第31話 夏と言えば

 大学の夏休みは長い。高い学費に反して、とにかく長い。それは大半の学生にとって喜ばしい事なのだが、タケルにとっては苦痛でしかなかった。



「暑い……これもう異常気象でしょ」



 アゴを伝う汗。Tシャツとハーフパンツが不快にベタつく。夏の猛襲は片時も休むこと無く、タケルの部屋に押し寄せていた。


 不運な事に、備え付けのエアコンが故障してしまったのだ。酷暑が理由で電気屋は混雑しており、予約は当面満杯。冷風を満喫するまで何日かかるのか、想定すらできなかった。


 窓を開ければ熱風。ウチワで扇いでもその場しのぎ。これが仮に講義があれば涼めるのに、飲食店バイトならエアコンを堪能できるが、そのどちらもタケルの予定に無かった。



「こうなったら、図書館でも行こうかな。でも外はもっと暑いしな……」



 気だるく、重たい腰を持ち上げようとした所で、頬に冷たいものが触れた。



「うひぃ!? 何これ!」



 死角から伸びてきた人肌とは思えない掌は、心霊現象を彷彿とさせた。命の温もりが消えた指先に、魂を抜き取られそうな錯覚すら覚えた。



「どうでしょうかタケル様。涼んでいただけましたか?」


「これ、ニーナの手!? 驚いたな。今のは一体何なんなの?」


「新衣装に付帯する機能です。接触冷感ですよ」



 本格的な夏を迎えたことで、ニーナも装いを替えていた。純白のノースリーブワンピースで、麦わら帽子とセットのものだ。軽やかな生地のため、些細な所作で裾が揺れる。四角い襟首から覗く首周りも、周囲からは涼しげに見える。そして嬉しいことに、この衣装には冷却能力までもが備わっていたのだ。


 商品名の隣に氷のアイコンが付いていたのは、特殊機能を知らせるものだったが、タケルは理解しないままに購入した。タイムセールに食いついただけだった。



「だいぶ冷たいんだね。こっちが驚くくらいに」


「はい。ですので、存分にご活用ください」



 ニーナが微笑みながら両手を広げた。迎え入れるかのような仕草だ。それを受け入れたなら、後はアツい包容が待っている。



「さすがにそれはマズイでしょ……でも、冷たくて気持ちいいなぁ」



 タケルは、とうとうニーナの掌を離すことができず、自身の頬に当ててしまう。絶妙な冷気には圧倒的な魅力があるのだ。


 その動きをニーナはどう思ったか。掌に頬を寄せるタケルを目の当たりにし、未知なる感情を揺さぶられてしまう。それから、ややプスンとエラーを吐くのも、当然の成り行きだった。


 しかし、そんなひと時も長くは続かない。ニーナが唐突にバイブ振動を始めたのだ。掌には『安里伊奈』の文字が浮かぶ。



「タケル君、いきなり電話しちゃったけど平気?」


「あぁ、うん。大丈夫だよ」


「せっかくの夏休みなのに、毎日暑いよね。夏バテしてない? 平気?」


「エアコンが壊れちゃってさ、ちょっとキツかったんだよね」


「えぇ!? 大変じゃない! 最新のエアコンを送るよ、もちろん電気屋さんも連れて」


「いやいや、もう大丈夫だから! 涼む方法をついさっき見つけたんだよ」


「それって濡れタオルみたいやつ? 無理してない?」


「お気持ちだけ貰っとくよ。こっちも割と快適だし」



 真正面から褒められたとあって、ニーナは通話中にも関わらず、ガタガタプスンとしてしまう。電話口で不審がるイナには、近くで工事していると取り繕った。



「それで本題なんだけど。毎日暑いから、海にでも行こうよってお誘いなの」


「海かぁ、たまには贅沢してもいいよね。ちょっと行きたいかも」


「良かったぁ! もし予定が合うなら、2泊くらいしようと思うんだけど、どうかな?」



 その言葉に、タケルはほろ苦い記憶を呼び覚ました。身の置き所のなかったイナの別荘。豪華すぎる食事に、露天風呂や寝室。とにかく羽を伸ばせない想いは、今も生々しく残っている。



「海に行くって、また安里さんの別荘?」


「あ、それはね、別のとこにしようと思って。穴場の旅館を見つけたんだ」


「そうなんだ。でも、安里さん基準なら高いんじゃない?」


「全然そんな事無いよ。サラリーマンお父さんの人気ナンバーワンだって特集組まれてたし、安いのにサービスが充実してるって評判なんだよ!」



 ここでタケル、強烈な違和感に包まれる。庶民から大人気の旅館が穴場とは。普通に考えれば、予約が満杯の大混雑だろうに。思わず指摘(ツッコミ)たくなるのだが、イナはどこか急かされた様に早口であった。



