第40話 まどろみのアナタ

 イナはまどろみの中、少女を見下ろした。途端に苦いものが感じられる。久々に夢に現れた小学生の自分だ。


 この古ぼけた記憶を引き出したのは、タケルによる演奏だった。



――まぁ、目の前で聴いちゃったもんね。思い出しちゃうよね。



 大きなオークツリーのテーブル。食卓を起立して囲むメイド達。その真中には、つまらなそうな顔で席に座る、かつての自分。


 これは言うなれば暗黒時代。知った風な口をきき、大人を見下す傲慢な態度は、我が事ながら引っ叩きたくなってしまう。



「イナお嬢様。10歳の誕生日、おめでとうございます!」



 盛大な拍手、くす玉。飛び出す白鳩。そして少女の前には、大きなホールケーキが置かれている。純白の生クリームの上に、超一級のシャインマスカットでハートを描くという、贅沢な代物だった。


 しかしここまで盛大に祝われても、黒髪の少女は渋面を崩さない。総シルクの上等なドレスも、場の空気を和らげるどころか、不機嫌さを助長するかのようだ。


 

「こちらは、シェフの丸井が腕によりをかけました。きっと、お口に合う仕上がりかと」



 穏やかな口ぶりで語るのはミタライだ。現在と比べると、髪に黒いものが多く、顔のシワも薄い。



「それではロウソクに火を灯して、明かりを……」


「そんな事より、パパはどこ?」



 イナの声は、その表情と同様に険しい。居並ぶメイド達はすっかり恐縮してしまい、まともに口をきけるのは、親代わりの執事くらいのものだった。



「旦那様は、商談があるとの事で、イスタンブールに居られます」


「じゃあママは?」


「奥様はシンガポールですな。早ければ、年内には戻られるそうでございます」


「へぇ〜〜。年に1回だけの誕生日すら、会いに来てはくれないんだ。随分な子煩悩ぶりね」


「お嬢様。そうおっしゃいますな。安里グループの百万にも及ぶ従業員の生活は、お二方にかかっているのです。そしてゆくゆくは、お嬢様に確たる基盤をご用意する為に……」


「そんな話、聞きたくない!」



 叩きつけた拳がテーブルを鳴らした。食器のぶつかる音は、辺りに冷たく響いた。



「何が誕生日よ、くだらない。甘ったるいケーキとか馬鹿にしてんの? 子供じゃあるまいし、そんなもの要らないわ!」



 イナは小さな身体を左右に揺らし、扉を叩きつけるようにして出ていった。


 後に残された料理長は、青ざめた顔を赤くし、男泣きに泣いてと忙しない。



「ミタライさん、申し訳ありません! 私の力が及ばず、せっかくのおめでたい日に、お嬢様の不興をかってしまいましたッ!」


「気にするな丸井、お前のせいではない。せめて記念日くらいは笑っていただきたかったが、仕方あるまいよ」



 食堂は、先程までの盛り上がりが嘘のように静まり、料理を片付ける音だけが虚しく響き渡った。普段どおりであったのは白鳩くらいで、タシタシと、テーブルクロスに足跡を刻んでゆく。


 この1件から分かる通り、幼少期のイナは難物であった。特別に機嫌が悪かったのではない。普段通りの態度だ。


 下働きに対して冷たく当たる様になったのは、一体いつの頃か。イナの記憶にないのだが、少なくとも10歳を迎えた時点では、ある意味で完成していた。



――おはようございます、お嬢様。本日は良い天気ですね。



 下働きに話しかけられても、そっぽを向いて顔を見ようともしない。



――お嬢様、晩御飯のご用意が出来ております。今宵はボルシチとの事ですよ。



 やはりロクな反応を示さない。頑なに無言を貫くか、あるいは幼い声で叱責する、それがイナの日常的な姿だった。


 これは一見すると成金の傲慢なのだが、彼女にも言い分はある。何せイナは、時の人とも呼ばれる夫妻の、大事な大事な一人娘だ。周囲を取り巻く大人たちが、とにかく丁重に扱うのだ。


 それが家人であるならマシな方だ。だいたいの者は赤子の頃からの付き合いで、イナを畏れる事はあっても、その根っこには愛情が備わっている。


 問題は外部の人間だった。



「やぁイナちゃん。お父さんは元気かな?」



 学校では校長が、塾に行けば理事長が、無闇に機嫌を窺いにやって来る。



「君は実に優秀な生徒だ。才能の塊と言って良い。教える私としても鼻が高いよ」



 どの習い事も、やはり大差はない。誰も彼もが金の臭いに誘われ、善意の皮を被って近づいてくる。


 どこを見ても似たようなツラばかり。幼き頃のイナは、孤独と、下心によって脅かされていたのだ。その為、刺々しい態度は自衛策に他ならなかった。誰に笑顔を向けられようとも、腹の中でこう叫ぶのだ。



(みんな笑いかけるけど、全部嘘ばっかり。どうせお金が目当てなのよ!)



