水中うみがめ号

翔吏

とある青年の水中紀行

 ふらりと立ち寄った夜の海岸では湿った潮風が泳いでいた。


 砂に足を取られながら、俺は浜辺を歩いている。海沿いの車道までは距離があり、さざ波と海風の音以外には何も聞こえない。片方は海に、もう片方は雑木林に囲まれ、見渡す限り灯りも人も見当たらない。夜空を見上げれば、秋の星々を横切るように広大な雲がたなびいていた。


 この砂浜は俺のお気に入りの場所だった。家から車で三十分かかるものの、何か嫌なことがあった日や、言いようのない不安を覚える日には、必ずここを訪れていた。漠然とした不安は複雑に絡み合った糸の集合体のようなものだ。解こうともがけばもがくほどに糸は絡まり、些細なことでさえもその一部となっていく。俺にとってはここが糸を手放すための場所だった。


 しばらく波際を歩き続けていると、ごつごつとした岩壁が見えてきた。いくつもの岩が互いを押し合うように形成された岩壁で、その上には黒々としたシルエットの木々が夜空を背景に重く揺れていた。その様子を眺めながら、俺は近くの岩に腰をおろす。ひんやりとした岩の表面と砂の感触が手に伝わってきた。苔の匂いが鼻を掠めて潮風にさらわれていく。岩壁に衝突した波は水飛沫となって宙を舞いやがて海へと帰っていく。繰り返される波の音色は古いオルゴールが奏でる音楽のような自然さで心に染み渡っていくようだった。




 初めはほんの些細な変化だった。岩に座ったまま海を眺めていた俺は、揺れる波の動きに何かしらの規則的なものを感じた。それは自然界においては不自然なものだった。徐々に波は様相を変えていき、水しぶきが高く舞い上がる。この場を離れようと俺の手が岩に触れたとき、まるで潜水艦が帰還するかのように水のトンネルから一台の車が現れた。極小の星の光さえも反射するほどの光沢。全体的にかしこまった印象の黒色のボディ。赤いランプが示すのは「空車」の二文字。それは海の背景を除けば、街中で見かけるようなタクシーだった。


 呆気にとられる俺をよそに、そのタクシーは海の上で緩やかに回転し、ヘッドライトが俺の姿を捉えると、徐行速度で海の上を走り出す。俺は視線を外すこともなく、その場に立ち尽くしたまま様子を窺っていた。やがてタクシーは俺の目の前で横向きに止まり、後部座席のドアが勢いよく開く。遠目では見えなかったが、その車体には宝石のような瑠璃色の光で『水中うみがめ号』との文字が描かれていた。


 俺はどうしていいのかわからず、控えめに運転手の席を覗いてみる。運転席には制帽を目深にかぶった老年の男性が座っていた。その視線は遥か前方に向けられており、顔はよく見えない。俺はおもむろに辺りを見回す。誰もいない。風もない。音もない。空気も……ない?


 その瞬間、俺は海の中にいた。水の圧力を全身に浴びながら、ゆっくりと沈んでいく。水に沈む様は水底に吸い寄せられる感覚によく似ている。まるで水底に待ち人がいるかのようだった。俺は水面を仰ぐ。暗くてほとんど何も見えない。だが、それなりの深さの場所にいることだけは理解できた。手を伸ばして届く距離ではなさそうだった。俺は必死に水の中でもがくが、まるで透明な板に遮られるかのように浮かび上がることができない。ただただ深度を増していく。


 ふいに機械の振動のような音と泡々のぶつかり合う音が聞こえてきた。自由の利かない体を手繰り寄せるようにその音の方向へ向き直ると、あのタクシーが止まったままだった。ヘッドライトの光は水の粒子にぶつかって拡散し、水中を淡く照らしている。後部座席のドアは開かれたままで、思い出したように小さな気泡がぽつぽつと浮かび上がっていた。


 そしてもう一度、機械の振動のような音と泡々のぶつかり合う音が聞こえてくると、一気に水の流れが変化するのを肌で感じた。穏やかだった水の流れは突如として円を描くようにぐるぐると渦を巻いている。その渦に飲み込まれる中で俺の目に一瞬だけ映ったのは、宝石のような瑠璃色に輝きを放つ『水中うみがめ号』の文字だった。




