第28話 偉大なる現代医療

 昼休みが終われば午後の講義だ。しかしタケルは早く来てしまったため、手持ち無沙汰である。席に着く生徒の姿もまばらだ。だからと言う訳でもないが、手元のビニール袋を漁り、中から箱を1つ取り出した。



「新商品、気になってたんだよね」



 机に置いたのは、パッケージが上等なチョコ菓子だ。期間限定の「生ショコラ風海鮮ウニ醤油ミソ味」である。2百円オーバーの手が出しにくい価格帯だが、中間テストを乗り切ったご褒美として買ったものだ。


 中身は6封の小袋分け。そのうち1枚を口に運び、辺りに乾いた音を響かせた。



「あっ。キワモノかと思ったら、意外と……」



 2袋目、3袋目へと手を伸ばしていると、タケルの座る机脇に誰かがやって来た。それは安里伊奈だ。その数歩後ろにはセワスキンの姿もあり、彼は居心地悪そうに横を向くのだが、タケルは見えないフリを決め込んだ。



「タケル君。何を食べてるの?」


「これ、新発売のチョコでさ。前から気になってたから買ってみたんだよね。安里さんも1枚どう?」


「ありがとう。いただくね!」



 ささやかな好意に気を良くしたイナ。軽快な食べっぷりから一転、その顔は瞬く間に曇らされる。



「な……何ていうか、個性的な味わいね」


「そうかな。割と万人受けだと思うけど」


「ま、まぁそうかもね。それにしてもタケル君って甘い物好きだよね」


「言われてみれば、そうかも。毎日何かしら買ってるし」


「それならさ、実はね、凄く良い物を貰ってて……」



 イナが告げようとした言葉は、アンニュイな口調の講師によって阻まれた。



「はい、もうすぐ講義を始めます席に着いてまずは出席ぃ……」



 大して間を置かずに、午後を報せるベルも鳴り響いた。雑談もこれまでである。


 そして講義が終われば帰宅。家路を歩くタケルは、イナの会話が途中であった事など忘れて、独り駅のホームまでやって来た。


 電車を待つ間、先程のチョコをもう1個。マナーよりも食欲が勝利した形だった。



「どうしよう、帰りがけにもう1箱買っても……!?」



 その時タケルに衝撃が走る。口に含んだチョコは咀嚼せず、体温でジワリジワリと溶かしていく。しかし、そんなものは悪寒と共に走ったダメージに比べれば、有って無いようなものだ。


 調査は舌先で。恐る恐る右奥歯に派遣する。そうして感じ取った報告は、彼にとって、酷く受け入れがたいものであった。


 精神的ショックのせいだろうか。電車が到着し、ドアが開かれても立ち尽くしたままだ。発車ベルが鳴り響くまで、彼は乗り込む事すら忘れてしまう。それから帰宅するまでの道のりは、記憶が妙に曖昧で、気づけば玄関先に居たと錯覚するくらいだ。



「お帰りなさいませ、タケル様。晩御飯はもうご用意してあります」


「う、うん。ありがとうね……」



 暖かな味噌汁の香りが室内に漂うも、食欲は今ひとつ。いっそのこと、ゼリーでも食べて完食としたい所だ。しかしそんな日に限って、献立が厳しいものだったりする。



「今晩は、かた焼きそばを作ってみました。お口に合うと良いのですが」



 よりにもよって噛みしめるタイプの料理。そして太麺だ。タケルは悲鳴をあげたくなるが、ニーナの頑張りを思えば、無下にする事は出来ない。



「どうしましたタケル様? 顔色の彩度が普段より18.7%ほど低いのですが。どこかお加減が悪いのですか?」


「いや、そんな事はないって! 熱だって無いし、完璧に健康だよ」


「そうですか。では温かい内に召し上がれ」


「いただきまぁす……」



 パリパリでこんがりな麺は香ばしい。しかし、今ばかりは食べづらくて仕方ない。濃厚な餡(あん)を可能な限り引き伸ばし、麺を柔らかく解しながら口の中へ運ぶ。そして左頬だけパンパンに膨らませて、咀嚼、飲み込む。味の方は良くわからない。不味くはないが、美味いとも感じなかった。



