第37話 令嬢の守護者

 上等なシステムキッチン。そこに並ぶ、曇り1つない食器の数々。値札など見なくとも、高額であると予想するのは容易い。それらの眩さに囲まれる人物は、安里伊奈である。


 彼女を取り巻く全てが豪華絢爛(ごうかけんらん)であるのは、この場が下宿先で無いためだ。夏休みを利用して、いつぞやタケル達を泊めた別荘に来ている。ここに、安里家が気まぐれで揃えた、一級品の装備が集結するのだ。



「さて今日は、美味しいビーフシチューを作っちゃいます!」



 ライブ配信中のカメラに向かって微笑むと、コメント数もウナギ登りだ。可愛い、惚れる、そんな称賛ばかりになる。


 ただし、本当に書き込んで欲しい相手が居ないことは、既に把握していた。どう褒められようとも、空虚な気分を拭いきれない。



「じゃあ、まずは、玉ねぎ切りまぁす」



 イナは勇ましく調理台と向き合うのだが、力加減が分からない。震える刃。左手は丸めているものの、カタカタと揺れる包丁には、画面越しの視聴者も悲鳴をあげてしまう。



「お嬢、もっと力を抜け。危なっかしいぞ」



 堪りかねたセワスキンが、横からたしなめた。その当然とも言える態度は、乙女心を真っ向から逆なでしてしまう。



「分かってる。口出ししないで」


「まずは玉ねぎの線に沿うようにして、切れ込みを入れていくのだ」


「分かってるから。ちゃんと本を読んで勉強してるもん」



 ズダン、ズダンズダン。聞こえる音はやたらと不穏だ。熟練主婦が奏でる様な、トントンとした軽やかさからは程遠く、罪人を断罪するギロチンを彷彿としてしまう。やはり座学と実地では隔たりが大きかった。



「痛ぁ! 玉ねぎの汁が私の眼を!!」


「まったく、見てられん……」



 セワスキンが半ば強引に包丁を受け取ると、華麗な仕草で切り刻んだ。さすがに刃物の扱いが巧みだ。みるみるうちに、均整のとれた美しい食材が並ぶ事になる。


 それを目の当たりにした視聴者は、やはり思い思いのコメントを書き連ねていく。大半はイナを慰め、労うものばかりだ。しかしその内の数件は、彼女にとって看過できない内容だった。



――良いなぁ、私もこんな彼氏欲しい。



 もちろん、それを眼にした途端まくしたてた。



「違うからね、彼はお手伝いさんだから!」


「お手伝いではない、護衛だ。24時間休まず、お嬢を守る事が役目だ」



 セワスキンの訂正は、ひどくぶっきら棒な響きだが、言葉の重みは正反対だ。それが視聴者の心に強く強く刺さる。コメント欄も、にわかに祝福の言葉で埋まる事態にまでなった。



「違いますからホント、彼は恋人じゃないんで! それじゃあ今日はこの辺でさよなら!」



 カメラをオフにすることで配信終了を強行した。イナの両肩は重たく、その場に座り込んでしまう。



「はぁ、びっくりした。誤解でもされたら大変じゃないの……」



 両者の関係を知るタケルが、あっさり信じる事は無いハズだ。しかし噂が実(まこと)しやかに囁かれれば、事情は変わってくる。タケルまでも祝福するパターンは、割とあり得る事なのだ。



