第4話
靴を脱いで、古びた家の中へと入ってゆく。靴は少なく、中は汚かった。玄関の周りは薄汚れており、幾つも写真立てが置かれている。
変な臭いがする、と直感的に感じた。
あまり気持ちいい場所ではない。
本当に灯里さんはこの中にいるのか?
ふとこの老人の言葉を疑ってしまう。
どうしてそう思ったのか理由があった。まず、この家は入ってすぐ長い階段が見えるのだが、階段にはたくさんの物が置かれていてほとんど登れない状態になっているのである。
またあまりにもホコリが多すぎる。
掃除されているのか?と思うくらいにだ。
さっきは気づいていなかったが老人の服は皺だらけで、顔も皺だらけなのだが、あまりにも小汚い。
この人があの明るく元気で美しかった灯里さんのおじいさん?
あまりにも考えにくい。
靴下のまま上がってゆくが、床はベタついていた。あまりにも歩きにくい。
段ボールやゴミ袋が散らばっており、襖には穴が空いている。
環境としては最悪だ。
ダメだ……もう帰りたい。流石に心が折れそうだ。
偉そうに強姦するとイキっていたが、いざ実際にその時が近づいてくると緊張して手足の震えが止まらない。さっきから心臓が張り裂けそうなくらいに鳴っている。
というか、この場所があまりにも気持ち悪い。
嘘だろと言いたいくらいに終わっている。
灯里さんは過酷な環境で育った人なのか?
そう考えるともう弱気になってくる。嘘を見抜かれたとか、中にヤクザがいて脅されるとか、宗教にどっぷりハマっている彼女がいるとか、俺と同じように引きこもっていて完全にメンヘラになっているとか、そんなとんでも妄想を抱いてしまっている。
時の流れは残酷だ。
当たり前っちゃ当たり前か。
そうだよな……。
俺がおっさんになっているということは、あっちもおばさんに近づいているということ。
じゃあ、かなりの肥満になっていて、もう見る影もないってパターンもあるのか?
こわいこわいこわい。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
なんてバカなんだ。俺は。
何をやらかそうとしているんだ。
学生時代のマドンナが今でも普通の生活をして美しいまま生きているだなんてそんな夢あるはずないのに……。
俺は本当に子供だな。
ウッという気持ち悪さを抑えながら、老人の後についていく。彼は一言「散らかっていてすいませんな」と部屋に入る前に告げた。
あたりを見渡す。
部屋の中は意外に綺麗だった。テレビはなく、ラジオが置かれており、なにかの放送が流れている。
テーブルの上には新聞が敷いてあり、灰皿には吸い殻が落ちている。
ただニオイは強くなった。
それは異臭ではない、なんらかのニオイ。
鼻にすーっと入ってくる感じの、もの。
「んっんっ……ケホ……」
老人が咳をして、ソファーへと座った。
ゴホゴホと何度も強めの咳をして、近くにあったタオルに手を伸ばした。
白いタオルには血が付着している。
「え、えっと……大丈夫ですか」
「大丈夫なわけあるか。もう死ぬ」
「……え」
おじいさんの言葉に開いた口が止まらない。あっけらかんと言われてしまい、身体が固まる。
思わず苦笑してしまった。
「し、しぬんですか」
「ああ,死ぬ」
「病院とかは……」
「もう遅い。行ったところで間に合わん」
おじいさんがそう言って、背もたれに身体を預けた。
口をぱくぱくと金魚のように開けて、目を瞑る。
「何を驚く必要がある」
「いや、そりゃ……目の前で『死ぬ』だなんて言われて、狼狽えない人間ふつうはいませんよ……」
「そうかね」
おじいさんはふぅーと息を吐き、立ち上がった。
「人は誰しもが最期には必ず死ぬだろう。呼吸ができなくなり,身体にはガタがきて,感性や脳は衰えて,徐々に朽ちてゆく。それが自然の摂理。嫌なら機械にでもなっておくべきだったな」
高圧的な口調で独り言を告げている。
キッチンで急須にお茶を注いでいる。
カチカチと火をつけている。
「最近はバカな政治家どもが主体となり,わたしたちの税金を無駄なオリンピックに使ったそうだが,あんなことをしている暇があればもっとこちらに還元してほしいものだ。若い子たちは年金も支給されるかわからないというのに。全く,くだらない。日本が不況になるのがわからんのか」
舌打ちをしながら、ジジイが文句を言っている。
ガチャガチャとやかましい音を立てている。
「わたしも二年前までお店をやっていたんだが,新型ウイルス感染症のせいで,それも存続できなくなってしまった。政府は何度も何度も自粛を要請し,そのせいで同業者は多く店を畳んだ。仕事はなくなり,年金生活を余儀なくされた。免許も返納しろとうるさいので返納したら,腰も悪くなり歩けなくなった。家を出ることもままならない。……こんな状態で生きたいと思うとでも?」
何も言い返すことはできない。
気持ちがわかってしまうから。
俺はただ部屋の入り口でぼーっと突っ立っている。
「いいか,小僧。人間が死ぬのなんて当たり前のことなんだよ。わたしは既に覚悟を決めている。老人ホームに行くような連中は来やしない家族を来訪を待ちながら,看護師くらいしか話し相手もいない施設の中で生涯を終えてゆくが,わたしはそうならない。この家で朽ちてゆく。そう,決めたんだよ」
換気扇の音だけが部屋に響いている。
「もう将棋を打つ友さえもいなくなった。彼らの葬式には参列しなかった。顔など見なくとも,もうじき会えるからな。別れを辛いとは思わない。もう慣れた。死など大したことはない。できることならさっさと迎えに来てほしいもんだ」
ガタガタと揺れる換気扇の音と、ひどくうるさい老人の声に段々とイライラしてしまう。
老人の自分語りは聞いていられない。
そもそも俺の目的は灯里さんに再会することである。
クソジジイとお茶を飲みに来たわけではない。
だが、どう見たってこの家には人気がなさすぎる。
この辛気臭いジジイは本当にボケてねぇのか?
「えっと、すいません。灯里さんはどちらに……」
我慢できなくなって尋ねると、
「ん,そこにいるじゃないか」
は?と言いそうになった。
顎で示される。その方向に早速目をやる。
部屋の一角には仏壇が置かれていた。
線香が焚かれてある。
臭いの正体はコレだった。
「彼女が死んでもう十年になる」
俺はなにも、なにも言えなかった。
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