「タケル様、あまり食が進んでいないご様子。昨日と比べて食べる速度が36.74%程遅いのですが」


「いや、その、早く食べると体に良くないって聞いたから」


「素晴らしい心掛けです。では右の歯で噛もうとしないのも、健康増進の一環でしょうか?」


「まぁ、そんな感じかな……アハハ」



 タケルはどうにか誤魔化しながら、その日を凌いだ。明日は土曜日。奥歯の事情とゆっくり向き合うことが出来る。



「いや、そもそも虫歯と決まったわけじゃないし。寝不足とか、気圧の変化が関係したんだよ、きっと……」



 非科学的な希望を抱きつつ就寝。念の為、歯磨きはしつこいくらいに時間を掛けておいた。


 翌日。やはり痛いものは痛い。気のせい、勘違いに期待するが、口内から伝わる衝撃は生々しい。



「参ったな。昨日の夕方までは何とも無かったのに……」



 頬を押さえて途方に暮れる。台所ではニーナが掃除の真っ最中で、タケルがベッドの上に居るうちは死角になる。こんな時でもなければ憂う事すらできないのは、少し窮屈に思う。


 とにかく今はゆっくりしたい。しかし、そんな時に限って来客が来るものである。



「タケル君。昨日の話の続きだけどさ」



 玄関先にやって来るなり、イナは話を切り出した。タケルは何の事か見当もつかないのだが、教室での会話について触れられると、おぼろ気ながらに思い出した。言われてみれば話途中だったなと。



「そんで安里さん。今日は何の用事?」


「あのね、知り合いのパティシエさんが、新作のお菓子を送ってくれたの。タケル君も良かったら是非!」


「新作のお菓子……ッ!?」



 用件はさておき、友達を門前払いする訳にもいかない。笑顔の花開くイナと、仏頂面のセワスキンを部屋の方へ通した。



「ジャジャーーン。三ツ星シェフが気まぐれに作った、贅沢シフォンケーキの生ショコラがけでっす!」



 保冷剤に囲まれた箱からは、ホールケーキが登場だ。きつね色の生地に、滑らかなチョコソースがふんだんに掛けられ、側面から滴り落ちている。


 普段のタケルなら眼を輝かせるシーンだが、今は腹を刺された様な気分だ。心なしか、歯の痛みが悪化した錯覚もある。



「はいタケル君、どうぞ。チョコプレートの大きいところ」



 切り分けられたケーキが、タケルの前に差し出される。ドロリとしたチョコソースが煌めく様は、何かを無言で訴えるかのようである。


――お前の歯を溶かしてやるぞ、と。


 ともかく不審がられてはならない、そう判断したタケルは、フォークで1口頬張った。舌先から鼻の奥まで贅沢な味わいが広がる。もちろん全てを左奥歯で処理。しかし何かの拍子で甘味が右側を脅かした。


 糖分と出会いを果たしたミュータンス菌。ばらまかれる酸。走る激痛、のたうち回るタケル。その様子、普段は大人しい彼にしては激しすぎるもので、もはや奇行の類にしか見えなかった。



「どうしたのタケル君。転げちゃうくらい美味しかった?」


「やはり具合が悪いのですね、タケル様!」



 ニーナは急いで駆け寄って座ると、膝の上にタケルの頭を置いた。それを見たイナは対抗すべく、タケルの手を握りしめては、自身の膝に乗せた。


 もちろん激痛に苦しむ青年は、乙女のフトモモを堪能するゆとりなど無い。



「歯が、歯が痛い……!」


「もしかして、虫歯なの? ごめんなさい、そうとは知らずにケーキなんか持ってきちゃって」


「いや、まだ、虫歯と決まった訳じゃ……」


「とりあえず歯医者さんに見てもらったら?」


「歯医者は嫌だ!」


「えっ、どうして!?」


「だって、口の中にドリル突っ込んで歯をガリガリ物理的に削るだなんて、原始的じゃないか! 今は21世紀だよ? 飲み薬とかで解決できないとか、絶対おかしいでしょ! 絶対に!」


