本格的に聴く姿勢へと変わったのだ。特に先ほどの男、彼は室長なのだが、足組みしたままで前のめりになっている。見開いた瞳に、リズムを取るアゴ先。傍から見ても、強い興味がにじみ出ていた。
(良かった。怒鳴り声とか浴びずに済みそうで)
タケルの指は軽快に動いた。意識が手足と完全に調和し、鍵盤と一体化したような錯覚すらある。懸念された、聴衆の視線も問題ない。何十もの好奇の眼が光ろうとも、演奏に大きな影響を与えなかった。
しかし、順調であったのもそこまでだ。
——お前は2度とピアノに触れるな。
その声が脳裏に響いた途端、指先は緊張で強張った。旋律は途端に硬直して柔らかさを失い、調和を激しく乱してしまう。そして不確かな音を織り交ぜながら、演奏は終わる。
そんな変貌を目の当たりにした聴衆は、誰もが首を傾げた。途中までは軽やかで、蝶の舞い踊る光景をイメージしたのに、終盤は妙に慌ただしい。まるでスプーンに生卵を乗せたような危なっかしさが感じられたのだ。
しかしそんな終焉であっても、先んじて大きな拍手を鳴らす男が居た。最前列で足組みをする室長である。
「うんうん、なるほどね。荒削りだけど中々の逸材ですねぇ。イナお嬢様が惚れ込む訳だ」
「あ、ありがとうございます。でも僕は、だいぶ失敗しちゃいましたよ」
「ミスだなんて、そんなもの気にするのはお止めなさい。アナタはライブ、つまりショービジネスに挑もうと言うのでしょう? だったら失敗なんて取り繕えば良いし、考えるべきは、お客様を虜にする事ですよ。まぁその辺は場数の問題でしょうがね」
「そういうものですか」
「そんな事より私、気になっちゃいまして。アナタはボヤッとした見た目に反して、重たいものを背負ってるようですねぇ。それは良くない。今まで放ったらかしにしちゃいましたね?」
「ええと、その事を話すと長くなるんですが……」
「いえいえノンノン。別に身の上話が聞きたいんじゃありませんよ、聞いたってどうしようも無いでしょうし。ひとつ伝えるとしたら、その『何か』とは決着をつけちゃいなさい。やり方はそれぞれ。立ち向かうのも避けるのも良し、逃げたって構いません。ですが、腹の中に詰め込んだまま知らんふりってのは、最悪の手段ですよ?」
「そういうものでしょうか」
「伊達に歳を食っちゃいませんよ。それでどうします、もっと練習するんです? 私の見立てじゃぁ、指を動かすより、頭を動かした方が栄養になりそうですがねぇ」
室長は、外ハネする黒髪を2本指で摘んだ。突き立った残りの指が、煽っているようにも見えるが、深い意味は無さそうである。少なくともタケルはそう判断した。
「そうですね、じっくり考えてみようと思います。とても勉強になりました」
「お気になさらず。それよりも、またお喋りしたくなったら私の所へいらっしゃい。今後は受付で『浅野小路』と伝えていただければ」
「アサノコウジさんですね、分かりました。ではお世話様でした」
「はいはぁい、良いライブをねぇ」
こうしてタケルは、舞台袖を経由して屋外に出た。その後ろを慌てて、ニーナ達も追いかける。
「お疲れ様、タケル君。もっと練習しても良かったんじゃない?」
イナが問いかけるも、タケルは足を止めるどころか、生返事すらも返そうとしない。
「タケル様。もしや気分が優れないのでは? どこかでお休みをとった方が……」
続けてニーナが気遣うのだが、やはりタケルの態度は変わらない。ただひたすら、うわ言を繰り返しながら歩くばかりだ。
さらにその足取りは酷く危なっかしいものだった。水たまりを踏破して飛沫をあげ、電柱に肩をぶつけ、三角コーンに足を取られる始末。
ここでニーナはイナと視線を合わせ、互いに頷きあった。仇敵同士が珍しく意見を合致させた瞬間だった。
「タケル様。ここでゆっくりと考えましょう」
連れてきたのは最寄りのファミレスだ。時刻は4時前。食事には早すぎる頃合いの為か、客の姿はまばらで、座席にゆとりがある。比較的静かな環境は、考え事にはうってつけだと言えた。
