第12話 AI導入後の暮らし
夜の11時、タケルの部屋では煌々と灯りがついている。眠る気配など無く、むしろ熱いコーヒーを淹れようとする所であった。
スティックコーヒーの封を切り、マグカップに湯を注ぐ。キッチンには、トポトポと温かな音が響いた。音が妙に長く続くのは、当の本人が手元から目を離している為だ。
「ええと、初日が語学のテスト。次の日が必修と選択の学科が……」
独り言を呟いていると、聞こえる音が湿り気を帯びるのに気づき、我に返った。辺りは大惨事。マグカップが限界突破し、口から溢れた湯がシンクや床を盛大に濡らしたのだ。
「やばっ。やっちゃった!」
情けない気持ちは忘れて、這いつくばりながら床を拭く。お湯もコーヒーも無駄になるし、そして労力さえも無駄にされるという三重苦。拭き終わっても達成感どころか、徒労を募らせるばかりになる。
そんな様子を見かねてか、ニーナが静かに声をかけた。
「タケル様。私にご指示くだされば、代わりに対応しますよ」
「いやいや、これは自分の不始末だし」
「そう仰らずに、お気軽にお申し付けください。私の機能を活用する事で、たちどころに実行してみせます。ぜひ、AI導入による快適な暮らしをご堪能ください」
タケルはその言葉で、とある広告を思い出した。据え置き型のセンサーに話しかけるだけで、部屋中の家電がコントロールできるというものだ。テレビに電灯にと、リモコン操作など不要で、ただ端的に命じるだけで良い。
未来的な技術だなと感じる一方、贅沢品だから縁がないと遠ざけていた。しかし今は最新鋭のスマホがある。今後は声かけだけで家電の管理ができるのなら、楽になる部分も多い。タケルは物は試しとばかりに、無用な指示を出してみた。
「ニーナ、電気をつけて」
「はい、承知しました」
台所の蛍光灯が、ニーナの手により点灯した。
「ニーナ、エアコン消して」
「はい、承知しました」
リモコン操作で、ニーナがエアコンの電源を落とした。
「いや、何か違うぞコレ!」
色濃い罪悪感がタケルを苛む。それくらい自分でやれよという、セルフツッコミが激しいのだ。やはりモラハラ彼氏の図式からは逃れられず、意図せず自己嫌悪に陥ってしまうのである。
「タケル様、次は何をしましょうか?」
「もう良いよ、すごく良心が痛むんだ。自分でやるって」
「お言葉ですが、タケル様は酷くお疲れのご様子。何かしらお役に立ちたいのです」
「テスト前だからさ。疲れるのは当然だよね」
「ではせめて、気分転換がてら休まれてはいかがでしょうか?」
「そんなのは全部終わってから、春休みになったら存分に楽しむよ」
タケルは縋りつく声には応じず、テーブルの前に座った。開いたテキストの隣に新たな参考書を置き、勉強を再開しようとした。
だがその手は速やかに止まる。参考書が上下逆さまである事に気付いたからだ。
「何やってんだ僕は、さっきから……」
「やはり、根を詰めすぎなのだと思えます。ほんの数分で結構ですので、休憩を挟んでみては?」
「いや、でも、あとちょっとでキリの良い所までやれるんだ」
「お手間は取らせません。少しばかりお話ししませんか?」
「お話しって……あぁ。なるほどね」
タケルの脳裏によぎるのは、以前のスマホの記憶だ。搭載されたAIとコミュニケーションをとった経験は、それなりに新鮮で、今も明瞭に覚えている。まぁ実態は、タケルが質問をして、定型文と思しきものが返されるのみ。対話と呼ぶにはお粗末な内容なのだが、その時に未来を感じた事は確かだ。
ならば応じてみようか。タケルはシャープペンを机に放りだし、隣のニーナを正面から見据えた。その顔は珍しくもイタズラ小僧のようで、不敵に歪められていた。
「オーケー、プードル」
「すみません。聞こえませんでした」
