第44話 失われし未来

 街が紅葉に染まる頃、大学構内はにわかに華やかさを増した。それは掲示板に張り出されたチラシが理由で、簡素でモノクロの公式通知とは一線を画す。



「そろそろ文化祭かぁ。早いもんだな」



 チラシにはイベントリストがあり、美男美女コンテストやら、科学サークルの大実験やらが毒々しいフォントカラーで打ち出されている。有名タレントが来るとも有るが、タケルの顔は平然としていた。


 そんな折に、背後から安里伊奈が現れ、タケルの背中に飛びついた。



「おつかれタケル君! 何見てんの?」


「うわ! 安里さんか、びっくりしたぁ……」


「ふむふむ、学祭の件? いやぁ実に楽しみでございますなぁ」


「それよりも早く離れて……」



 イナは全身をべたりとくっつけ、更にはタケルの肩にアゴを乗せている。恋人同士でもなかなかやらないことを、彼女はサラッとやってのけた。その胆力は見習うべきものなのか。



「やっぱりタケル君も出るの?」


「やっぱりって何が」


「ライブパフォーマンスだよ。今回は音楽事務所の人も来てくれて、評価次第ではデビューさせてくれるみたいだけど?」


「そんなの夢物語だって。どうせ上手くいくはずがないよ」


「もったいないなぁ。タケル君なら、審査員全員が満点を付けてくれると思うよ?」


「そういうシーンは好きじゃないよ。ステージに立つとか、審査されるとか」


「でも私の前では弾いてくれるよね」


「そりゃね、安里さんは特別だからさ」


「えっ……」



 イナはセリフを脳内で繰り返しながら、大きな瞳を潤ませた。それから慌てて反転し、自身のジャケットを開いて、シャツの胸元から確認をする。下着の色やデザイン、問題なし。記憶が確かなら上下も揃っている。


 つまりは臨戦態勢が万全ということだ。このまま、情熱の誘うままに組み合っても、何一つ心配は要らないのだ。まさに実績作りのチャンス。イナはそう考えた。



「ねぇ、この後ヒマ? よかったら駅前のカフェでも……」



 しかし振り向いた時に、相手はもう居なかった。腰の曲がった用務員が掃き掃除をしているだけで、タケルは既に立ち去った後である。


 哀れイナ。用務員のおじいちゃんと、気まずそうに会釈を交換し、消えたタケルを探しに行くのであった。


 その一方でタケルは、重たい気分のままで帰路についていた。



「コンテスト……かぁ」



 彼の脳裏に、お決まりの情景が過る。それは10年ほど前の記憶なのだが、昨日の事のように鮮明な記憶だった。



――母さん、僕ね、将来はピアノ奏者になりたい!


――タっちゃん。そういうのは大変なのよ。才能がなきゃ始まらないの。それよりもたくさん勉強して、良い大学に入って良い会社に入る。それが1番の幸せなの。


――じゃあさ、今度のピアノ発表会で褒められたら、ピアノ奏者を目指しても良い?



 期待に胸を膨らませて宣言した覚えがある。幼い彼には、会場がどよめき、称賛で揺れる未来が見えていた。しかし現実はというと、悲惨な結末を迎えるのだ。



――お前の演奏は偉人に対する冒涜だ。2度と鍵盤に触れるな。



 鳴り響く怒号。硬直する自分を、半ば強引に連れ出した関係者。母親は何度も繰り返し頭を下げ、最後はタクシーに逃げ込んだものだ。



――これで分かったでしょタッちゃん。音楽なんてもんはね、上手い人に任せておけばいいの。アンタは真面目だけが取り柄なんだから、変な夢を見ないでね。



 忘れようもないセリフである。それからはピアノ教室も辞め、自宅からはピアノの音色が消えた。


 何度も母を説得しようと思いはしたが、その度に怒号が聞こえた気にさせられ、結局は口をつぐむしか無かった。



「僕は、そんなに悪いことをしたんだろうか。誰かを激怒させてしまうくらい、とんでもない事を……」



 10年が過ぎた今、彼の心に引っかかるのは、そんな疑問だった。評価されないのは良い。しかし演奏半ばに叱責されて退場とは。子供相手にあんまりじゃないか。静かな憤りを覚えるものの、所詮は過去の話だ。反論も、問い詰める事も、全ては想像の中で繰り広げるしかない。


