第19話 心はいまだ折れず
大窓から差し込む朝の日差し、それと小鳥のさえずりを目覚ましに、タケルは身を起こした。3人は眠れそうな巨大過ぎるベッドの上だ。
「いつの間にか寝てたのか……」
昨日のような気後れは既に無い。ベッドを降りる際に足を木枠にぶつけようが、水差しの水滴でテーブルを濡らそうが、全く意に介さない。安里家の執事に襲撃され、あろう事か相棒が殴られたのだ。遠慮する気持ちなど生まれようもなかった。
「そういえば、ニーナは大丈夫かな」
隣室まで向かい、ドアをノック。返事はない。恐る恐る開けてみれば、ニーナは室内に控えていた。ただしベッドではなく、コンセントにほど近い絨毯の上で、三角座りしている。
なぜ反応が無いのかと考えてみるが、答えはすぐに思い浮かんだ。
「おはようニーナ」
「ピピッ……。おはようございます、タケル様。本日の降水確率は20%で、晴れ時々曇り。道路状況は、昇り方面で一部渋滞となっております」
「良かった、いつも通りだね。念の為に殴られた部分を見せてもらえる?」
「承知しました。存分にご堪能ください」
「他意なんか無いっての」
タケルはニーナの頭をまさぐり、問題がないか探った。額も、頭髪の隙間にも、目立ったものは見つからなかった。頬に触れてみても、滑らかな質感があるだけだ。
「異常なし、かな。良かった……」
「タケル様。頬の部分に両手を添えていただけますか。左と右の両側から」
「こんな感じ? 左右対象か確認すればいいの?」
ニーナは問いかけには答えず、静かに瞳を閉じた。そしてアゴを突き出し、唇を柔らかく見せつけた。ドラマのワンシーンにも似た光景だ。
タケルは思わず飛び退いてしまった。心臓は熱い脈を打ち、鼓動の音もうるさい程になる。
「何してんのさニーナさんん!」
「すみません。このように振る舞えば喜ばれると、ネットにありましたので。タケル様にぜひご堪能いただこうかと」
「そういうのなね、何か違う! こんな流れでする事じゃないの!」
「承知しました。ではアニバーサリーの機会を待ちまして……」
「そうでもないの! どう説明したら良いかな、まったく」
2人が日常的な会話を繰り広げていると、メイドが朝食を知らせにやって来た。ダイニングへと向かうと、カツトシとシトラスが既に食べ進めている最中だった。
「おっすタケちゃん。朝食もスゲェんだ。バイキング形式だぞ!」
「へぇ、そうなんだ」
「何と言ってもバターがうめぇ! この味を知っちまったら、スーパーで売ってるヤツが食えなくなっちまう!」
タケルは話を聞き流しつつ周囲に視線を送った。給仕の中にセワスキンの姿はない。そして、テーブル席にイナも居ない。その事が胸の中で引っかかり、朝食は今ひとつ進まなかった。
シリアルとコーヒー。数多の料理には目もくれず、ただ腹を満たす事に集中した。そして一人前を平らげた頃、辺りが騒がしくなった。メイドの何人かは、かすかな悲鳴まであげる始末。
「お嬢様、どうなされました……!?」
足取りを怪しくするイナが現れたのだ。装いは寝間着のローブ。ボサボサ髪で、頬は餓鬼のように削げ落ちている。この様を心配するなと言う方が無理であった。
しかし彼女は、飛び交う気遣いを気にも留めず、真っ直ぐタケルの傍までやって来た。それから勢いよく頭を下げた。
「本当にごめんなさい! まさか、家の人があんな事を仕出かすなんて!」
鬼気迫る謝罪は他を圧倒した。付近の使用人も、満足げに腹を満たしたカツトシも、そして不意打ちを食らったタケルも例に漏れず。
「いや、良いよ。君がやらかした訳でもないし」
「セワスキンにも謝るようキツく言ったんだけど、部屋から出てこなくて。それで私だけ、のこのことやって来たの。許してもらえる……?」
「もちろんだよ。今後、あの男を近づけないよう気をつけてくれたら」
タケルは柔和に見えて、奥深くに芯の強さを秘めている。そのために1度怒ると、滅多な事では許さないという態度を取る事もしばしば。
