第11話 図書館ブレイクハート
冬休み明け、正月ボケの抜けきらない頃には期末テストが待ち受けている。学生の本分は学業だというのは建前。遊びたい盛りの若者達はこぞってウンザリ顔を晒す。特に珍しいものでもない。
そんな風潮とは異なり、タケルは休日だというのに市立図書館へと向かった。もちろんニーナも同行。街中ですれ違う人が、しきりに振り返る事については、既に慣れている。
「ニーナ、ここは図書館だから。静かにしててよ」
「承知しました。マナーモードの設定を再確認。ここでは、木彫りの置物のように大人しくしております」
「別に、木彫りじゃなくても良いけどさ。ともかく騒がないようにね」
空席に座るなりバッグを置き、テキストも並べた。その物音1つひとつが目立つ程、辺りは静まり返っている。
館内の利用者はというと、調べ物に没頭する社会人、窓辺で舟をこぐ老人と様々だ。この優しくも張り詰めた空気が、大窓から降り注ぐ豊かな日差しが、途方も無い集中力を授けてくれるようだ。気持ちを切り替えて、いざ勉強を始めようとした矢先、あらぬ方から声をかけられた。
「あの、タケル君だよね?」
振り向けば、同世代の女性が傍に立っていた。その人物を見かけるなり、タケルの頬も緩む。相手が、大学でも数少ない仲の良い生徒、安里伊奈(あさといな)であったからだ。
肩まで伸ばした黒髪が、差し込む日差しで煌めく。装いはレース付きの白ワンピース、ベージュのカーディガンを羽織り、下は色落ちしたジーンズ。小柄な体格のせいか声も甲高く、囁きが心地よく耳に響いた。
「やぁ安里さん。こんな所で奇遇だね」
「う、うん。もちろん偶然だよ偶然。後をつけ回すだなんて、ストーカーじゃないんだから」
「えっと……君もテスト勉強?」
「そうなんだ。私って要領悪いから、たくさん時間をかけないとダメで」
「そこは僕だって負けないよ。割と不器用だし」
「全然そんな事無いよ! この前借りた講義ノート、すっごい分かりやすかったし!」
館内にイナの絶叫が響き渡ると、少なくない視線が集まった。彼女は飛び跳ねる程に恐縮し、肩だけでなく、声まで落とした。
「そ、そうだ。借りてたノートを返すよ。どこにしまったっけかな」
イナは大きなトートバッグを漁ってみるも、なかなか見つからない。飛び出してくるのはイヤホン、チャックの空いた財布、飴の包み紙等々。結局はうなだれて終わる。
「ごめん、置いてきちゃった……」
「そうなんだ。まぁ今すぐ使わないし」
「ねぇ、良かったら私の家に来ない? ノートを渡せるし、この前美味しいハーブティーを貰って……」
「いや、別に良いよ。講義の日に返してくれれば」
ここでタケル、無自覚な一刀両断を浴びせてしまう。悪気が無い分切れ味は抜群だ。
しかしイナ、魂の痛みにはどうにか堪え、タケルの隣に座った。一緒に勉強しようというのである。特に断らわれる事もなく、内心で安堵の息を漏らした。
これより2人静かに集中を……とはならず、またもやイナが囁いた。向ける視線もどこか上目遣いである。
「ごめんねタケル君、聞いても良い? ここの品詞が分からなくって……」
「あぁそれね。前の講義で説明してくれたんだよなぁ。確か先月のやつで……」
タケルはノートをめくり、走り書きの部分を指先で触れた。
「これだ。黒板じゃなくて、口頭でシレッと話してたんだよね」
「なるほど、そうなんだ。ちなみに和訳は『こちとら根っからの水戸っぽだ、そこ退けそこ退け、納豆浴びせんぞ』で合ってるかな?」
「ええと、そこまで強い表現にはならないかな。ニュアンスからして……」
タケルの淀みなく回る口、そして親身な態度に、イナは見惚れる想いだ。しかしその隣の人物に眼をやれば、一転して心がささくれていく。
その人物とはニーナなのだが、イナはまだ何者かを知らない。紺碧の長い髪に端正な顔立ち、メリハリある体はあまりにも美しく、同性であっても惹かれるものがある。自然に自分の有り様と比較してしまい、心に過ぎる気後れも痛烈だ。顔色を変えずに耐え忍ぶのも、一苦労というものだ。
