第22話 救いの手は清らか

 くしゃみ、くしゃみ、鼻をかむ。丸めたテッシュをゴミ箱目掛けて投げ捨てる。3回の内1回は外してしまい、その都度ニーナがわざわざ捨ててくれた。それはタケルの傲慢からではなく、単なる体調不良が原因である。



「あぁ、風邪しんどい……」



 病床に伏せると言えば大げさだが、諸症状は重たい。くしゃみ鼻水、食欲不振に倦怠感。もちろん講義も休み、こうして自宅で寝込んでいるのだ。



「原因はなんだろ、季節の変わり目だから?」


「おそらくは、夜更しが原因に思えます。弱った所をウィルスに侵されたものかと」


「うっ。それを言われると言い返せないな」



 最近、タケルにしては珍しくスマホゲームに夢中だった。それは愛くるしいキャラ達が織りなす「やめてよ、動物の模試」という、ビッグタイトルだ。来る日も来る日も長々と遊び、時計の針が深夜1時を過ぎても続行する。そして力尽きた頃に自然と眠り、ニーナに毛布をかけてもらうという毎日だった。


 まだ若いとはいえど、体調を崩すのも無理からぬ事だ。



「しばらくは、物モシで遊ぶのも控えないとな……」


「そうしてください。お食事のご用意ができてますよ」


「ご飯は、いいや」


「ではせめて、お粥だけでも。程よく冷めてますから」



 ニーナは小皿を手に取ると、スプーンでひと掬いして、吐息を吹きかけた。柔らかな唇から、フェチの人からすれば卒倒しかねないほどに甘く、そして優しく。


 しかし身体の不調に悩むタケルが、そんな事を気にするはずもなく。ひと口、ふた口と、促されるままに食べるだけだ。小鉢1杯分の粥。成人男性には程遠い量であるのだが、タケルはご馳走様と呟いた。



「あとは薬飲んで寝よう。それで治らなきゃ、お医者さんの所へ行く」


「お加減はいかがですか? 救急車の手配は?」


「要らない要らない、大げさだよ。きっと寝てる内に治るから……」



 言い終えた傍から、タケルは寝息をたてはじめた。リズムよく、安定した呼吸。ニーナはとりあえず問題ない確信し、家事に取り掛かった。


 しかし騒がしくする事はできない。足音を殺しつつ台所へ向かい、洗い物を始めた。蛇口から水をチョロ出しにして、とにかく静けさを最優先に作業を進める。洗濯物の取り込みもゆっくりと。ソロリと窓を開け、タオルやシャツを回収。そして音もなく畳んでいく。この物音への配慮は、ある意味で空き巣以上である。


 そして、気にかけたのは生活音だけではない。



「11時ちょうど。呼吸に異常なし」


「11時半。呼吸に異常なし」



 頻繁にタケルの顔を覗き込んでは、容態の把握までもを担った。過剰とも言える心配ぶりだが、彼女にとっては当然の事である。



「熱も計りましょうか。失礼します……」



 体温計を持ち、タケルの胸元に手を伸ばした瞬間、その動きは止まった。男女、無用に触れるべからず。先日、タケルより受かった命令だった。その言葉に縛られてしまい、結局は、呼吸音の確認だけに終止する。



