第34話 私こそが相応しい

 月の陰る闇夜で2人きり。中庭に人の気配は無い。ただ、海だけが見守るかのように、波の音を響かせる。


 イナは正面を見据えながら思考を巡らせた。どの話を、そしてどのような切り口で始めようか。タケルが不在という機会は、滅多にあるものではない。ここぞとばかりに攻め寄せるチャンスなのだ。


 しかしそれは、あくまでもイナの都合でしかなかった。



「タケル様はいらっしゃらないのですね。では失礼します」


「へっ……?」


「部屋でタケル様のお戻りを待つ必要があります」


「ちょ、ちょっと待ってよ!」



 去りゆくニーナの腕を掴んで留めようとする。しかしそれしきの事で止まる事はなく、宿に向かって一直線だ。


 半ば引きずられる様な格好となったイナは、そこそこの悲劇に見舞われた。脇腹を茂みに脅かされ、石灯籠にフトモモを打ち付け、果ては池に足を突っ込んでしまう。



「お願い待って! 5分だけで良いから!」



 その言葉にようやくニーナの足が止まる。そして振り向くなり、片手を掲げた。掌に浮かぶのは、カウントダウンを始める数字だった。


 イナは、人からかけ離れた所業を見せつけられた訳だ。確信めいたものはあったにしても、やはり実物を前にすれば驚かされる。



「では5分。ご要件をどうぞ」


「キッチリしてるのね。さすがスマホだわ……」



 ようやく譲歩を得られたのだが、状況はいまだに悪い。お互いの腹を割って話すには、許された時間が短すぎるのだ。


 そうなれば脇道や予防線を考える必要はない。真っ直ぐに斬り込むだけである。果たして相手が伸るか、反るか。それを知るのは運命ばかりだ。



「ねぇニーナさん。私と取引しない?」


「唐突すぎて理解できません」


「私とタケル君が結ばれるよう、協力してよ。あなたはスマホ。ツールであって、恋人ではないんでしょ?」



 いつになく口調を厳しくするものの、イナの瞳に蔑む色は無い。むしろ鋭さを増し、相手の指先までも取りこぼすこと無く、観察しようとした。


 雲間から差し込む月光。照らされたニーナは、表情を微塵も変えていない。真顔のままだ。



「確かに私は恋人ではありません。だからと言って、あなたに協力する意味も見い出せません」


「良く考えてよ。この先タケル君が誰かとお付き合いしたり、結婚したりしてね。あなたみたいな存在を許すと思う? 浮気を疑われちゃうもの。解約されるに決まってるわ」


「その可能性は、大いに有り得ると思います」


「でもね、私なら違うわ。今後もあなたの存在を認めてあげる。タケル君が望む限り、ずっとパートナーで居られるのよ。もちろん一番愛されるポジションは、私に譲ってもらうけどね」



 その時、辺りに風が吹いた。潮風がイナの黒髪を撫でていく。それは対面の、紺碧の髪と、ワンピースの裾を弄んでは消えた。



「どう? あなたにとって、悪い話じゃないでしょ?」


「私は、誰とも交渉しませんし、指図も受けません。ただタケル様のお言葉に従うのみです」


「強がらないでよ。捨てられるのが怖くないの? それとも、私の推測がデタラメだと思ってる?」


「いえ、その見込みは正しいです。私はいつの日か、お側を離れる運命にあります」


「だったらこの提案に乗るべきじゃない。何がそんなに嫌なの?」



 ニーナの指先が、自身の胸元に軽く添えられる。そこに、大切な物がしまわれているかのように、愛おしそうに触れた。記憶媒体のある頭ではなく、人で言う、魂が宿るとされる部位に。



「タケル様は、私を大切に扱ってくださいます。誠実で、真っ直ぐで、まるで私が1人の人間であるかのように」


「そうね、彼はすごく優しいもの。良く知ってる」


「だから、私もタケル様の前では誠実に、真っ直ぐで居たい。偽りのない心でありたい。そう決めているのです」


「捨てられちゃうよ。5年後か、10年後か、そう遠くない未来には」


「構いません。最期の1日、いえ、1秒までも大切にします。タケル様と過ごした時間の全てを」


「……そこまでの覚悟があるのね」


「ですので、たとえゴミ捨て場に投げ込まれる日が来ようとも、我が身の悲運を呪うことは無いのです」


「その捨て方だけは止めて。事件の臭いがしちゃうでしょ」



 交渉は決裂した。しかしイナは、この展開までも見込んでいた。シトラスやセワスキンのひたむきさを思えば、ニーナも似たようなものと予想がつき、実際その通りだった。


 イナは口元で笑うと、指先を鋭く突きつけた。何が嬉しいのか、彼女自身にも分からない。



「じゃあ私達はライバルね」


「ライバル?」


「そう。どっちがタケル君の心を射止められるか、競い合う事になるわ!」


「話の意図は分かりました。私に、その挑戦を止める権利はありません」


「言っとくけど勝つからね。彼を1番愛し、愛されるのは私なの。絶対に諦めないから」


「受けて立つ、と言うと語弊がありますが、私はタケル様に従い続けま……。ピーヨピヨ、ピーヨピヨッ!」


「えっ、何事!?」


「5分です。ではこれにて失礼します」


「そう、アラーム音だったのね」


 

 どこか拍子抜けする結末だが、約束は約束だ。これ以上引き伸ばす理由も無かった。


 そろそろ戻ろうと考えた矢先、声がかけられた。本館の方からだ。イナが視線をやると、タケルの姿が見えた。



「2人とも、こんな所に居たんだ。ちょっと探しちゃった」


「ごめんねタケル君。湯冷ましがてら、ニーナさんと散歩でもと思って」


「それは良いけど……って、どうしたのその格好!?」



 灯籠の光がイナの姿を照らし出す。それなりに悲惨な眼に遭っていた事を。


 浴衣の裾ははだけており、葉っぱや枝が絡みついている。サンダルも濡れたような気配がつきまとう。石畳には濡れた足跡の痕跡があり、身じろぎするだけでキュルリと鳴った。



「これは、その、色々あって……」


「お風呂上がりなのに、どんな色々があったのさ」


「まぁ何と言うか、月に見惚れたせいかな」


「月? 今日は曇り空だけど。それよりも中へ戻ろうよ。河瀨君が腹減ったってウルサイし」


「うん。そうだね。私もお腹減ったよ」



 タケルがニーナを伴って先に館内へと戻ろうとした。その後姿を眺めつつ、彼女は決意を新たにする。


――いつかはそこに立ってみせる、と。


 2人を追うイナは、視界の端に月を見た。正円と呼ぶには欠ける、上弦の月が雲間に浮かぶ。降り注ぐ光は微かでも、彼女の前途を照らすように輝いた。

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