 そして私室で独りきりになると、ようやく年相応の顔つきになる。だいたいは曇り顔で、辛い時には、声を圧し殺して泣くのだ。



「パパ、ママ。私、今日はお誕生日なんだよ。どうして会いに来てくれないの……?」



 彼女は1人、自室で涙を流した。そして身に余るほど大きなベッドに横たわり、やはり大きなクマのヌイグルミを抱いて眠る。



「私はここに居るの。ずっと、ここに居るの。私に会いに来て……」



 習い性となった独り言だ。やがて泣きつかれた頃に、深い眠りへと落ちていく。傷だらけの心を固く、固く閉ざしながら。


 そんな誕生日から数日後。イナは屋敷の者に連れられて、コンサートホールへとやって来た。この日はピアノコンクールがあり、イナも演奏者の1人として出場するのである。


 金賞を確約された身分で。



「お嬢様、緊張なさらないで。普段どおりにやれば、きっと評価してもらえますから」


「分かってるわよ。話しかけないで」



 彼女としては、賞など全く興味がない。ピアノも、今日の晴れ舞台も、単なる暇つぶしでしかないのだ。家に籠もるよりはマシ、という感覚だけに突き動かされた結果だ。


 護衛を兼ねた家人に守られつつ、ホールの入口を通った。ロビーには既に、同世代の先客が散見される。一応はライバルとされる子供たちだ。



「ねぇママ。今日は絶対に金賞取るからね! 期待してて!」


「うんうん。頑張ってきなさい。ミヤビなら出来るわよ」



 その脇を、鼻白んだイナが通り過ぎる。罪悪感などない。むしろ、彼女こそが妬む側であった。



(残念ね、賞は私のものなの。でもアナタにはママが居るから良いでしょ?)



 イナがホールを後にした頃には、その親子にも興味を無くしていた。


 そうしてやって来たのは、彼女だけに与えられた控室だ。この特別待遇も、邪な物が感じられてしまい、不快でしかなかった。気の向くまま、椅子に身体を投げ出して座った。


 それから出番まで暇を潰し、呼び出しが来るなり演奏。多少のミスはありつつも、一応は許容の範囲内に収まった。あとは控室に戻り、全員の演奏が終わるのを待つだけだ。



「はぁ、退屈。まさか最後まで残らなくちゃいけないなんて……」



 広々とした楽屋に娯楽品はなかった。机に頬杖をつき、モニターに映し出されるステージを眺めるばかり。出力される音も代わり映えのないシーンが続く。課題曲が、演者を変えて繰り返されるせいだ。


 イナはいつしか眠気を感じ、その場でウトウトと眠りだした。



「続きまして……ケル君。小学4年生」



 新たな演奏が始まる。今もイナは夢の中だ。しかし次の瞬間、彼女は現実へと引き戻されてしまう。



(えっ……。何これ?)



 まどろみを打ち砕いた楽曲は、与えられた課題曲に間違いない。旋律は何度も繰り返し聞いたものだった。だが、曲調が、アレンジが全くの別物なのだ。


 それは聴くドラマ。繊細なタッチに寄せたかと思うと、すかさず怒涛のようなスタイルとなり、数秒前のフレーズすら過去にしてしまう。


 熱い、強い、激しい。どの言葉で現すべきか、彼女には分からない。ただ、怒りにも似た情熱を感じるだけだ。その果てしない熱量が、少女の胸に直撃して、涙さえも誘うのだ。



(すごい、こんな子が居るだなんて。しかも私と同い歳……)



 目元を拭く手が震える。なぜ、こうも平静を保てないのか。分からない事ばかりだが、1つだけ理解できた。この音を実際にホールで聞きたい。客席の最前列で、審査員を押しのけてでも、音を全身に浴びて感じたい。