そんな中でひたすら自問自答を繰り返すタケルを、不安気に見つめるニーナ。何かサポート出来る事は無いのかと、懸命にライブラリや過去ログを漁るのだが、答えは見つからない。無力感に苛まれながら、隣で黙る以外、何もしてやれなかった。
そこへイナがレジの方から戻ってきた。その後ろには、大きなトレイを手にするセワスキンの姿もある。
「お待たせタケル君。喉乾いてない? 小腹が減ってたりする?」
予想通り返答はない。そこでニーナは、無言を貫く主人に代わり、セワスキンの方へ目を向けながら言った。トレイの上には、尋常ならざるサイズの品が君臨している。
「安里さん。その量を1人で食べるつもりですか?」
「いや、これは、タケル君も食べると思って買ってきたの」
「もっと言ってやれ217号。お嬢はここ最近、やたらと食うようになって困っている」
「セワスキンまで! あとで運動するから平気だもん!」
イナはタケルの前に冷たいカフェラテを置くと、自分の前にはジャンボ・キャラメルラテと、バナナメロンパフェのチョコチップマシ生クリームモリモリのモリを置いた。 アスリートでも滅多に頼まないであろう、冗談めいたサイズのものが。
それからイナは、慣れた手つきで頬張りだした。一度口の中を生クリームで満載すると、うっとりとした微笑みを浮かべ、唇をだらしなく緩めた。
「はぁぁ、やっぱり堪んないわね。油と糖分を同時に摂取できるとか、生クリーム考えた人は天才だと思うの」
「まったく、良い気なものですね。タケル様は今も必死で、解決の糸口を探っておられるというのに」
「考えれば見つかるとは限らないでしょ。煮詰まる事だってあるんだから」
イナは使用済みのスプーンで、チョコチップのかかるクリームをすくい取り、ちょこんとメロンの果肉も添えた。それは自分の口元には運ばず、タケルの方へと向けた。
「タケル君、少しは気を休めないと。延々と考えても堂々巡りになっちゃうぞ」
そうまでされても、タケルは反応を示さなかった。イナはさらにスプーンを押し出し、先端をタケルの唇に当てた。その時タケルの口が開いたので、食べさせてみる。すると、ごく自然な動きで、一口サイズのパフェが飲み込まれた。
半分冗談のつもりだったイナは、感激に打ち震えた。もしかしなくても間接キス。そしてファースト・アーンまで完遂してしまうという快挙。この何気ないシーンには、彼女にとっての喜びが詰まっていたのだ。
「あっ……。ほんとに食べちゃった……」
空になったスプーンを眺めるうち、イナは徐々に現実だと受け入れていく。そして、ほのかに温もりが残る先端を、自分の唇で触れようとした。
しかし、スマホによる横槍は的確だった。左右から2機が腕を伸ばし、がっちりと制止した。
「安里さん。そうはさせません、アナタの悪行もここまでです!」
「お嬢、破廉恥にすぎるぞ。その接触は認められない!」
右腕をニーナが、左腕をセワスキンが掴む事で、イナの動きを封殺した。スプーンは唇まで近づきはしたものの、僅かな距離が触れ合いを阻んだ。
「待って落ち着いて2人とも、私はスプーンの先についてるクリームの残りがもったいないと思っただけ!」
「見え透いた嘘はやめてください。それとも、もうそこまで意地汚い所に堕ちたというのですか!」
「白状するのだお嬢。堕ちたのは飯場タケルにか、それとも食い気の方か!」
にわかに騒がしくなる店内。居合わせた客が、遠くの席から怪訝な顔を向ける程だった。
そんな状況でも、タケルは変わらず自問を繰り返した。この危なっかしいまでの集中力が今後の彼を支えるか、それとも足かせとなるか、今はまだ定かではない。
現在わかっている事は、ツッコミが不在であるという事実。タケルが機能しないだけで収拾つかないのだから、彼は絶対不可欠の存在なのである。
自分の課題だけに集中する事は状況が許さない。でももう少し、あとちょっと。タケルは思考と現を往復しつつ、ギリギリまで粘るのだった。
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