 心地よい揺れに包まれる。背中にクッション性の柔らかい感触が伝わる。水の中のくぐもった音が耳をさらりとなでていく。夢うつつを彷徨いながら、穏やかな空間に身を委ねる。


 意識を取り戻した俺は、タクシーの後部座席に背中を預けたまま、手触りの良さそうな灰色の天井を眺めていた。ぼんやりとした頭の中に、少しずつ今までの光景が浮かび上がってくる。


 海岸。潮風。岩壁。水中。タクシー。


 そうだ。俺は海を眺めていて。いつの間にか水の中にいて。突然の渦に飲み込まれて。イルミネーションがぱちりと灯るかのように、宝石のような瑠璃色の光『水中うみがめ号』の文字が思い出される。ということは、俺はあのタクシーの中にいるのだろうか。何気なく窓の外を眺めて、その光景に短く息を吸いこんだ。窓の外にはどこまでも水中の景色が広がっていた。それはまるで水中観光船に乗っているかのような光景だった。


 「起きましたか。」


 問いかけのような声が聞こえてくる。窓の外を眺めていた俺に老年の運転手が声をかけたのだ。もしもこの車がタクシーだとするならば、運転手が乗っていても何らおかしくはない。だが、窓の外に広がる水の景色や穏やかな静寂はどこまでも非日常で、そんな空間に誰かがいるということに俺はひどく驚いて、一拍遅れてからようやく言葉を返す。


 「ここは……何ですか?」


 そんな俺の言葉に運転手は微笑んだ……ように見えた。


 俺の座っている後部座席と運転席の間には透明に澄み切った水の膜が張っていた。触れることさえためらうほどの透明色の中では、いくつもの小さな気泡や屈折した光が泳いでいて、それらに遮られてしまうため、運転席の様子はよく見えないのだ。目を凝らしている俺に運転手はこのように語った。


 「『水中うみがめ号』と私たちは呼んでいます。水中観光船のようなものですよ。」


 水にくぐもった声が耳に届く。俺は口の中だけで確かめるように『水中うみがめ号』と呟いてみた。その言葉は妙にしっくりくるものだった。頭の中には宝石のような瑠璃色で彩られた光が灯る。運転手はそのまま言葉を紡いでいく。


 「あなたが私にとって初めてのお客様です。これから長旅になるかもしれませんが気長にいきましょう。」


 そして運転手は座り心地を確かめるように体を揺らして車を発進させようとする。


 「あの、まだ乗るかどうかは……」


 「出発します。」


 俺の言葉を遮るように運転手は出発の合図を告げた。どことなく楽しそうな口ぶりだった。


 こうして不思議な水中紀行が始まった。




 それから俺と運転手は、道端に小さな花が咲くかのような気まぐれさで会話を紡いでいた。


 「この目的地は一体どこなんですか?」


 「私にはわかりかねますが、それなりの長旅になるでしょうな。」


 そういえば、出発のときにも同じようなことを言っていたな。長旅とはどのくらいのものを指しているのだろうか。気になったものの今尋ねても教えてもらえそうな雰囲気ではなかったため、俺はもう一つの疑問を投げかけた。


 「そうですか……。あの、ところで、料金とかは?」


 「いえ、お代は結構ですよ。あなたは私にとって初めてのお客様ですから。」


 なおも落ち着かない様子でいる俺に向けて運転手は言葉を続ける。


 「いろいろ気になることがあるとは思いますが、あなたは車に乗っていて、私は運転をしている。今はそれだけで良しとしましょう。それよりも、もうそろそろ見えてくるはずですよ。」


 何が、と口にしかけたとき、窓の外に小さな光がちらつく様子が見えた。後部座席で意識を取り戻してからそれなりの時間が経過しているはずなのだが、今の今まで窓には暗闇に反射した自分の顔と車のヘッドライトが放つ光の拡散しか見えなかった。変化に乏しい車内では、時間の流れを掴むことは難しい。左腕につけていた時計の針は、アルファベットの「Ⅴ」の形で止まっていた。


 窓の外の小さな光はぼんやりとしていて、まるで蛍が水中を泳いでいるかのように見えた。その光景の美しさに息を吞みながら、俺は水の中を眺めていた。次第にその輝きは増えていき、あっという間に幾百もの光が水の中をそれぞれ思い思いの方向へと泳ぎ始める。


