第30話 洗礼の夏
酷暑。うだるような暑さが日本列島を覆い尽くし、今年も北から南まで大いに苦しめられる事になる。それは梅雨空の重たさが、心から恋しくなる程だ。
「本日は快晴。降水確率は0%と、行楽日和になっております」
「全然、お出かけに向いてない気温だけどね……」
タケル達は週末を利用し、片田舎の農村までやって来た。電車を乗り継いだ先で、燦々と降り注ぐ陽射しだけでなく、アブラゼミの大合唱までも全身に浴びるのだ。片時も休まず響く鳴き声には、慣れるしかなかった。
そうまでして足を伸ばしたのは、大玉スイカを目当てにしたからだ。この近辺で農協が安売りをやると聞き、暑さを大して顧みず、今ここに居るという訳だ。
「それにしても、農協まで遠く感じるなぁ……」
田舎道は広く、風通しが良い。住宅街ではお決まりの、室外機による熱波攻撃とも無縁だった。
しかし見渡す限り田んぼ、たまに民家や物置という道では、日陰になる場所が見当たらない。天空で煌めく太陽が、タケル達の前途すらも暗く照らすのだ。徐々に徐々に、体力だけでなく気概すらも奪われていく。
「こんな時はニーナが羨ましいよ。気温が高くても辛くないでしょ?」
「基本的に痛覚がありませんから。ですが、『夜のトクトクお誘いセット』等のご購入で、痛気持ちいいの概念を理解出来るようになります」
「そっか。僕には無縁の話じゃないかな」
その間もアブラセミが熱唱を響かせる。夏の風物詩とは言え、それを楽しめるのは冷房の効いた部屋か、あるいはレジャー中くらいだ。暑さでボンヤリする今は、煽り言葉のようにすら聞こえてしまう。
「ちょっと、そこの神社で休ませてもらおう。ベンチもあるし」
タケル達が逃げ込んだのは寂れた神社だ。塗装の剥げた鳥居、社務所は無く、こじんまりとした本殿がひっそりと佇むばかり。賽銭箱に5円玉を投入。続けて二礼、二拍手、一礼。
挨拶を済ませると、今度は境内のベンチに腰を降ろした。立派な楠の木が織りなす日陰に守られつつ、麦茶入りの水筒を呷った。
「ふぅ、暑いなぁ。ちょっと甘く考えてたよ」
「気温は36度、微風。数値よりも暑く感じられるのかもしれません」
「やっぱりバスに乗ろう。出費がかさむけど、背に腹は代えられないよ」
「そのバスですが、今しがた……」
無情にも、路線バスが目の前を通り過ぎて行く。ここからバス停までは遠い。追いかけても間に合わない事は明白である。
「うん、まぁ、あれだ。少し長めに休憩してさ、次のに乗ろうよ。30分後くらい時間を潰せば、またバスが来るでしょ」
そう楽観するタケルに現実を突きつけたのは、バス停の時刻表である。かつては白く輝いたそれは、今や日焼けとサビによって赤茶けており、無言の圧力を放つようである。
――田舎をナメるなよ、と。
「嘘だろ。次のバスまで3時間!? そんなに本数が少ないの?」
「タケル様。アテが外れたと分かれば、待つことは無意味かと」
「分かってる。頑張って残りの道のりを歩いて行こう」
「無事たどり着けるよう、全力でサポートします。最後まで諦めないでください」
「大げさだよ。逆に不安になるからやめて」
「何か退屈しのぎに、面白そうな話を探してみますね。少々お待ちください」
「あぁ、それは助かるな。気が紛れそうだし」
それから再び彼らは歩き出した。木陰すらまばらな一本道を、ただひたむきに、直射日光に苛まれながら。
こうなるとタケルも口数が減るようになる。しかし本当に危険な状態であるのは、ニーナの方だった。
「どうしたの、大丈夫?」
「はい……。特に……問題ありま……せんよ?」
ニーナの挙動に異変が起きていた。口の動きと発音にズレがあるのだ。そして真っ直ぐに歩けない。足取りは左右にフラフラと覚束なく、無意味に雑草を踏み越えたりする始末。
その様を眺めるうち、タケルは閃くものがあった。すかさずニーナの額に手を添えてみる。
「熱い! 体温がすごく上がってるよ?」
「そう、なんですか……? ピピッ。そう、なんですか? ピピッ、検索結果の表示。てやんでぃ。こちとら先祖代々、エモっ子でい」
「分かったぞ。これは熱暴走だ……!」
みるみるうちにパフォーマンスが悪化するのは、ニーナの体温が危険域にまで達したことで、自ずとエラーが生じるようになったのだ。
これ以上はマズイ。しかし引き返そうにも、駅は遠い。このまま踏破したほうが早いくらいだ。仕方なくタケルは、ニーナを担ぐようにして先を急いだ。
「がんばれニーナ。もう少しで着くからね」
「へぇ、着く。着くんでやすか。ツクツクといえばツクツクボーシが思い出されるんですがね、アタシの場合はですよ? それが聞こえますと、じきに夏が終わるなぁなんて口を揃えますけども。でもまぁ最近の夏は長いし暑いしで、季節の愉しみってもんが……」