 そう思った瞬間、楽屋から飛び出していた。護衛が制止する声すら置き去りにして。



「ハァ……ハァ……。もう終わっちゃったの?」



 ステージに立つのは、別の子供だった。辺りを見回してみても、先程の少年はどこにも居ない。


 そんなイナの元へ恩師が歩み寄り、小さく囁いた。



「どうしたんだい。退屈しちゃったかな? 悪いけど、もう少しだけ待っててね」


「ねぇ、さっき演奏してた男の子は? 今どこにいるの?」


「あぁ、あの坊やなら、つまみ出されたよ。審査員長を怒らせちゃったんだ。こんなもの、偉人に対する冒涜だってね」


「そんな……!」


「ごめんねぇ。後2人くらいでお終いだから。もうちょっとだけ辛抱を……」


「何て事してくれたのよ、バカァ!」



 イナは腹の底から叫ぶと、その場から駆け出した。通路を、ロビーを駆け抜け、名も知らぬ少年の姿を探す。


 そして裏手に出た時、ようやくその姿を見つけた。親に連れられ、タクシーに乗り込もうとしている瞬間だった。



「そこのアナタ、待って……!」



 傍に駆けつけようとした瞬間、背後から腕を掴まれた。



「お嬢様、1人で出歩かれては危険です!」


「お願い離して、あの子が行っちゃう!」



 押し問答するうちに、無情にもタクシーは出ていった。吐き散らされる排気ガス。別れの言葉としては哀しすぎる。幼きイナは、その場で崩れ落ち、泣きじゃくるしかなかった。


 その日を境に、イナは活発に動いた。あの少年を追いかけ、近づきたい。話してみたい。演奏を隣で聴いてみたい。そんな純粋な想いを抱いたのだが、現実は彼女に味方しなかった。


 判明したのはせいぜい、飯場タケルという氏名くらいだった。



「ミタライさん。どうして彼の事を隠すの?」


「とんでもない。私共は何もしておりません」


「嘘よ。じゃあ何でコンクールのパンフレットが、1枚も見つからないの? ウチだけじゃない。ピアノ教室も、お友達の家からも」


「この世には、不思議な偶然があるものですなぁ」


「スマホで調べても出てこないの。誰かの差し金でしょ?」


「この世には、閲覧制限というものがございまして。検索内容によっては弾かれる事も有りえます。お子様には刺激の強い情報が、この世にはゴマンとありますゆえ」


「彼に会いたいの、探してよ」


「全力を尽くしております。今しばらくお待ち下さい」



 この時の出来事は、大人になった今ならよく分かる。イナの父が過剰反応を示し、反射的に遠ざけようとしたのだ。過保護だと笑える過去なのだが、当時の彼女は不満でしかなかった。厳戒態勢が解かれるまで、数年もの時間を要したのだから。


 そのようにして、捜索に進展の見られない、ある日の事。イナは庭先でぼんやりと木々を眺め、物思いに耽っていた。


 脳裏に過ぎる怪演と、去り際に見えた横顔。それは何日経とうとも色褪せる事無く、彼女の心を温めてくれる。鮮明に思い出そうとする程に、魂は解き放たれ、大空を駆け回るような心地になるのだ。



(私はここに居るよ、タケル君。私に会いに来て……)



