第24話 ニーナの何気ない日々

 午前7時の10分前。暖かな日差しを浴びたニーナは、家主よりも早く身を起こした。



「アラームまで残り5分。活動を開始します」



 寝起きには程遠い足取りで台所へと向かい、手始めにケトルで湯沸かし。パンにバターを一往復半こすり付け、オーブントースターにセット。窓を半開きにして室内の換気。そこまで終えた所で、所定の時刻となった。



「タケル様、朝ですよ。起きてください」


「えぇ……あと5分だけ寝しゃせて……」



 タケルはどちらかと言えば低血圧寄りで、寝起きの良い方ではない。それに加えて、最近は新リリースされた「追い越せ! 動物の模試 全国版」というソシャゲにハマり気味である。そもそも睡眠時間が不足気味なのだ。


 しかし朝の1分は金、1秒は銀に相当する。時間の浪費を抑えるべく、ニーナは1つ工夫を試みた。寝顔を晒す耳元に唇を寄せて、肌に触れるギリギリの位置での声掛けだ。



「タケル様。今日は良い天気ですよ」


「うひぃ! おはようございまぁす!」


「朝食のご用意が出来ました。どうぞ召し上がれ」


「う、うん。ありがと……」



 心臓が飛び跳ねんばかりに驚いたタケルは、胸元を抑えつつ、テーブル前に腰を降ろした。


 6枚切りの焼きパンとコーヒー。最近の定番メニューだ。それから15分も過ぎたなら、家主は学び舎へと向かわねばならない。



「それじゃあ行ってくるね。後はよろしく」


「はい。お気をつけて」



 タケルを見送った後は、続けて家事に着手する。充電率は95%だ。休息を取る必要など無い。


 手始めに洗濯機を回し、その間に掃除機がけ。ニーナは何かとタケルを戸惑わせるが、家事を覚えるのは早かった。そこは流石に万能型と呼ばれるだけはある。掃除機の扱いも巧みだ。



「あら? こんな所に本が……」



 ベッド下の清掃に取り掛かった時、一冊の本が眼についた。それは水着女性が表紙を飾るもので、内容もその範疇に収まる。脱いで水着止まりというコンテンツで満足出来るあたり、タケルの気質が窺えるものだ。



「本も大切にしないと、カビが生えたりして、ダメになってしまいますからね」



 ニーナは秘蔵本を棚へと移した。そうして「記号論理学のすすめ」や「ネイティブ推奨のイディオム百選」の隣に「むちむち爆乳フェスティバル」が背表紙を並べる事になった。もちろん彼女に悪意は無く、むしろ善意の現れである。


 やがて洗濯機が完了の音を鳴らす。ニーナはマスクで口元を覆うと、すぐに洗濯干しへと移行した。飛沫程度であっても、水気の吸引には気を配るのがベストだ。



「良い日差し。今日は早く乾きそうですね」



 洗濯物を宙で振り、シワを伸ばす。続けて物干しにブラ下げては布地を引っ張り、更に整えていく。1人分の量なので、大した手間ではない。


 それからは細心の注意を払いつつ、水回りの掃除。ゴム手袋が欠かせない。ただし慣れてしまえば、水濡れの危険性も皆無と言える作業だ。



「さてと。お次は買い物ですね」



 タケルからは食費として3万円、雑費に5千円が事前に手渡されている。2人暮らしでは厳しい額面だが、ニーナは生活費を必要としない。電源さえ確保出来れば問題ないのだ。


 そのためニーナは、タケルの献立だけを考えて買い出しをすれば良い。



「長ネギが3本で148円。いただいておきましょう」



 買い物かごは肉や魚だけでなく、野菜類も充実している。不足する調味料も拾い上げ、そろそろ会計となった頃、その足は止まった。


 そこは冷凍食品エリアである。



「そう言えば、たこ焼きが無くなりそうでした。買っていきましょう」



 しかしこの時、珍しく指先が惑う。品は2種類あり、値段の差額は100円。安い方は中身に不満がある。タコの小ささは驚かされる程で、懸命に捜索しなければ見つかる事はない。その一方でお高い品はというと、納得するだけのタコが包まれている。


 どちらを買うべきか。タケルが学生の身分である事を思えば、値段で選ぶべきシーンであるのだが。



「で、でも。タケル様だって、タコが大きい方が好きですよね」



 ニーナは言い訳がましく呟き、左右を見回しながら品を手に取った。そして後ろめたさから、足早になってレジへと向かうのだが、そこでも再び足が止まる。


 今度は商品そのものではなく、店内ポップに眼が向いたのだ。



「何でしょう。チョコっとゲーム?」



 まじまじと見つめ、一通りのウェブ検索をかける。そうしてニーナは、この日、もう1点だけ余分に買い物を済ませた。


 やがて迎えた夕暮れ時。タケルはいつもと大差ない時間帯に帰宅した。



「ただいまぁ」


「お帰りなさいタケル様。何かお変わり無いですか?」


「こっちは別に。ニーナは?」


「私は、その、いつも通りですよ」


「そうだね。確かにね」



 タケルは、ニーナの唇に青海苔が貼り付いているのを見た。またたこ焼きを食べたのかと思いつつも、特に咎めたりはしない。家が傾くような出費であれば、流石に追求せざるを得ないが。