「う、うん。気持ちは分かるよ。私も歯医者の日は憂鬱になるし」


「とにかく僕は行かないからね!」

 


 猛然とまくし立てるタケルに、イナは気圧された。彼には激しい部分もある。そこがまた魅力だとイナは見惚れるのだが、話題はいまだ歯痛に集中していた。


 そして真っ先に解決策を示したのは、やはりニーナである。



「タケル様、歯医者には行かれないのですか?」


「やだよもう、ほんと行きたくない。このまま痛みが無くなっちゃえば良いのに」


「承知しました。では、私が治療を施しましょう」


「そんな事が出来るの?」


「検索をかけてみたところ、どうやらボウガンの力を利用して歯を抜く事が可能のようです。まずはボウガンの調達から始めますね」



 まさか、より原始的な治療法だとは。もちろん麻酔も無い。タケルは想像するだけで目眩を覚えた。


 そこへすかさずイナが割り込んできた。その顔には、名案ありと書かれているかのようだ。



「タケル君。歯医者に行きたくないなら、来て貰えば良いよね」


「何言ってんの安里さん」


「知り合いに、訪問治療をやってるお医者さんが結構居るんだ。まぁ私はいつも、保険適用外の治療ばっかりだから、今回もそうなりそうだけど」


「保険外って、いくらになっちゃうの!?」


「でも気にしないで、お金ならウチで払っておくから。タケル君は治療に専念するだけで良いよ」



 タケルは戦慄した。身の丈に合わない恩義を受けてしまう事に、本能が警鐘を鳴らすのだ。特にこの女から借りを作るなと、そんな声まで聞こえる想いだ。


 そんな中、イナの動きを止めたのはセワスキンだ。仏頂面で押し黙っていた男が、この時になって初めて動いたのである。



「お嬢、そこまでする必要は無い。医師とて急な呼び出しには困るハズだ。そもそも無駄な散財は控えろ」


「でも、タケル君はこんなにも苦しんでるんだよ。早く助けてあげたいもん」


「なら私がやろう」


「セワスキンに? 何か出来たっけ?」


「全ての歯を粉砕して取り除く。そうすれば生涯、虫歯に苦しむ事もなかろう」



 やはりダメだった。3人ともに意見は相容れず、各々が勝手に動き出す事になる。



「そもそもボウガンを入手するのに、届け出や登録など必要なのでしょうか? 不勉強で申し訳ありません。これから少し調べてみますので、しばらくお待ちください」


「覚悟しろ飯場タケル。痛みなら気にするな。どうせ気絶するに決まっている。次に目覚めた時は晴れて総入れ歯だ、喜べ」


「もしもしミタライさん? ちょっと訪問治療をお願い。腕の良い歯医者さんで。ランキング10の全員に断られたら、前金を2〜3本上乗せして構わないから」



 そんな混沌とした騒ぎの中、タケルは消え入りそうな声で、しかし確かに言った。



「歯医者さんに行ってきます」



 それからは右側にニーナ、左側にイナが付き添いつつ、近辺の歯科へと向かった。そして小一時間。診察室から出てきたタケルの顔は晴れやかだった。



「いやぁ、最近の歯医者って凄いんだねぇ。痛みがほとんど無いし、説明だって丁寧だし!」



 タケルは瞳を輝かせながら、待合室の中で饒舌になった。予定外の出費3千円は、そこそこ重くはあるものの、歯の痛みに比べれば些細な事だ。


 帰りに並ぶ顔は、タケルを真ん中に据えて笑顔ばかり。その背後に仏頂面を1つ足して、家路についた。


 日々進化する現代医療において、歯科治療もその例に漏れない。表面ないし局所麻酔による痛みの軽減を皮切りに、不安や恐怖を緩和させるべく、様々な努力が随所に見受けられる。近代以前の力任せによる抜歯に比べれば、天国のような治療だと言えよう。

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