第39話 才人は繊細につき

 大学の夏休みは長い。そして残暑の尾も負けず劣らず、長い。


 タケルはエアコン無しという耐久戦を、今も変わらず強いられている。日中は家になど居られない。コンビニ、図書館に商店街と、主要な施設にお邪魔するのだ。



「ふう、やっぱりデパートは涼しいな」


「タケル様。私の方が冷たくて気持ちいいですよ?」


「それは認めるけどさ。色々と問題あるんだよ」



 実は以前、1度だけニーナを正面から抱きしめた事がある。暑さが取り分け酷い陽気で、目眩すら覚えたためだ。


 腕に抱くと、彼女の性能から十分な冷たさを堪能できた。しかし、しなやかな髪と、背丈の割に華奢な肩がタケルを刺激する。そして柔らかすぎる手触りも、踏みとどまる正気を吹き飛ばしそうである。目眩の原因がすり替わるのも、時間の問題だった。


 それ以来、緊急避難以外には頼むまいと決めた。ニーナとしては物足りない事だが、タケルを独占して過ごせる日々は喜ばしい。



「タケル様。楽器屋もあるんですね、寄ってみませんか?」


「まぁ、別に良いけど」



 デパートの一角は音楽関連で満ち溢れていた。膨大な楽譜、ショウケースで金色に輝くサックス、名刀の如く飾られるギター。そして展示場さながらに並ぶ電子ピアノ。


 モノトーンの鍵盤から、タケルは幼い頃の記憶を揺さぶられた。そうなれば、決まって唇を引き結ぶのだ。



「まだ、懐かしいとまでは思えないよな……」


「どうしました、タケル様? 試奏は自由だそうですよ」


「いや、別に弾きたくないし」


「タケル様は以前、ピアノを習われていたとか。1度くらい拝聴したいものです」


「まぁね、そのうちね。今じゃなくても……」


「はいはぁい! 私も聴いてみたい!」



 突然ピアノの背面から、イナが姿を現した。その拍子に、タケルが椅子から転げ落ちそうになるのを、ニーナが背中から支えた。



「驚いたなぁ。いつからそこに居たの?」


「あぁ、たまたまタケル君を見掛けてね。もちろん偶然だよ。楽器の陰に隠れて待ち受けるとか、厄介なファンでもあるまいし」


「ファン、くらいの距離感の方がマシかもしれませんね」


「何よニーナさん。そうだ、向こうで100円充電機があったわよ、チャージしてきたら?」


「ご心配なく。90%です」


「へぇそうなんだ。それは良かったね。大して使われてないの?」


「いいえ。タケル様は、とても丁重に扱ってくださいますから」



 ギスギスだ。周囲の体感温度はにわかに上昇し、タケルの額から謎の汗が溢れ出た。


 ちなみにその頃、セワスキンはゲームコーナーに居た。向き合うのはメダルゲームで、迂闊にジャックポットを引き当ててしまい、溢れる報酬に苦心していた。彼が駆けつけるまでに、もうしばらくの時間が必要だろう。



「ねぇ、タケル君。ちょっとで良いから聴いてみたいなぁ。コンクールに出ちゃうくらい上手いんだよね?」


「あれ? その話をしたっけ? 覚えがないんだけど」


「あの、えっと、飲み会の時にね! タケル君は凄く酔ってたから、忘れちゃったんじゃない?」


「そうかな、そうだったかも」



 タケルは期待の眼差しを無視できなかった。他の買い物客はまばらで、どうせロクに聴かれる事はない。観念すると椅子に浅く座り、指を滑らかに走らせた。


 何年ものブランクはあるのだが、演奏は形になっていた。奏でるのは耳に馴染むメロディ。


 すると意識は幼年期へと戻される。あの当時、夢中で追いかけた音符。自分にとって未知なる響き。この先にはきっと面白いものが待っているのだと、そう信じて突き進んだ少年時代。


 しかし、そうして深く潜り込むと、決まって辛い記憶まで蘇ってしまう。


 

――お前は2度とピアノを弾くな、耳障りにも程がある!