たとえばセワスキンが今後、油田を発掘して大富豪になろうが、科学者となって権威的な賞を総ナメしようとも決して変わらない。心の外へと追いやられる事だろう。
「それでね、お詫びになるかは分からないけど。ご飯の後に付き合って欲しいんだ。良いかな?」
「それは良いけど。僕だけで?」
「うん、出来れば……」
じゃあ2人で行こうか、と告げようとした所の事。この男が挙手した事は、誰もが想像した通りである。
「はい! オレもオレも! タケちゃんだけズルいぞ!」
「河瀨君。少しは考えてよ……」
「それは出来ねぇ! タケちゃんだけ良い想いしようだなんて許さねぇぞ」
タケルはちらりと視線を反らした。そこにはシトラスが居り、アイコンタクトで意思疎通。カツトシは首根っこを掴まれて引きずられていった。
「はい、ニィニはこっち。この豪邸で私と甘いひとときを愉しむの」
「おい離せよシトラス!」
「ニィニは昨日、メイドさんを7人くどいて失敗。更にはメイドさん達が作業する後ろから、尻を凝視すること19回、総計1分32秒。その時の映像を皆にも見てもらう?」
「うぐっ……それだけは……!」
こうして場は整った。外着に着替えたイナと合流し、タケルは連れられるままに外へ出た。やって来たのは白砂の眩しい浜辺である。見通しの良いロケーションなのだが、人影はひとつも見当たらない。
「ここはプライベートビーチなの。来るのはウチの家族だけで、お友達だって呼んだ事のない、秘密の場所なんだ」
「そうなんだ。そんな大切な所に……」
波は静かに砂をもてあそびつつ、満ち引きを繰り返す。その大自然が絶え間なくもたらす音は、胎内回帰にも似た安らぎを与えるようで、心のヒダまで癒やされる想いになる。
「私の家ってね、あんまりパパやママが居なくて。どっちも仕事人間でさ、いっつも世界中を飛び回ってるの」
「すごいじゃない。鼻が高いってやつかな」
「でもそのせいか、私は人との距離感がよく分からなくって。だからタケル君を驚かせたり、不愉快にさせてないか、ちょっと心配になったの。特に昨日はなおさら」
「別に、気にしなくて良いよ。まぁ驚かされる事はたまにあるけども。安里さんは今も変わらずお友達だよ」
「そう……友達ね。ありがとう。昨晩の事で嫌われたかと思ってた」
その時、辺りを撫で付けるような風が吹いた。イナの憂いた横顔で、黒々とした髪がなびく。タケルは胸にチクリとした感覚を味わったのだが、その痛みの訳について気付けずにいる。
「ところで安里さん。お話ってこれで終わりなのかな?」
「あ、いや、ホントは別にあって! お誕生日おめでとう!!」
「えっ……今日19日? つい忘れてたよ」
「やっぱりね。何かそんな気はしてた」
「ちょっと最近色々あってさ。祝ってくれてありがとう」
「それでね、プレゼントなんだけど……」
イナは右手を懐に潜り込ませると、指先にキーケースが触れた。そこにあるのは、新築の邸宅と、新車の鍵がある。タケルの為に用意したものだが、その手は内側で止まる。
果たしてこの贈り物は喜んで貰えるのか。また苦笑いで避けられるのではないか。そもそも、彼はこんなものを求めているだろうか。そう思えば、キーケースは指先から離れていく。この咄嗟の判断は英断だと言えた。
「プレゼントは……その……好きなもの何でも良いよ!」
「何それ、どういう事?」
「要らないもの贈っても、喜ばれなきゃ嫌だからね。だからリクエストしてよ。お詫びも兼ねてるから、ほんと気兼ねなく!」
「そう言われてもなぁ、急に思いつかないよ」
「何でも良いんだよ? 最新のゲーム機とか、フカフカのソファとか、夜のDVDセットでも良いし」
「強いて言えば、服かなぁ」
「お洋服ね? じゃあ今すぐ知り合いのメンズショップに声かけを……」
「いや、僕のじゃなくて、ニーナの物なんだけど」
「ニーナさん……!?」