 しばらくして、ひとつの光が窓のそばを通り過ぎていった。そのときに見えたのは、淡く光を放つ魚の姿だった。窓の外に広がる輝きの数々は光を放つ魚たちが泳いでいるのだと知り、ますますその風景に釘付けになった。


 やがて光を放つ魚の色彩は様々に変化していった。緑色、青色、赤色、黄色、橙色、紫色。色とりどりに彩られた光たちはそれぞれ重なり合っていくつもの像を結んでいく。まるで名画を復元するかのような鮮やかさで色彩は紡がれていき、完成した瞬間にそれらは映像となって水の中をスクリーンにして上映されていく。窓の外の至るところでは別々の映像が灯っていて、まるで水の中に映画館が作り上げられていくかのようだった。そこに描かれていたのは、かつての俺が味わった印象深いエピソードの数々だった。


 幸せなひととき。ほろ苦い経験。温かな時間。悲しい瞬間。灯っては消えていく情景。


 数え切れないほどの思い出と懐古に溢れた映像の一つ一つをなぞるようにして眺めていく。


 「いかがですか?」


 ゆったりとした口調で運転手はそう訊ねた。『水中うみがめ号』は今も変わらず海へと沈んでいく。後方に流れていく映像の数々に目を奪われたままで俺は小さく呟く。


 「忘れていました。」


 運転手は沈黙を返す。どこまでも透き通っていて温かな静けさだった。


 「今の今まで忘れていたんです。あの星空も。あの花火も。あの人の表情も。あの約束も。……まるで映画館と水族館が合わさったみたいで。」


 新たな映像に目を向ける度に温かな水滴が水面に落ちて緩やかな波紋が広がるように感じる。


 「では、海底へ沈んでいくとしましょうか。心の準備はよろしいですかな?」


 冗談めかした声が水にくぐもって耳に届く。俺は微笑みを返し、運転手もまた微笑んだ……ように見えた。




 水の中の映画館は自分自身も忘れていた情景を映し出して、どこまでも続いている通路であるかのように思えた。だが、海の底へと沈んでいくにつれて、俺はあることに気づいた。


 海底へ沈むにつれて、水中に描かれる映像は過去のものになっている。


 光を放つ魚の姿を窓の外に初めて目撃したあたりでは、今からここ数年間の情景が映し出されていたように思える。その並びに規則性のようなものはなかったものの、あの深さでは遠い過去の映像は見られなかった。


 だが、今まさに窓の外に広がっている情景の数々は、青年期に経験したものが多く見られる。


 それらはかつてないほどの郷愁と切なさを胸の中に呼び起こすものだった。限りなく自分に近しい誰かを陰で見守っているような心地で懐かしさが溢れ、それと同時に過ぎ去った日々をどうしても追い求めてしまう。戻りたいと心のどこかで願ってしまう。見るも鮮やかな瞬間が、遠い星々のように遠慮のない輝きで満ちている。


 「眩しい。そう思っていますか?」


 青年期の鮮やかな思い出の数々に心を奪われていた俺に、運転手は質問を投げかける。その瞬間に感情と言葉がぴったりと合わさったように感じられて、驚きつつも運転席の方向へと目線を移動させる。ハンドルを両手で握ったままシートに座っている運転手の視線は、先ほどまで俺が眺めていた窓の外へ向けられている……ように見えた。頭の中を探りつつ言葉を返す。


 「あまりにも眩しい、ですね…。二度と訪れることのない時代だからなのかもしれませんが、とても輝かしく見えて、…自分であって自分ではない誰かを見ているような気になります。」


 一つ一つの言葉を丁寧に紡いでいくようにして自分の感情を口にする。それは紛れもなく本音に近いものだった。俺はきっと窓の外に広がる情景や瞬間に星を眺めるような眼差しで憧れを抱いている。今の自分が立っている場所からは遠い彼方にあるものだと。


 そんな思いが伝わったのだろうか。次に運転手が口にした言葉に俺は意表を突かれた。


 「眩しい。私からすれば今のあなたも同じように見えますよ。」


 時が止まったように感じた。


 「輝かしいというのはあなたも同じです。二度と訪れることのない時代を生きているのだって同じことです。すべて同じです。過ぎ去った日々を眩しいと思うあなたのことを、眩しいと思う人がいることをどうか忘れないでいてください。」