 そんな幻聴が聞こえると、指先は勢いを失ってゆく。10年近く前の記憶だ。相手の顔や声色など、詳細はほとんど思い出せない。それでも大人に、更に言えば余計な権威をブラ下げた人間から、頭ごなしに怒鳴られた経験は重たい。


 幼心がどこまで傷つけられただろう。当の本人ですら、完全に理解できた訳ではない。



「こんなもんかな。やっぱり下手になってる……」



 タケルが動きを止めると、忙しない拍手が贈られた。観客の2名は、手を打ち鳴らすことで感激を現そうとする。



「素晴らしいです、タケル様。これほどとは思いもしませんでした」


「そうかな。指が全然ダメだったよ。重たかったし」



 それからタケルが顔を向けると、イナと視線が重なった。その瞳は潤み、小刻みに震える肩には、彼もどう応えれば良いか分からなくなる。



「最高……本当に凄いよタケル君」


「これくらい珍しくないよ。ちょっと練習すれば、誰にでも弾けるって」


「全然そんな事無い。でも嬉しいなぁ、こうしてまた聴けるだなんて……」


「また? またってどういう事?」


「あ、いや、えっと……。そうだ! 今の演奏を動画配信しようよ! きっと皆も喜ぶよ!」



 イナはここぞとばかりにタケルの手を握りしめ、話題の転換を促した。しかし、彼女がはしゃぐ姿とは対象的に、タケルの瞳は沈んでいく。



「いや、止めておくよ。ピアノなんか、今更だし」


「どうして? これだけ弾けるなら、皆も聴きたがると思うよ?」


「実はさ、小学生の頃、大人から酷い言葉で罵られてさ。それ以来、弾けなくなっちゃったんだ」


「こんなに素敵な演奏なのに! タケル君、気にしちゃダメだよ。その人に見る目がなかっただけ。それか嫉妬したに決まってるって!」


「真相はどうでも良いよ。今となっては確かめようもないし」


「だからさ、タケル君の素晴らしさを証明しちゃおうよ。100万再生の動画だらけになったら、自信だって付くだろうし!」


「待って。引っ張らないでよ。僕はやると決めた訳じゃ……」



 強引に腕を引くイナだが、横から伸びた手に退路を阻まれた。頼るべき相棒は、いつでもタケルの味方なのだ。



「タケル様は明らかに嫌がってます。その手を離してください」


「強引なのは認めるよ。でもね、タケル君の才能を認めない世界だなんて、絶対に嫌。私の力で有名にしてみせる。バカにした連中を見返してやるのよ!」


「それはアナタのエゴであり、タケル様の願望ではありません。余計なお世話というものです」


「タケル君は、口ではあんな風に言ってたけど、本心では音楽を愛してるの。だったら、トラウマを克服してあげた方が良いじゃない」


「無責任ですね。成功するとも限らないのに」


「あら。アナタは彼の才能を信じないの?」


「まるで、上手くいくと確約されたような物言いですね」


「もちろん、失敗した時には埋め合わせするわ。私の全てをタケル君に捧げたって良い」


「それで得をするのはアナタだけです」



 真っ向から衝突する2人。その外野にはタケルの困惑顔がある。彼は気付いてしまったのだ、これは自分だけの問題だったはずだと。


 認められているようで、握られてしまった自由意志。権利とは何か。唐突に深い部分まで考えてしまうが、争いの結末は、比較的まともな方に軍配が上がった。



「今日の所は引き下がってあげる。でもね、私は諦めないから!」



 イナは台詞を吐き捨て、1人で駆け出した。デパートの出口まで一直線だ。両腕をメダルで満杯にする、セワスキンを後に残して。



「やれやれ。最近の安里さんは強引だなぁ……」



 日暮れを迎えた頃、晩ゴハンは外食する事に決めた。馴染みの店に入り、注文したのは、たらこパスタのバターマシマシ。値段と腹持ちの良さから、学生から不動の人気を得た洋食屋である。