ここでタケル、まさかの鬼畜すら青ざめる所業。イナの好意を知らないとは言え、この局面でニーナへのプレゼントを要求するとは。無自覚もここまで来ると、もはや暴力である。
しかしイナ、耐える。華奢な見た目からは想像も出来ないほどの、根性が備わっているのだ。少なくとも、手負いの傷をひた隠す事には成功する。
「ええと、じゃあ、いくつかカタログを送るから。選んでくれたら、お店から送ってもらうようにするね」
「それだとニーナが着られない……いや、ええと……」
「どうしたの? カタログでやり取りした経験が無いとか?」
「プレゼントは要らないよ、うん。気持ちだけで十分だから!」
「えっ。ハシゴ外すにしても、早すぎない?」
「良いんだよ。昨日と今日で、珍しい体験が出来たから。それがプレゼント代わりって事で!」
タケルが白い歯を煌めかせて笑った。快活で、曇りのないものだ。
それを真っ向から見せつけられたイナは、黙るしかなかった。
(その笑顔はズルイよ。何も言えなくなっちゃう……)
それから時計の針は進み、各々が元の暮らしへと帰る時が来た。イナはもう一晩泊まると告げ、別荘前でお別れする事になる。
「じゃあ安里さん、皆さん、どうもお世話様でした」
「また来てね、タケル君。今度は連休にでも」
「うん、考えとくよ」
きびすを返して立ち去るタケル。それとは対象的に、カツトシはかなりゴネた。終いには、ここの家の子になるなどと喚くのだが、シトラスによって敢えなく御用。速やかに連行されていった。
「ほんと敵わないなぁ。タケル君には……」
イナの瞳が遠くを見つめた。彼らの後ろ姿は、既に防風林の陰に隠れており、ここからでは見つける事もできない。
「でもね、1つだけ分かったわ。彼の心を掴みさえすれば、すっごく大事にしてくれるのね! 恋敵にプレゼントを頼んじゃうくらい!」
切り替えは神速。憂鬱な気分などどこへやら。次こそはタケルの心を射止めて、彼の愛を独占する事を、蒼天に誓うのだった。
一方その頃、タケル達は家路を辿る最中だ。運転はカツトシ。助手席をシトラスに譲り、タケルとニーナは後部座席だ。
「道が空いてんねぇ。この調子なら、晩飯前には向こうに着きそうだぞ」
帰り道は思いの外スムーズ。懸念された渋滞は解消されており、むしろガラ空きとも言える状況だ。曲がりくねる道の上、車窓は次々と景色を変えていく。そんな時間は心身を緩ませるものだ。タケルは気疲れから、眠りの世界へと落ちていった。
隣のニーナは、寝息を立てるタケルの傍に身を寄せた。音を立てぬよう気遣いつつ。
「お疲れさまでした、タケル様。良い夢を」
そう呟いた後、タケルの緩んだ頬に唇を寄せ、優しく口付けをした。微かに触れ合い、やがて離れる。唇同士でなければ親愛の証となる事を、彼女は事前に調べていたのだ。
それからは、タケルの頭が車に合わせて揺さぶられ、ニーナの肩にもたれかかった。彼女が避ける事は決してない。むしろ枕代わりだとでも言うように、その頭を抱きかかえた。
そんな様子を、ミラー越しに恨みがましく眺めるのは、運転中のカツトシである。
「良いよなぁタケちゃんは。あんな風に仲睦まじく過ごせるんだからよぉ」
「ニィニはあんな感じが好きなの? だったら言ってくれれば良いのに」
身を乗り出したシトラスが、唇をカツトシの耳元に寄せた。そして勢いよく耳たぶに食らいつく。
「いってぇ! やめろシトラス!」
「照れない照れない。私の愛を堪能して。やがて痛みすら癖になる」
「堪能してるうちに事故るぞマジで!」
もはや運転どころではない。ハンドルにアクセルにと無茶苦茶に操作し、車は破天荒な軌道を描いてしまう。もちろんタケルも眠りこけてなど居られず、すぐに目覚めた。
こうして、幸か不幸か曖昧すぎる週末は、幕を閉じた。別荘での体験がポジティブなものとして捉えるには、タケルがそれなりの年齢に差し掛かるまで待つ必要があった。
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