 そう呟き、心の扉を開く。すると謎だらけの少年が、横顔くらいしか知らないタケルが、優しく微笑みかけてくれるのだ。


 それからは空想の中で語らい、あるいは戯れた。好きな食べ物は、遊びは何かと、質問への答えを想像しては楽しむ。


 たったそれだけの事で、胸の奥がジワリと温かくなった。誰かに夢中になるなど、初めての経験で、新鮮だ。それが空想力を果てしないほどに昇華させているのだ。


 そのせいで、静かに近寄る男の存在に気付けない。



「そうなんだぁウフフ、タケル君って食いしん坊なのね。そんなにお菓子が好きだなんて、虫歯になっちゃうよ?」


「お嬢様。お休みのところ失礼します」


「ひゃいッ! なによミタライさん、急に話しかけないで!」


「既に7度、お声がけ致しました。失礼を承知の上で、参上した次第です」



 ミタライの用件は、食堂まで来て欲しいとの事。時刻は3時前。オヤツだと分かるのだが、あいにく、そんな気分ではなかった。


 そして食堂の大扉が開かれると、メイド達が微笑みながら出迎えた。しかし、どこか緊張感が漂っている事が、肌に感じられる。



「イナお嬢様! 先日は、私の不始末により、アニヴァーサリーを台無しにして申し訳ありませんでしたッ!」



 静寂を打ち破ったのは丸井だ。そして、大仰な仕草で掌をテーブルに向けた。そこには、大皿に居座るチョコレートケーキが見えた。



「甘いケーキではご満足いただけないとの事! そのため、カカオ80%のビターなものをご用意しました! どうか、せめて、1口だけでも……!」



 予想だにしない事に、イナは困惑した。あの晩のセリフは弾みで飛び出したもので、本心ではなかった。生クリームも、マスカットも大好物である。


 しかし怒鳴り散らした手前、嘘でしたとは言えない。フォークを手に取り、ケーキの側面を小削ぎ取る。暗い色彩のチョコムースは見るからに苦そうだ。


 それでも意を決して口の中へ。味わいは、やはりというか、苦い。イナは飲み込むことが出来ず、その場でむせてしまう。



「あぁ、お嬢様! これもお気に召しませんか!」



 丸井がナプキンを片手に駆け寄った。その顔は頬がこけ、目の下には大きなクマが刻まれている。以前の、陽に焼けて丸々とした顔つきとは、完全に別人だった。


 その顔が、そして焦りっぷりが、なぜか面白く感じられた。イナは口の中の苦さを忘れて、腹の底から笑い声をあげた。



「ちょっと、丸井さん。笑わせないでよ!」


「笑った……。皆、お嬢様が笑ったぞぉ!」



 食堂でどよめく歓声。下働き達は、両手を掲げて震えたり、抱き合って叫ぶなど様々な反応を示した。ミタライも静かに目元を拭っている。しかし、全員が祝福している点では一致していた。



「何よ、揃いも揃って。そんなに騒がなくっても……」



 イナが強張った笑みを向けると、眩しい笑顔が返される。そこに不快なものは感じられない。純粋な好意として受け止める事ができたのだ。


 こうして、イナの人生は新たな局面を迎えた。人と正しく向き合う術を、おぼろ気ながらに学べたのである。そのキッカケを与えた少年との再会は、ここから10年ほど後の話である。



「お嬢。起きろ」


「あはは、ミヤビちゃん。また恋愛小説の話?」


「起きろと言ったろう。着いたぞ」


「ふぇっ? ここは、下宿先のマンション?」


「やれやれ。間もなく夏休みが明けるのだぞ。そんなザマで大丈夫か」


「問題ないよ。平気平気」



 イナはのびを1つ。それから車を降りて、入り口のオートロックを解錠、借りた部屋へと戻っていく。


 その背後に付き従うセワスキンは、イナの隣室と契約している。元々は同居していたのだが、先日に変更が為されたのだ。



「ねぇセワスキン。運命って信じる?」


「何を荒唐無稽な。この世は因果で成り立っている。筋書きなど存在しない」


「そうね。アナタならそう言うよね」


「それがどうした」


「私はここに居るよ、私に会いに来て」


「今度は何だ」


「今のはね、おまじない。運命の人と巡り会える魔法のコトバ」


「脈絡が無さすぎる。まだ寝ぼけているのか?」


「別に、何でもないよ。じゃあおやすみなさい」



 イナは扉を閉じ、今日という日に終わりを告げた。


 そして迎えた翌朝。イナは駅からの通学路をノンビリと歩き、朝の光景を愉しんでいた。スーツを着込むサラリーマン、学生服姿の高校生。慌ただしく駆けていく喧騒と、真逆の方角へ流れながら。



「そろそろかなぁ……」



 手元の時計を確かめようとした所、後ろから声がかけられた。



「安里さん、おはよう。これから授業?」



 イナは体ごと振り返ると、その先にタケルの姿を見た。目もくらむ眩しさは、朝日の照り返しだけが理由ではない。



「おはようタケル君。休み明けなのに、一限目から講義があるの」


「僕もだよ。久々の通勤ラッシュはキツかったなぁ」



 肩を並べて歩く。触れ合いそうになる指先が、近づいては離れる事を繰り返した。



「ありがとうタケル君。私を見つけてくれて」


「どうしたの急に。安里さんは目立つから、遠くに居ても分かるよ」


「えへへ。嬉しいなぁ。ところでね、今度の土曜日なんだけど……」



 2つの影が、寄り添いながらキャンパスの方へ。


 それからは当たり前の日常が幕を開ける。幼き頃のイナが、夢見るほどに渇望した毎日が。

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