「それにしても良い匂いだね。晩ごはんかな?」


「今夜はビーフシチューです。ついさっきお米も炊けました」


「そっか。じゃあ食べようかな。お腹空いたよ」


「では、よそいますね」



 それからはテーブル越しに向き合って座り、いただきます。カレー皿に盛り付けたタケルとは対象的に、ニーナの方は小皿である。更にはルゥを少なめにしてご飯に絡ませ、水分を飛ばした、ドライカレーに近い形状だ。


 そうまでして晩餐を共にするのは、彼女にとって至福のひとときである為だ。そもそもタケルも同席を希望している。


 

「美味しいよコレ。お肉も柔らかいし、野菜もホクホクで」


「まだ沢山ありますよ。おかわりします?」


「じゃあもう1杯もらおうかな」


「あぁ、でも、今日はデザートもありますので。少しだけお腹に余裕を持たせていただけますか?」


「そうなの? それは楽しみだなぁ」



 タケルは言葉通りに2杯目を控えめにして、シメの一品が出されるのを待ち構えた。それからニーナが取り出したのは、一般的なお菓子である。細長いクッキーをチョコでコーティングしたもので、タケルにとっても馴染みのある銘柄だった。



「デザートって、ポリッキーか。美味しいよね。小さい頃はいっつも食べてた」


「それでですね。良かったら、1つ余興でもと思いまして」


「えっ、どうかしたの?」



 タケルがドキリとしたのは、提案そのものではない。懇願するニーナの姿に戸惑ったのだ。ポリッキーの箱を口元に掲げ、その端から上目遣いする様にして、タケルの顔色を窺うのだ。


 控えめに言っても美しい。その造形美が、タケルから冷静さを吸い上げようとする。



「これからチョコっとゲーム、やってみませんか?」


「知らないんだけど、どういうの?」


「お互いに向き合って、ポリッキーの端を口に加えます。そして、相手の好きな所を言う度に、1口ずつ食べていくっていう……」


「そんなのダメだよ! それって下手したら口と口が大変な事になっちゃうでしょ!」


「やはり、ダメでしょうか?」


「当然だよ。そんな遊び半分でやって良い事じゃないから!」


「そうですか。私では足りない、という事なこですね。あの本の水着女性くらいであれば、受け入れていただけたこでしょうか」


「水着って……あぁ! どうして本棚に!?」



 この頃になると、タケルはパニックだ。ニーナは泣き出すし秘蔵の本は白日の下に晒されるしで、どこに重きを置けば良いのやら。


 混乱の極地に追い込まれたタケルは、とりあえずゲームについて了承した。許可を出した瞬間に泣き止んだあたり、また手玉に取られたのかという気分が薄っすらと浮かぶ。



「では始めましょう。答えるのに5秒以上かかると、ポッキリ折って終了となりますから」


「う、うん。分かったよ」


「では私から。真面目で誠実」



 ニーナはそう囁くとともに、躊躇の無い1口。次はタケルの番である。



「ええと、優しい」



 タケルも答えるなり、控えめに食べ進めた。それなりの猶予があるとはいえ、この調子で行けば、4ターン目には接触しかねない。



「正義感が強い」


「け、献身的……」


「いつも紳士的」



 ゲームは滞り無く進行していく。それは次第に、互いの顔が接近する事でもある。


 タケルの正面には、ニーナの整った顔立ちで埋め尽くされている。瞳も心なしか潤んでいるように見えて、それが激しく心を揺さぶるのだ。気を抜いた瞬間に吸い込まれそうでもある。



(ニーナは一体何を考えてるんだろう)



 困惑しきりのタケルは、繰り返し脳内で問いかけた。いっその事、ニーナの肩を抱きしめ、唇に吸い付きたいとすら思えてくる。


 しかし女の扱いに慣れていない、それこそ皆無に等しい彼は慎重だ。潤んだ瞳も、差し出す様に突き出された唇も、タケルにとっては判断材料に成り得なかった。この流れを好意だと解釈するのは早合点ではないか。果てしない勘違いだったらどうか。ニーナの心を踏みにじり、傷つける事になりはしないか。


 そう思うからこそ強烈なブレーキが掛かる。そして理性が働いた瞬間、ゲームの行方は外の力によって攫われてしまうのだった。



「タケちゃん遊ぼうぜ! 格ゲー持ってきたから、朝まで対戦だ!」



 脈絡なしにやって来たのはカツトシだ。そこでポッキリと乾いた音が聞こえたなら、ゲームセットだ。



「おっと、タケちゃんはおやつタイムだった?」


「河瀨君。良かったらポリッキー食べない? 全部あげるよ」


「マジで? 良いの? これスゲェ好きなんだよね」



 それからは無遠慮な速度で、カツトシの胃袋に収まった。続けて遊びを始めようとするのだが、ニーナの機嫌は斜め気味で、顔を横の方へ向けてしまう。



「ニーナ、何で怒ってるのさ」


「タケル様は、もう少し乙女心を知るべきだと思いますよ」



 珍しく拗ねたニーナだが、その唇には今も青海苔が鎮座している。人の不勉強を指摘する彼女にも、まだまだ学びの余地は残されているのだった。


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