第9話 キャンパスとニーナ
タケルは大きなリュックに参考書やノート、筆記用具を突っ込み、コートの上から背負った。冬休みは終わりを迎え、今日から大学が始まるのだ。
「なんだか、休みって終わっちゃうとアッという間に感じちゃうね。ボンヤリと過ごしたせいかな」
「私は、タケル様と過ごす毎日が大切な想い出となっております。1日1日余さず、かけがえの無いものとして、胸の中で輝くのです」
「あのねニーナ。外でそういう話は、あんまり……」
通学の電車内で、タケルは縮こまった。2限目からのゆったり気味な登校なので、まばらな乗客が向ける視線が刺さりに刺さるのだ。電車から降り、大学へと向かう足取りは、自然と速くなる。
入学当初は迷子になりかねない程、広大に感じられたキャンパス。それも1年通えば慣れるものだ。真っ直ぐに講義室へと向かい、窓際の席に腰を下ろした。
「あの子誰? あんな可愛い子居たっけ?」
「別の学部じゃねぇの。どうせ彼女自慢だろ」
「クッソムカつく。でも気持ちは分かる。あんだけ美人の彼女が居たら見せびらかせたい」
途端に居心地の悪くなる教室内。ある程度予見をしていたが、やはり周りを騒がせてしまった。タケルは、どこかで時間を潰すようにと告げ、ニーナを外へ追いやった。
それから講義が始まるのを待っていると、間もなく講師が気怠げな顔色で入室。居並ぶ顔ぶれの3倍近い出席票を受け取り、ため息混じりの声で授業を開始した。
「テキスト開きましてぇ……。留学生のアルノー君が、寿司のネタをシャリから剥ぎ取ろうとするのを、慌てて止めるシーンですねぇ……」
内容は第2外国語。タケルにとって英語ですら怪しいのに、ドイツ語など宇宙人の言葉に聞こえてしまうし、今は特に集中できない。どこかでニーナがトラブルを起こしていないかと、気がかりで仕方がないのだ。
「本日はこれまでぇ……。レポートは、『なぜ生魚を好んで食うのか』について、日本語とドイツ語の併記で……」
その為に講義が終わるなり、身支度を手早く終えた。
「あの、飯場君。この前のノートだけど……」
「ごめん急ぐから。話はまた今度で!」
クラスメートが話しかけてきても、返答は素っ気ない。タケルは飛び出すようにして教室を後にした。ニーナの姿は見えない。じゃあスマホで電話、と思った瞬間、今はそのスマホの行方が分からないのだ。
やたらと周囲を見渡し、当て所もなく駆けずり回っていると、校舎の外で人だかりを見つけた。嫌な予感がする。駆けつけてみれば、予感的中であった。
「お姉さん、見掛けない顔だね。どこの学部?」
「すみません。今日初めて来たもので。ガクブというものが分かりません」
「えっ。じゃあ大学の下見で来たの? 現役JKなんか?」
「この見た目で女子高生とかヤバいでしょ。メチャクチャ興奮する」
「良かったらウチのサークル覗いてみない? テニスサークルなんだけど、女の子は飲み代がタダで……」
何らかの欲望に飢えた男達で、通りは大混雑だ。タケルは人垣を掻き分け近寄り、どうにかしてニーナの傍まで辿り着く。ひと安心だが、彼の苦難はまだ半ばである。
「タケル様。お待ちしておりました。お昼のご用意は出来ております」
その口ぶりに群衆がザワつく。それは驚きで始まり、やがて憎悪の色味を帯びていく。
「何だこいつ。彼氏?」
「様を付けて呼ばせるとかヤベェだろ。ただのモラハラクソ野郎じゃん」
「どうする。潰す? 美少女をクソ男から取り返しとく?」
「取り返したらオレが次の彼氏な」
「フザけんなよ。ウチのサークルの姫になってもらう」
空気は途端に殺伐としたものになった。それこそ、対応を誤れば私刑でも始まりかねない程だ。そんな最中、タケルは首を左右に振ると、遂には高笑いを響かせた。ヤケではなく機転である。
「アーーハッハ。公演が間近だからって、外で演技の練習はいただけないなぁ。台本が事前に漏れたら困るだろう?」
「なんだ、演劇の練習かよ。まぎらわしい」
「公演やるならチケット買うよ。だから連絡先教えて」
「お姉さん。ウチは掛け持ちオッケーだから。良かったら新歓コンパ来てね〜〜」
タケルのナイスセーブにより、群衆は静まり、やがて他所へと流れ出した。どうにか切り抜けたなと、漏らした溜め息は重たい。
「はぁ、怖かった。一時はどうなるかと……」
「タケル様。ご迷惑をおかけしました。演技の練習だとは気付けませんで」
「気遣いのポイント! 今のはその場しのぎの嘘だから」
「そうだったのですか? それよりも、何か酷くお疲れのようですが」
「君のせい……でもないけど、まぁ何て言うか、色々あったんだよ」
「心中お察しします」
「それよりもお腹が空いたよ。お昼ごはんにしよう」
「承知しました。どちらへ向かいます?」
「そうだなぁ……」
ラウンジ、食堂と思い浮かべて、いずれも却下。ニーナが目立つことは間違いなく、面倒事を増やしかねない。
「校舎の裏手に行こう。ひと気が無いから、ゆっくり出来ると思う」
「裏手ですね。では参りましょう」
「待って。その前にお昼を買わなきゃ。コンビニでパンでも……」
「それでしたら、お弁当をご用意しました。よろしければコチラを召し上がってください」
「本当に? 助かるなぁ」
タケルは気の良い返事をしつつも、内心は不安で一杯になる。ニーナを今後どう扱うか。大学に連れてくる事のリスクについて、考えを巡らせた。
他生徒からの反響は予想を遥かに上回っている。それが何か、事件に巻き込まれるなどするのではないか。そう思うと、足取りも重たくなるのだ。
「ベンチが空いてますね。座りましょう」
樹木に挟まれた長椅子の上に、並んで腰掛けた。そしてニーナの膝には小さな容器が置かれ、包みも解かれた。入学当初、食費を浮かそうと自炊を始めた頃の名残だ。今はカップ麺や菓子パンの世話になるばかりだ。
「誰も居ないと、昼間でも静かだね」
「そうですね。でも、誰も居ない、という程でもありません」
「あ、ほんとだ。あそこに居るのは河瀨君だね」
遠くのベンチが何やら騒がしい。河瀬とシトラスは口論を重ね、金切り声を響かせると、やがて決着がついた。シトラスが河瀬の耳を引っ張ることで他所へと向かったのだ。
相変わらず苦労をしているのか。自業自得の結果とはいえ、少しだけ同情の念を抱いた。そんな最中に腹の音が鳴った。意識はすぐに、膝上に置かれた弁当へと向けられる。
「嬉しいな。やっぱり手料理っていうのは」
「お弁当のために、冷凍庫の中から少し拝借しています」
「それくらい構わないよ……って、冷凍庫?」
タケルは少し嫌な予感を感じつつ、容器が開かれるのを待った。そうして眼にしたのは、ミッチミチに詰め込まれた、たこ焼きであった。
「レンジで作れるのだそうで、とても便利ですよね」
手渡されたのも、箸ではなく爪楊枝だった。
「ええと、ニーナは今後、料理の勉強をお願いね。僕が留守の間にでも」
タケルはその様に結論づけた。
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