(すんごい美人……。でも何だか、マネキンみたい)
それがイナの辿り着いた結論である。視線の先の美女は、どこか不気味でもあったのだ。辺りに私物らしき物は無く、そして何をするでもなく、ただ黙って着席している。口元に浮かべたたおやかな笑みも、硬直したかのように変わる事はなかった。
何者なのか、聞いてしまって良いものか。イナは小骨の引っ掛かりらしき不快感に苛まれていると、タケルがこちらを見るのに気付く。
「……っていう事だと思うんだけど。伝わったかな?」
「う、うん。もちろんだよ、ありがとうタケル君。それでね、厚かましいんだけど、他にもたくさん教えて欲しくって」
「まぁ構わないよ。追い込みの時期でもないし」
「嬉しいなぁ、じゃあ次は……」
イナは座席をタケルの方に寄せて、密着しようと試みた。しかし、それはアッサリとかわされてしまう。タケルが唐突に立ち上がったからだ。
「ごめんタケル君。気に触ったかな?」
「いや、急に腹が痛くなって……ちょっとトイレに……!」
「大丈夫? お薬買ってこようか?」
「そこまでしなくても。ともかく行ってくるよ。ニーナはここで待ってて」
青ざめたタケルは前かがみになりながら、通路の方へと消えた。
残されたイナとしては気不味い。1つ席を挟んだ向こうに、謎の美女が座っているのだから。そのお相手は今も心ここに在らずという様子で、身じろぎは皆無。ここまで来ると、もはや時間停止の体現であった。
しかし、これはある意味でチャンスだ。タケルを介さず直接問いただす事の出来る、またとない機会なのだ。それをむざむざ逃す気は更々無く、そっと静かに語りかけた。
「ねぇ、あなた。同じ大学の子じゃないよね?」
その問いかけにニーナは答えない。ただ無言のまま、書架の方を見つめるばかりだ。
「無視しないで教えて。あなた、タケル君とどんな関係なの?」
その言葉には、ようやく反応があった。ニーナはゆるやかに顔の向きを変え、イナの顔面を見据えた。ただし直接的な答えは無い。浮かべる微笑みが、一層眩しいものとなっただけだ。
しかしそれはイナに効いた。百万の言葉よりも効果的に、嫉妬に染まる心を激しく貫いたのだ。
「そ、それは……。本妻の余裕!? 愛されていると確信した者のみが会得するという、絶対的な笑み……!」
もはや語り合うべき言葉もない。イナの精神は満身創痍となり、致命傷レベルのダメージを受けてしまった。心理状態はもはや凄惨そのもの。その為、タケルが戻る姿にも気付けない。
「ごめんね、お腹は治ったよ。それじゃあ続きを……」
「私、負けないから! 勝負はまだついてないからね!」
「えっ、何で怒ってんの!?」
イナは荷物を乱雑にバッグへと詰め込み、コートを引っ掴んだままで、逃げるようにして立ち去った。脇目も振らず出口まで一直線。開きかけの自動ドアにぶつかるというトラブルを挟みつつも、そのまま外へと飛び出していった。
その慌ただしい後姿を、タケルは呆然と見送るしかなかった。もっと勉強教えてとは何だったのかと、ささやかな指摘を飲み込みつつ。
「ニーナ。僕が居ない間、何が起きたの?」
「お答えします。静かにするよう命じられましたので、目立つ行為は謹んだ上で、お待ちしておりました」
「でも勝負がどうのって言ってたよ」
「私はただ、先程の女性に微笑んだだけです」
「うん、サッパリ分かんないぞ」
それからタケルは、しばらく腑に落ちない物を感じていた。しかし勉強に集中するうち、いつしか忘れてしまう。友人が見せた、一連の不可思議な出来事について。
イナは確かに、負けないという意思を示した。果たして彼女に、想いを遂げる可能性は残されているのか。それはまだ、誰にも分からない。
しかし、タケルとニーナが帰りがけに露店へと立ち寄り、たこ焼きを分け合う姿から察するに、望み薄かもしれない。
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