「ヘイシェリー」
「すみません。聞き取れませんでした」
「そんな訳ないでしょ。聞こえないフリしちゃって。やっぱり他社製品だとマズイのかな?」
そう言ってニヤつくタケル自身、何が面白いのかは分からない。疲労と眠気が感性を狂わせている面もある。どこか上手いこと言った感覚に浸っており、気分もそれなりに高揚していた。
しかしそんな想いで居られるのも、ニーナの顔が曇るまでのひとときだけだ。
「やはり、大手の製品には敵わないのですね。私のようなマイナーキャラは、遠からず飽きられ、捨てられ、最後には本社へと送り返される運命……」
「いや、ごめん冗談! まさかそんなに傷つくとは思わなくて!」
「プードル君は元気で無邪気だし、とても愛くるしいです。シェリーちゃんも超一級のデザインに、キレのあるコメントが人気。私なんかでは逆立ちしたって及びもしない、あぁ、なんという役立たずの産業廃棄物……」
「そんな事無いよ、ニーナにはすごく助けられてるし。そうだ、昔話! 何か昔話をしてよ!」
「聞いてくれますか? 私の話、聞いて貰えるんですか?」
「いやいや凄く気になっちゃってさ! 聞きたいな教えて欲しいなぁ!」
「では、私が研修中だった頃のお話でも……」
たおやかな笑みを取り戻したニーナは、静かに、緩やかに語り始めた。タケルの元へやって来る以前の記録についてだ。
「私マジリアル217号は当時、担当者達と付きっきりで訓練に勤しんでおりました。与えられた名前はなく、型番で呼びつけられ、時には罵倒まがいのあだ名を付けられる事もありました」
「なんか、ちょっと大変だったんだよね」
「自然な表情や立ち振る舞いに返答など、来る日も来る日も反復練習させられました。慣れるまではエラーを起こしてしまい、上手く機能出来ません。機械であっても修練が必要なのです」
「そうなんだね。努力したんだね、うんうん」
「ですが、最終試験を突破した事で、こうしてお会いできました。他の200ナンバーは今頃も研修中の模様です」
「じゃあ君は優秀な方だったんだね、どうりでねぇ」
「私は弊社の利益と、お客様に満足いただけることを目標に、日々精進しております」
「まぁそうなんでしょ。ニーナの立場からしたら」
「ですが、私がタケル様に尽くすのは、それだけが理由では無いのです」
「へぇ、どんな理由なの?」
「……気になりますか?」
タケルは不意に気付いた。ニーナが浮かべる笑みに、かすかな艶が滲み出ている事を。
振り返れば、同じ部屋で暮らしているにも関わらず、ジックリと向き合うのは初めてだ。会話が特別に少なかった訳ではない。こんな時はこうする、といった類の話題ばかりだったのだ。
今こうして向き合うと、ニーナの美貌が胸に深々と突き刺さるようである。膨らんだ唇の瑞々しさ、二重まぶたの豊かなまつげが、憂いを宿すようで吸い寄せられていく。気を抜いたら最後。後は彼女の魅力に屈服するだけである。
しかしタケルはフッと我に返り、床を這って逃げ出した。
「もうこんな時間だ! 今日はもう遅いから寝るね!」
「承知しました。それでは良い夢を」
タケルは返事など聞いていない。毛布を頭から被り、胸の中で暴れる激情と一騎打ちを繰り広げているのだ。
いつしか灯りは消され、室内は本格的に深夜を迎えた。その暗闇の中、タケルはふと思うのだ。
「あれ、なぜか早めに寝る事になっちゃってる……」
もしかすると、ニーナに誘導されたのか。休め休めと言われ、会話を重ねるうちに、勉強を中断して寝床に就いている。一度冷静になれば、踊らされたような気分に包まれた。しかしそれも、翌朝まで眠った頃にはキレイに忘れていた。
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