「ところで、ニーナは何をしてるの?」


「少し思う所がありまして」



 ニーナは店員にワイングラスを頼んだ。食事を、特に水分を忌避する彼女がなぜ。そんな疑問は、テーブルをグラスが埋め尽くすと、軽く吹き飛んでしまった。



「何する気なの。まさか、パーティーでも始めるつもり?」


「いえいえ、そうではありません」



 ニーナはすかさず、グラスに水を注ぎ込んだ。並ぶもの全てに。ただし、水の量はそれぞれが、微妙な差をつけられている。微調整を重ねる事、数度。まとまりの無かったグラスの音は、鍵盤かと思える程、精密になった。


 それから指先を濡らすと、グラスのフチをなぞった。すると、甲高くも透明な音が響き渡り、店内の隅々まで届いた。



「これって、確か……」


「グラスハープ、と言われる楽器です。ピアノに嫌気が差している様ですので、別物ならお楽しみいただけるかと」


「キレイだなぁ。凄く繊細な音がしたよね」



 タケルは見様見真似で指を濡らし、フチをなぞった。不思議な程に高く、強く鳴り響く音。それが彼の探究心に火を付けた。


 手あたり次第に音を鳴らしていく。やがて音の高さを把握すると、演奏もまとまりだした。


 複数の指で奏でる和音。音が連なってメロディ。仕様が分かれば独壇場だ。タケルは手元の世界にのめり込み、やがて3分程の曲を演奏し終えた。


 するとテーブル周りには人だかり。盛大な拍手が打ち鳴らされた。



「お兄さん上手だね。ミュージシャンか何か?」


「キレイな音! もう1回聴きたいな!」



 いまだに理解しきれないタケルは、ニーナに縋る様な視線を送った。返されたのは、たおやかな笑み。それを見た途端、乗せられた事に気づく。



「何だよ。ニーナは安里さんの意見に反対だったじゃん」


「私は、いきなりピアノを弾かせる事に反発したのです。才能を知らしめたい、という点につては同意しています」


「そうなんだ。もう、どうでも良いけど」



 この日は、そんなシーンで幕を閉じた。


 そして翌日。ニーナがプルプルと震えた事で、通話が開始した。電話の相手はイナである。


 タケルはそこで、パスタ屋の件を告げた。すると、イナはまたたく間に不機嫌となる。鮮烈デビューの為に、地域最大級の野外フェスを企画しており、アイディアを練りに練っているタイミングだったせいだ。



「あ〜〜ぁ、ニーナさんに先を越されちゃったなぁ。ピアノじゃなけりゃオッケーとか、考えもしなかった」


「まぁ、僕も成り行きでやったんだけど」


「別に良いけどね。企画は練り直しだって分かっただけでも、ちゃんとした収穫だもん」


「さすがに無茶だよ。無名の素人が、いきなり3万人の前で演奏するとか」


「そんな事無いよ。タケル君は凄いんだから。あの演奏には人生を変える何かがあるよ!」


「大げさだよ、相変わらず……」



 いつもの針小棒大、誇張表現。だが、今回ばかりはそうとも言い切れない部分が感じられた。例えば実体験であるかのような、確信めいた何かが。


 しかしタケルが思案した所で、身に覚えがない。考えるだけ無駄というものだ。



「もっと聴きたかったなぁ。タケル君の演奏……」


「そんなに気に入ったなら、安里さんに弾いてあげようか?」


「それって、もしかして、私のためだけに!?」


「うん、たまになら……」


「ありがとう、最高のプレゼントだよ! さっそく、NAMAKOのグランドピアノを買っておかないと。飾り付けにフラワーアレンジメントの先生呼んで、椅子はKOIYAの新作にしよっかな!」


「待って、安物のキーボードで良いから! 鍵盤がフニッフニのやつ!」



 タケルは情にほだされた事を早くも後悔した。しかし律儀な男だ。これ以降、秘密のコンサートが不定期的に開催されるのだから。


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