ニーナの容態は深刻だ。求められてもいないのに、小咄(こばなし)らしき口調になっている。軽快な口ぶりに反して、タケルは不吉なものに見舞われた。
しかし急ぎたい気持ちとは裏腹に、歩みは遅い。真夏の陽射しに照らされたタケルはもちろん、ニーナも凄まじい熱がこもるのだ。何度も「遭難」の二文字が過ぎる。それでも自身を叱咤しつつ、一歩でも前へと進んでいく。
そうする事で農協まで踏破してみせたのは、彼が持つ粘り強さのお陰だった。
「やっと、着いたぁ……!」
「おぅ治郎の助よ、突くときゃもっと腰をいれるもんだ、腰を。そんなヘッピリ腰じゃ美味ぇ餅は作れねぇぞ。親方ぁ。そうは言いますがね、こっちも死ぬ気でやってんですわ。肩も痛けりゃ腰も痛ぇわで。もっと若ぇ奴に頼んでくんねぇかい?」
タケルは話途中のまま、特にオチまで聞くことも無く、建物内部へと足を踏み入れた。すると中は極楽。締め切った屋内はエアコンで存分に冷やされており、時間が次の季節まで早送りされたかのようだ。
玄関で、靴も脱がずに座り込んでいると、中から声をかけられた。中年の職員である。
「あんれまぁ。見ねぇ顔ですけど、お客さんけ?」
「はい。スイカが安いって聞いて、歩いて来たんですけど……」
「そりゃあ大変だったべよ。今、水を持ってきますんで、そこのソファで休んでて貰えます?」
奥に消えた職員は、ミネラルウォーター2本を携えて駆け戻ってきた。ペットボトルは良く冷えていた。
タケルはありがたく水を頂戴し、喉を鳴らして飲んだ。今も休まず小咄を続けるニーナには、脇に挟ませる事で、過剰な熱を逃そうとした。
事情を知らない職員は面食らうのだが、正気を取り戻したニーナを見て更に両目を見開いた。
「どうもお手数をおかけしました。お陰様で、完全に復調しております」
その言葉を裏付けるだけの笑みは、やはり柔らかい。職員の男は、驚いた顔を隠そうともせず、タケルの方へと向けた。
「最近の若ぇ子ってのは、こんな感じだべか? 不思議な子だなぁ」
「ところで、スイカってまだ残ってます? あるなら欲しいんですけど」
「もちろんもちろん。上玉がたんまり残ってんべよ。こっち来てくれっけ?」
それから1度、表に出てから建物を回った。そちらでは広々とした庭にテントが建てられ、販売ブースとして活用されていた。日陰には氷水を満載した金ダライと、よく冷えた大玉スイカが見える。
これがもしスーパーに並んでいたら、4千円近くはするであろう立派なスイカだが、話通り破格の値段で買うことが出来た。せっかくなので2玉。持ち帰り用のネットまでサービスして貰い、タケルとしては大成功のように思えた。
しかし浮かれるのも束の間、すかさず現実が彼の耳に囁いた。
「そうだよ。これ、持って帰らなきゃいけないんだ……!」
いまだに陽は高く、そして暑い。帰りに10キロ近い手荷物を加えるとは、もはや正気の沙汰ではない。バスに乗るか、或いは日暮れまで待つかの2択だ。
とりあえずバスの時刻表をと思った矢先、タケルの耳に信じられない言葉が飛び込んできた。
「お兄ちゃんら、これから駅まで帰るんだべ? 送ってくけ?」
「えっ! 良いんですか!?」
「わざわざこんなド田舎まで来てくれたんだべよ。そんぐれぇお安い御用ってもんだべ」
「ありがとうございます! 本当に助かります!」
こうしてタケル達は、田舎の優しさに触れながら家路についた。膝に大玉スイカを乗せて見送る車窓の風景は、何もかもが情緒的に感じられる。散々耳元を騒がせたアブラゼミの合唱ですら、一抹の寂しさを覚える程だ。
一言で言えばクーラー最高。文明万歳、という事だ。
それから駅で職員と別れると、何度も頭を下げて見送った。そして電車に乗り込み、彼らの現実へと帰っていく。
「色々あったけど、最終的には良い思い出になったね」
「タケル様。申し訳ないのですが、記録が所々で欠損しています。空白期間に何かありましたでしょうか?」
「いや、まぁ、大した事無かったよ。気にしないで」
来年もまた来よう。手元のスイカを叩いてみれば、ポンと愉快な音が鳴る。それが一層の喜びを誘うのだった。
ちなみにアパートに帰宅してから、タケルは早くも後悔させられた。スイカが大きすぎる為に冷蔵庫に入らないのだ。パックの牛乳など、中身を全て取り出しても、一人用のそれは余りにも小さすぎた。そもそも冷蔵庫の扉すら閉まらない。
仕方なくバスタブに氷水を敷き詰め、スイカを保存する事にした。そして日保ちに対する懸念から、2日間の3食全て、赤い汁で満たす事を強いられた。現実のほろ苦さを混ぜ合わせた、瑞々しくも強烈に甘い汁で。
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