「なんてもどかしい。私がもっと優秀であったなら……」



 万能な彼女は、何でもこなせる反面、突出した能力を持たない。今もこうしてタケルの様子を見守るばかりだ。ならば、せめて安らかな眠りをと、足音ひとつすら気遣のだ。


 しかしそんな最中での事。静寂を切り裂くかのような電子音が鳴り響いた。インターフォンが押されたのだ。ニーナは可及的速やかに、しかし静かに玄関まで駆けつけた。



「はい、どちら様ですか」


「おっすニーナちゃん。カツトシだけど入れてくんね? 予約してたゲームを買ってきたから、一緒に遊ぼうぜ」



 ドアスコープ越しには、確かに見知った顔がある。しかし友人と言えども、すんなり通すつもりはない。



「河瀨さん。タケル様は今、病に臥せっております。日を改めてください」


「あぁそうなの? じゃあタケちゃんは寝てて良いや。とにかく中へ入れてくれよ」



 ダメだ、この人は。ニーナは言葉こそ丁寧ながらも、強い拒絶に支配された。それから打開策を超高速で捻出。突破口はカツトシの背後に控える、シトラスである。



「シトラスさん。よろしいのですか? 室内は現在、108人の水着美女でひしめきあってますよ」


「そんな大事になってたの、教えてくれてありがとう。ニィニ、帰るよ」


「えっ。待って。だったら尚更帰りたくは……」


「水着が好きなら、後で私が着てあげるから」


「チクショウ! タケちゃんばっか良い想いしやがってぇ!」



 引きずられながら退散していくカツトシ。これでニーナもひと安心だ。玄関からゆっくり歩を進め、ギシリと鳴る床のきしみに肝を冷やしつつ、部屋まで戻った。


 そろそろ12時を回る。呼吸の確認をしなくては。ニーナが傍に歩み寄った、まさにその時だ。再びインターフォンが鳴り響いた。


 今度の来客はイナである。



「安里さん。タケル様は今現在、体調を崩しておりまして……」


「なんだ、ニーナさん居たの? まぁいいや、玄関を開けてくれる? お見舞いの品を持ってきたから」



 ドアスコープ越しには、確かに大きなビニール袋が見える。嘘でない事は理解した。しかし、傍に控えるセワスキンの存在が容認できない。


 追い払おう。そう決めるなり、また超高速で打開策を検討。カツトシよりもやや時間を要したが、誤差レベルの話である。



「タケル様は、その、ドクターヘリで運ばれまして」


「えっ、そんな大事なの!?」


「今はどこかの緊急病院だか、大学病院に向かったそうで。私は留守番を頼まれました」


「そうだったのね、教えてくれてありがとう。片っ端から病院を調べてみるわ! 誰よりも先に病室に駆けつけてみせるから!」



 勇ましい足音とともに立ち去るイナ。その後を追うセワスキンは、呆れたような溜め息を吐き散らして消えた。作戦成功である。



「ふぅ。何とか守り通せました……」



 ようやく静けさを取り戻した室内。幸いにもタケルは目覚めた様子もなく、依然と眠り続けていた。



「12時半、呼吸に異常なし……あら?」



 その時、寝息だけであったタケルの様子が変わった。苦悶の表情を浮かべ、時々うなされる様になる。


 これは救急車か。医者を手配すべきではないか。恐怖がジワリと絡みつく中、タケルの手が所在なさげに持ち上がるのが見えた。



「タケル様、しっかり……!」



 その手を咄嗟に握ろうとして、止まった。ニーナが為そうとした行いは、他ならぬタケル自らが禁じたものだったからだ。



――無闇やたらに、理由もなく男女が触れ合わないこと。



 スマホ型少女、特にニーナの型番にとっては所有者(マスター)の言葉は絶対である。いかなる時も付き従い、タケルの意思を最優先にするよう努める。それが彼女に課せられた使命である。


 しかし目の前の手はどうか。儚く、そして誰かを求めてさまよわせる様は、ニーナの思考を強く掻き乱すのだ。



「理由なら、あります……!」



 ニーナはタケルの手のひらを両手で握りしめると、それを胸元で抱いた。自身の体温で温め、そして命を注ぎ込むかのように、懸命になる。


 それが功を奏したのか、タケルの表情は和らいでいく。それに合わせて寝息も落ち着きをみせた。



「良かった。救急車は要らないみたいですね」



 実のところ、裏では『119』まで入力を終えており、発信する直前まで達していた。そちらはひとまず保留。経過を観察する事に決めた。



「言いつけが守れなかった私は、悪い子でしょうか。ですが、無意味に触れたのではありませんよ」



 ニーナの手のひらが、タケルの額を優しく撫でた。



「タケル様の、豊かで健やかな日々の為であれば、私は努力を惜しみませんから」



 午後の日差しが挿し込み、ニーナの身体を明るく照らす。その瞳は、あらんかぎりの慈愛で満ち満ちていた。


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