「セワスキン、邪魔しないでよね」


「包丁も立派な刃物だ。扱い方を誤れば、自らを傷つけかねん」


「さっきもだけど、何かと横槍をいれるじゃない。旅行の時だって、もう少しで上手くいったのに!」


「お叱りなら既に受けた。だから初日の夜は離れたろう」


「あの時だけでしょ。いっつも私の周りをウロウロして、いちいち世話焼いて。私ってそんなに信用ないかなぁ?」


「信用云々の話ではない。傍にはべり、守り抜く。それが役目だ」


「はぁ……ずっとソレだもん。堪えらんない。もういい加減、息が詰まっちゃう!」



 イナはエプロンを脱ぎ捨てると、キッチンから立ち去ろうとした。その後ろを追うセワスキンに、人差し指が突きつけられた。



「ただの散歩だから、ついてこないで。その間に心の機微(きび)でも勉強したら?」



 そこまで強く命じられると、セワスキンとしては引き下がるしかない。彼は顔色を変えず、直立不動のままで、扉が閉じられるのを静かに見送った。



「やれやれ。年頃の娘は難しいと聞くが」



 セワスキンは室内の椅子に腰掛け、瞳を閉じた。寝入る為ではない。ネットの海に散らばる膨大な情報を、手当たり次第に探り、有用な情報を集めようとしたのだ。


 心の機微や、男女の恋愛観などについて。



「……分からん。何故これで感動できるのか」



 とりあえず手を付けたのは、流行りのヒューマン映画だった。イナと歳の近い役者たちが、もどかしくも儚い人間模様を演じるのだが、セワスキンの心を揺さぶるものは無かった。



「……これもダメか。何が良いのかサッパリ分からん」



 他にも恋愛小説に漫画、果ては指南書までも探ってみたのだが、理解できた部分は皆無。自分には無縁の概念だと判明したくらいだ。



「完全に不向きだな。努力でどうなる物でもない」



 セワスキンは、マジリアル1010号という、戦闘特化のスマートフォンだ。彼の使命は所有者の安定と安寧をもたらす事。そのため十分な戦闘技能や警護能力はもちろんの事、事務処理にも優れる。そして、基本的には私情を挟まず冷徹だ。ただしアプリの干渉が無い場合に限るが。


 この、相手によっては申し分ないパートナーであっても、思春期の少女となると中々折り合いがつかない。何か少しでも学び取ろうと、様々な書物を手に取っても無駄だ。文字が視界を、軽やかに素通りするばかりだった。



「護衛の交代を願い出るべきかもしれん。私には、少々手に余るミッションだ」



 本来のパートナー、イナの父親の元へ戻ろうか。内心で呟きつつ本を閉じ、窓の方に眼をやった。窓ガラスで夏の日差しが煌めく。生身なら暑いのだろうと思うが、それ以外に感じるものは何も無い。


 そんな最中での事。微かな叫び声を聞いた。すかさず立ち上がり、窓を押し開いた。すると、大木の枝上で不穏な声をあげるカラスと、無謀にも相対する子猫の姿が見えた。



「これはマズイ、急がねば」



 一息で窓から中庭に飛ぶ。足元は豊かな芝生。しかし、子猫を覆い隠せる高さは無く、カラスも標的を見失う事はない。


 駆けつけたセワスキンが懐に手を突っ込み、物を投げる仕草を見せた。それだけで警戒したカラスは飛び退き、その姿を消した。



「空打ちだ。悪く思うな」



 別に何かを投げつけたのではない。フリだけだ。野生の摂理に土足で踏み込むのだから、せめて相手を傷つけないように。そんな配慮の現れだった。



「さて、迷える子猫よ。親はどうした」


「ミィ〜〜ヤ」


「ふむ、分からん。だが、おおよそ察しはつく。エスコートしてやろう」



 掌に収まるチマッとした客と共に、セワスキンは裏庭を歩いた。そう遠くない場所に物置があり、外に放置された戸棚を目指す。すると、親らしき猫が顔を覗かせ、鋭い目線を送ってきた。



「さぁ行くのだ。感動の再会だぞ」



 セワスキンが掌を地面に添えると、茶虎の毛玉が飛び降り、駆け去っていく。そして無事、親元への帰還を果たした。子猫がこっそり企んだ大冒険は、辛くも危機から脱し、本来居るべき場所へと戻ったのだ。


 その様子を眺めるセワスキンの顔は、どこまでも穏やかだ。



「分かるぞ。お前の愛らしさ。か弱いがゆえに守ってやらねばならん」



 誰に告げるでもない。ただ自然と溢れた言葉だ。それからは踵を返し、屋敷へと戻っていく。



「それにしても、お嬢は何をしている。もうかれこれ3時間は経つぞ」



 汚れた靴下を履き替えた頃、セワスキンは不審に感じた。イナに持たせた携帯型スマホから、位置情報を確かめてみる。すると、別荘からほど近い所で印が停止していた。



「何をやっているのか。道から大きく外れているぞ」



 位置を地図と照らし合わせてみれば、不自然な場所に居ることが分かる。何かあったのかもしれないと、脳裏に警告が走った。


 セワスキンは叱責覚悟で家を飛び出した。急峻な崖を飛び降り、雑木林を駆け抜け、曲がりくねった県道を横切る。そして、緑地と呼ぶには整備不足の森に踏み込むと、ようやくイナと再会した。


