第2話 はじめての夜は眠れず

 来訪者は、タケルの部屋から動く素振りを見せない。その姿勢は、帰宅を促しても変わらなかった。


 仕方ない、何か飲み物でもと湯を沸かした。それからは、物が散乱するテーブルにスペースを作り、ティーカップを並べた。向き合うようにして2人分。温かで香ばしい匂いが室内に漂い出す。


 家主がコーヒーを勧めた事で、少女は恭しくお辞儀をした。しかし眉尻を下げ、申し訳なさ気な声色になる。



「お気遣いありがとうございます。ですが私は精密機器なので、水気とは相性が悪いのです。そもそも飲食を必要としません」


「はぁ、そうですか」



 タケルは、熱いコーヒーを啜っては相手を観察した。さも当然のように上がり込み、そのくせ礼儀正しく、気さくに振る舞う人物を。


 見た目は実に華やかだ。独身で金無し大学生の部屋に、大輪の花でも咲いたかのような光景である。しかし、この子がスマホですと言われても信じられる訳がない。何よりも、騙されている感覚が先に立つ。タケルは懐疑的な視線を向けるばかりになった。



「もしかして、何かの勧誘? それとも、テレビの素人ドッキリ企画とか?」


「どちらでもありませんよ。それより、充電させていただけますか? 残量が心もとないので」


「まぁ、それくらいなら」


「では失礼します」



 少女は感謝の言葉を述べると、真新しいケーブルを取り出した。プラグをコンセントに挿し込み、それをどこに繋げるのかというと、彼女自身であった。おもむろにセーターの裾をたくし上げ、へその穴に挿入。すると間もなく、少女は恍惚とした表情を浮かべた。



「ふぅ……。温まりますねぇ」


「そうですか……」



 タケルはしかめっ面で答えた。相手の狙いが、いよいよ理解出来なくなった為だ。


 タチの悪い冗談だったとしても、ここまで身体を張るものだろうか。ガラの悪い連中ならいざ知らず、いかにも善良そうなお嬢さんがイタズラするとは考えにくい。そもそも赤の他人に仕掛けたとして、メリットなど皆無に近いだろう。


 そうして困惑しきりのタケルに、少女の顔が真っ直ぐに向いた。頬を紅潮させた微笑みには、どこか妖艶な気配すらある。



「早速ですが、初期設定に残りがありますので、ご対応いただけますか」


「初期設定って、名前とか住所みたいなの?」


「はい。ただし、それらは既に完了しています。差し当たって、指紋認証の登録から始めましょう」


「具体的にどうするのさ」


「私の身体の、お好きな部位に触れてください。そこで登録を済ませますと、以降もロック解除が可能となります」


「いやいや……冗談でしょ?」


「嘘偽りありません。どうぞお気の召すままに」



 タケルは思わず視線を落としてしまった。そこには少女の胸元、人間の頭サイズに膨らんだ塊が見える。Vネックの隙間には、豊か過ぎる谷間が主張し、何者かを呼び寄せるかのようにも感じられた。


 しかし多感な青年であっても、首を激しく振って堪えた。それは人としてダメだろうと、理性の光を煌めかせたのだ。



「て……手のひらでお願いします」


「承知しました。では指先をどうぞ」



 少女は笑顔を微塵も曇らせず、両手を前に突き出した。何の変哲もない素肌があるだけで、精密機器を思わせる物など何も無い。


 この頃になると、タケルも投げやりだ。いつまで茶番が続くのかと思う一方、行き着くとこまで行ってやるという気分である。促されるままに指を突き出し、手のひらの真ん中に触れた。すると、指先に波紋が生じたように見え、思わず前のめりになってしまう。