「持ち合わせが無かったら、私が立て替えておくよ。車はセワスキンが運転してくれるし。どうかな?」


「良いんじゃないかな。それに、学生の内に少しは旅行も経験しておきたいし」


「うんうん、そうだよね! ちなみに部屋なんだけど、どれだけ空いてるか分からなくって。だから私とタケル君で一部屋借りて、セワスキンには別の宿を……」


「ニーナも連れて行っていい?」


「え、あぁ、うん。大丈夫でぇす……」


「じゃあ二部屋で頼めるかな。お金ならちゃんと払うから」


「分かりましたぁ……。ちなみに旅行の話は、皆にナイショにしてもらえる?」


「どうして秘密にするの?」


「えっと、色々と穴場だから、あんまり知られたくないなって。お願いしても良い?」


「そういう事ね。分かったよ、口外しないから」


「それじゃあ当日はよろしくね、タケル君」

 


 タケルは、妙に尻下がりな通話を終えた後、しばらく首を捻った。細かく考える程に引っかかる部分があり、ムズ痒くさせられるのだ。



「なんだろ。安里さんのお誘いって、いつも不自然なんだよなぁ。割と頻繁に声がかかるし」


「それは、タケル様に好意を抱いている為です」


「安里さんが、僕を……?」



 タケルは動きを止め、瞳からも意思の光を曇らせた。心の奥へと深く潜り、じっくりと思索する為だ。その数秒後。それまでとは一変、破顔して白い歯まで見せつけた。

 


「ないない。彼女は美人だし、優しいしで人気者なんだよ。すごいお金持ちだしね。僕みたいな平凡な男じゃ全然釣り合わないよ」



 哀れイナ。本人の努力は想い人には全く響いていなかった。


 それからもニーナは言い募ろうとするのだが、掌に頬寄せるタケルの姿を見れば、自然と口は閉じていく。そして眼を細めながら、タケルとの時間を満喫した。



「タケル様、そろそろお昼の準備を始めたいのですが」


「もうちょっと待って。そもそもお腹空いてない」


「冷たい素麺(そうめん)などはいかがでしょうか?」


「それで良いよ。でももう少しこのままで……」



 今この瞬間だけは他者の存在など不要なのだ。


 やがて迎えた出立の朝。タケルのアパート前でクラクションが鳴り、予定通り車へと乗り込んだ。レンタカーを走らせるのはカツトシで、助手席にはタケルが座る。



「よっしゃあ! ひと夏の思い出、作りに行こうぜぇ!」



 後ろ側の座席は2列。中列にニーナとシトラスが並び、後列に座るのはイナとセワスキンだ。


 賑やかに染まる車内で、イナだけが顔色を重たくする。そして這い寄る様な声でタケルに問いかけた。

 


「ねぇタケル君……ナイショにしてって言わなかったかな?」


「ごめん。河瀨君なら良いかなって」



 あっけらかんとした答えに、イナは押し黙るしかない。心の痛みに堪えるのみ。すると、座席越しに伸ばされた手によって、肩を優しく叩かれた。どこか労りの気配を宿したものが。



「あなた、やっぱり才能ある。とても良い顔してるもの」


「はぁ、それはどうも……」



 そんな一行も、景色が変わる毎に気分も向上していった。車窓の向こうが住宅街、高速道路、やがて海沿いの国道へと塗り替えられていく。


 そうして昼前には目的の海岸に辿り着いた。



「へぇ、大勢の人が居ると思ったら、割と空いてるね」


「そうなのよタケル君。電話でも言った通り、ここはすっごい穴場でね。旅館も海から近いんだよ」



 広々としたビーチには数える程しか人影がない。貸し切り同然のロケーションに、一行は早くも大興奮だ。


 実は彼らは全て、安里家に連なるもので、一般的な海水浴客ではない。道行く通行人も、イナの息がかかった者ばかりだ。


 この日の為にイナは巨額の資金を投入し、地域の漁協から観光業者まで幅広く味方に付けていた。主要道路には規制線が引かれ、容易には海岸まで到達できぬよう整備している。その一方で、関東地方全域にて『わくわくレジャー施設半額キャンペーン』を展開したので、大多数の観光客は余所へと流れているのだ。


 現地と外的要因を、圧倒的な資本力で調整する。さすがは世界のAsatoだ。少し本気を出せば、こんな一大プロジェクトも朝飯前であった。



「よっしゃあ、泳ぐぞーーッ!」



 カツトシの掛け声で、一行は着替えを持って海の家へと向かった。


 果たして、劣勢を強いられるイナが、考えに考え抜いた秘策とは。そして必勝を誓って買い求めた新作水着とは。


 全ては間もなく明らかとなる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る