 お相手は、全身を泥まみれにするという、実に哀れな姿だ。無事と見なす事をためらう程度には、悲惨な格好である。



「何をやっている。泥遊びにしては激しすぎるぞ」


「これは、違うの! 自転車で沼の傍を走ってたら、岩にぶつかって、それで……」


「物の見事に水没した、という訳か」



 イナの首が静かに落ちる。その拍子で、泥まみれの黒髪まで垂れ下がった。花柄の白ワンピースにもドス黒い濃淡が刻まれている。そして自転車の方もスポークがひん曲がっており、再び走らせる事は不可能。修理よりも買い換える方が早いくらいだ。


 全てを察したセワスキンは、小さな溜め息を吐いた。続けて、すみやかに部下へ通信を飛ばした。



「ただちに迎えを寄越せ。お召し替えと、シャワー付き送迎車必須。場所はGPS参照。急げ」



 指示は的確。それから大して間をおかず、見慣れたキャンピングカーが県道脇に停車した。下車した若いメイド達が、路上に整列して姫の帰還を待つ。



「さぁ行け。夏とは言え、ズブ濡れでは風邪をひく」



 セワスキンはひしゃげた自転車を受け取ったのだが、不審さに眉をひそめる。イナは立ち尽くすばかりで、一向に立ち去ろうとしないのだ。



「どうした。早くしろ」


「あの、セワスキン。さっきは言いすぎたわ、ごめんなさい」


「気にしていない」


「でもね、息が詰まりそうってのは本音だった。いつも守ってくれるのはありがたいけど、たまには1人で羽を伸ばしたいの。自分の意思で色々試したいの。分かるでしょ?」



 そう聞いて、思い浮かぶのは物置小屋の光景だ。なぜ子猫は独り離れたのか、そしてイナは何を告げたいのか。セワスキンの鋭敏な思考が、それら両者をスムーズに結びつけた。



「分かる気はする」


「だからね、たまには1人でお出かけしたいし、好きな事に挑戦してみたいの」


「良いだろう。今後の護衛計画を、少し見直す事にする」


「ありがとう。じゃあ先に行くね」



 ようやく戻ろうとする背中を、セワスキンは見送った。それから、廃車確定の自転車を担ごうとした所で、前触れもなく着信が入った。


 イナではなく、自分に宛てた電話だった。



「セワスキンです。どのようなご要件でしょうか、旦那様」



 電話の相手はイナの父、セワスキンの所有者である。



「忙しい所を済まない。イナの様子が気になってね。代わって貰えるだろうか?」


「お嬢は今、汗を流しにシャワールームへ。折り返しましょうか?」


「いや、止めておこう。今日は縁が無かったと諦める」



 主従の会話はごく自然なものだが、あいにくセワスキンはスマホである。まず地声で喋り、所有者の声真似をした上で相手のセリフを吐かねばならないという、哀しき宿命を持つ。


 その一人芝居じみた動きは、そこそこ不審者だ。しかし幸いにも森の中である。見咎める住民は1人として居なかった。



「ところでセワスキン。何か変わった事はないかね? 不都合などあれば対処するが」



 この言葉には、さすがの彼も返答に詰まる。


 すると辺りには珍しく風が吹き荒れ、木々の重たい枝葉を揺らした。ザァザァとした響きは、どこか不吉で、風の便りを顕在化したかのようである。


 しかし、セワスキンが感じ入る部分は全く無い。彼が押し黙ったのも、僅かな時間だけであった。



「いえ、取り立てて申し上げる事はありません」


「分かった。では引き続き、娘を頼む」


「承知しました。警護を続行します」



 通話が終わる。その時には既に車が走り去った後で、県道に人の姿は見えない。


 1人で自転車を担ぎながら、坂道を登る。後始末を兼ねた帰還。守るべきものはなく、自分のペースで歩くだけだ。


 そんな最中、不意に見上げてみれば、木々の隙間で揺らめく梢を見た。



「人は人を愛し、互いに求め、群れる事を望む。それでいて孤独も必要だとはな。難儀なものだ」



 光は光。陽射しは陽射し。そう割り切るばかりで、情緒的に伝わる部分は少ない。それでもその横顔は、頬を僅かに緩めていた。まるで心地良さでも感じ取ったかのように。


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