「今のは……見間違い? 目の錯覚? それとも手品!?」


「指紋登録が完了しました。声紋認証も済ませておりますので、今後はお声がけいただくか、指先で触れる事で全機能を活用いただけます」


「はぁ、何と言うか、スゴイっすね……」


「他にも未確定要素がありますが、中断して、ウェブ閲覧などご利用いただけます。いかがなさいますか?」


「ネットが使えるの? SNSとか見たいんだけど」


「はい、承知しました。存分にどうぞ」



 タケルは、眼前に突き出された2つの手のひらに眼をやった。親指を重ねて広く表現しようとしているが、そんな動きは些細な事。ここでもやはり釘付けになる。


 それまで何も無かった宙空に、鮮明な文字列や画像が躍り出たからだ。何をどうやって。液晶画面も無しに表示させるだなんて。戸惑いを隠しもせずに凝視していると、向こう側から柔らかな声がかけられた。



「使用法は従来の操作と変わりません。タップやスライド、長押しにドラッグドロップなど、同じ感覚でご利用いただけます」


「はぁ、それは、助かります……」



 もはや言葉を咀嚼(そしゃく)も出来ない。ただ生返事を返すばかりになり、お馴染みのアプリを起動させた。


 すると、友人知人の投稿が所狭しと広がった。内容も他愛のないものばかり。晩飯は牛丼にするとか、来週からの講義めんどいなど、グチ混じりの言葉が並ぶ。数日ぶりのSNSは日常感が強く、脳に安らぎにも似た感覚を与えてくれた。


 そうして画面をスクロールさせていると、漫画家志望のユーザーが投稿するイラストを見た。青髪の美少女が際どい水着を着込み、艶めかしく身体をくねらせる姿だ。



「似てるなぁ。このイラスト……」


「タケル様、どうかされました?」


「いや、何でもないよ! 全然、問題ないんだ」



 少女は、片時さえ離れず座ったままだ。優しげな視線を外そうともしないので、タケルは気不味くも眼が合ってしまった。何となく、無関係な少女を辱めたような気分になり、自然とうつ向いてしまう。



「あの、もうネットは良いんで……」


「承知しました。次は何をなさいますか? 動画サイトでも?」


「もう十分だよ。そろそろ寝たいかもなんて、アハハ……ハハ」



 この頃になると、タケルの精神は限界を迎えていた。次から次に想定外の事態に見舞われ、理解が追いつかないのだ。もう何もかもを忘れて休みたいと願うのも、無理のない話である。



「ではお休みなさいませ。良い夢を」


「ええと、君は帰らないんだよね?」


「以後、タケル様の傍を離れることはない、とお考えください」


「急にそう言われても困るよ。寝具だって1人分しかないし」


「こちらで結構です。それではまた明日」



 その言葉を最後に、少女は部屋の隅で三角座りになった。そして膝に頬を乗せて、安らかな面持ちで瞳を閉じ、動かなくなる。


 タケルもどうして良いか分からず、まずは部屋の電気を消した。そして1人、ベッドの中に潜り込む。もちろん寝付けない。暗がりに薄っすらと浮かぶ、少女の姿が気がかりで仕方ないのだ。


 露わになったうなじを眼にしたが最後、タケルは悶々としながら寝返りを打ち、やり所の無い気持ちに堪えようとした。熱い衝動が、熱意の膨張が未熟な自制心を脅かすのだ。


 消灯を迎えて数時間。長々と葛藤を繰り返すうち、遂には欲求に負けてしまった。



「寝入ってるよね。起こさないようにしないと……」



 タケルは足音を殺して少女に歩み寄り、背後に立った。懸命に息を殺しつつ、その手に持った毛布を肩からかけてあげた。さすがに寝具なしで寝かせる事は、良心の呵責(かしゃく)が酷すぎたのだ。



「お優しいのですね、タケル様。ありがたく頂戴します」


「待って、まだ起きてたの!?」


「スリープモードでしたので、ちょっとした変化で再起動する事ができます」


「うんそっか。君の生態には早く慣れなきゃね」



 こうして初日の夜は終わった。タケルにとって思いがけない出会いが、少しずつ、だが着実に人生を変貌させていく。


 ちなみに「毛布くらい普通に渡せば良かったのでは」という質問に対してタケルは、タイミングを逃したし無闇に近寄るのも悪いかなって悩んでいたと、真っ直ぐな瞳で答えた。


 彼もまた、善良な性質なのである。

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