 駅のホーム、ベンチに座りながら虚空を見つめる。やがて「発車します」の声と共に、前方のドアが閉まった。


 それをボヤリと眺めては見送った。次の電車に乗れば良い。しかしその次も、またその次も眼前を通り過ぎていく。


 タケルが帰宅したのは、その1時間後の事であった。




「お帰りなさいませタケル様。今日は少し遅かったのですね」


「うん、まぁね」


「もしかして、学祭の準備でしょうか? 私も何かお手伝いを……」


「大丈夫だよ。僕の方では準備とか無いし。ちょっと寄り道しただけなんだ」


「そうだったのですか。てっきり、ライブパフォーマンスの練習でもされていたのかと」



 ニーナの掌には、大学公式のウェブサイトが表示されていた。そのイベントは目玉の1つとされており、扱いも比較的大きかった。



「いや、僕は出ないって。演奏は聴くに限るよ」



 言うが早いか、視界の端に映る人物に、ゾワリとした悪寒が走った。後ろになでつけた髪、虎ひげ。それは間違いなく、記憶に大きな傷を刻みつけた男だった。白髪頭になっているなどの違いはあっても、見間違えるほど老け込んではいなかった。



「何の巡り合わせだよ、これ……」


「賞をとると、審査員から選評がいただけるそうですね。それからCDデビューも検討されるのだとか」


「……出るよ、ライブ」


「大丈夫ですか? 無理をされてはいませんか?」


「僕にも思う所があってね。無理はしてないから」


「今の言葉は本当なのタケル君?」


「えっ、安里さん!?」



 タケルは尻もちを着くほどに驚いた。部屋には自分とニーナだけしかいない。しかし、イナの声は明瞭に響き渡っている。



「驚かせてごめんねタケル君。ニーナさんに、グループトーク機能を立ち上げて貰ってるの」


「そういう事か。びっくりしたよ」


「それはさておき、こんばんわ〜〜。大丈夫タケル君、ニーナさんにエッチな事してない? だめだよスマホに欲情しちゃ。人間は人間同士じゃないと……」


「言いたいことは沢山あるけど、とりあえず変な事はしてないよ」



 そんな会話がありつつも、タケルはとうとう腹を決めた。自分の暗い過去と向き合い、失った未来絵図を取り戻す事を。


 それから迎えた翌日の早朝。タケルは騒がしさで眼を覚ました。外の通りでやたらと金属音が鳴り、無理やり叩き起こされてしまった。



「誰だよ、こんな朝早くから……」



 カーテンを開いた所で目が合った。窓辺でブラ下がる、ヘルメット姿の男と。


 もちろんタケルは、驚きのあまり飛び跳ねてしまい、ベッドのパイプに尻を激しくぶつけた。


 そんなリアクションを、外の男が省みる事などなかった。酷くノンビリとした口調で、通りに向かって叫ぶばかりだ。



「お嬢、これ多分ムリっすわ。重量オーバーで床が抜けちまうかも!」


「そうなの? どうしよっかな。補強工事する? それともいっその事、アパートを立て替えちゃおうか」



 本当に何の騒ぎだよ。タケルは尻を押さえながら、改めて窓の外を注視した。すると路上で手を振るイナと視線が重なった。しかしそれよりも気になるのは、宙吊りになるピアノだった。


 新品なのか、朝日を浴びて黒光りするグランドピアノ。それがクレーン車に吊るされつつ、優雅にも空の散歩を決め込んでいた。



「安里さん、これはどうしたのさ!」


「タケル君がライブ出るって言うから、私からプレゼントだよ。いっぱい練習して欲しくって」


「ここはピアノの持ち込み禁止だよ、そもそも楽器演奏がダメ!」


「えっ、そうなの?」


「まったく、朝から勘弁してよ。こっちはもうお尻が痛いよ」



 最後に付け足した言葉は、ぼやき半分であった。しかしイナ、ここで過剰反応を見せて、大いに叫んでしまう。



「お尻が痛いって、いったいニーナさんと何をしたの!?」


「違う違う。なんか誤解してるけど、ベッドにぶつけて……」


「やっぱりそういう関係だったんだ! これはもう放っておけないよ、タケル君を真っ当な道に戻してあげるから!」


「待って安里さん、そろそろ僕も笑っていられない!」



 結論から言えば、ピアノの納品もイナによる誘拐も避ける事ができた。弁明を長ったらしく重ねる必要はあったが、一応は誤解を解くことに成功したのだ。


 朝から妙な寄り道を強いられたものだが、それはともかく、運命の歯車は回り始めた。


 タケルの才能は、まるで何者かに引き寄せられるかのようである。その道の途上に晴れ舞台が見えるものの、更に向こうはどこへ繋がっているのか。今は誰も知らない。


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