 それだけ語り終えると、他には何も言わなかった。


 窓の外では幾百もの情景がふわふわと浮かび上がり、そのどれもがまるで温度をまとったかのように瞬いている。車内には透き通った沈黙が舞い降りていた。


 青年期を過ぎた『水中うみがめ号』は、いよいよ海底へと近づきつつあった。




 水中に映し出される情景の数々に青年期のものは徐々に少なくなり、今の深さでは幼少期のものが多く見られるようになった。そして俺はその映像に今までとは違った感想を抱いていた。


 それらの映像の視点は新鮮だったのだ。


 今では気にも留めないような日常の数々や、親しい家族の温かな声音、細やかな表情の一つ一つがこの世界の中心であるかのようにピントが合わせられていて、どこか見覚えのある景色さえもまるで別世界の風景写真のように見えた。単なる好奇心という言葉だけでは表せないほどの愛情がそこには確かに感じられた。


 その深さになった頃には、俺は穏やかな心地で窓の外を眺めていた。


 もうじきこの水中紀行も終わりを告げることを悟っていた。


 この水中紀行では、深く沈んでいくにつれて、より遠い過去の映像が灯し出されるようになる。そして幼少期の深さを通り抜けた後、おそらくそこは海底が広がっているはずだ。名残惜しい気持ちは十分にあった。もう一度初めから光溢れる情景の数々を眺めていたいという思いがないと言えばそれは嘘になるだろう。


 それでも俺はじきに終わりが訪れることを悲しいことだとは思っていなかった。


 窓の外に広がる情景の数は次第に少なくなっていく。まるで冬のイルミネーションのように水中に散らばっている映像の数々は役割を終えたものから順番に解けていき、最後の一つだけが遠くに浮かんでいる。そこには情景でも映像でもなく、ただただ真っ白な光が描かれていた。


 やがてその光も解けていき、ヘッドライトの拡散光だけが海の中を彷徨っている。


 海底が見えてきたのはそれからほどなくしてのことだった。




 少しずつ速度を落としていき、『水中うみがめ号』は海底に止まった。水の流れは穏やかなようで、車体はゆったりと揺られている。とても心地の良い空間だった。


 「ここで、到着となります。」


 運転手がそのように告げる。十分に理解していたつもりではあったが、改めて言葉にされた途端にこれで終わりなのだという実感が胸の中に溢れ出していく。


 それでも、俺は晴れやかな気持ちで運転手に伝える。


 「これまでの光景を見られて良かった。本当にそう思います。」


 嘘偽りのない本音だった。頭の中には水中に映し出された情景の数々が浮かぶ。


 「こんなにたくさんのものをいただいて何をお返しすればいいのかわかりません。」


 そんな俺の言葉に対して、運転手は優しく語りかける。


 「いいえ、私から与えたものは何もありませんよ。すべてはあなたが持っていたものです。きっとあなたはこれからの人生でこの海をもっと深くしていくことでしょう。私にもこの海を見せてくれてありがとう。」


 温かい沈黙が車内に満ちていく。


 そういえば、と最後に気になったことを俺は聞いてみることにした。


 「一つだけお聞きしてもいいですか?」


 「いいですよ。何でしょうか?」


 「どうして俺を乗せてくれたんですか?」


 ずっと気になっていたことだった。俺は美しい情景の数々を見ることができ、これ以上ない経験をすることができた。だが、そもそもなぜ俺が選ばれたのだろうか? 


 「それは、あなたが私にとても似ていたからです。――きっとあなたにもわかりますよ。」


 運転手は面白そうに答え、最後に意味深なことを呟いた。


 俺はその続きを聞こうとしたのだが、それは叶わなかった。


 「どうやらここまでのようですね。」


 運転手がそう呟いた瞬間に、ドアの隙間から水が溢れ出してきた。みるみるうちに足元が浸かり、水位は上昇し、あっという間に車内は水に満たされた。だが、不思議と恐怖を抱くことはなく、温かい微睡みにゆっくりと落ちていくような柔らかな感覚に包まれる。


 瞼がだんだんと閉じていく中で、運転手は微笑んでいる……確かにそのように見えた。




 乾いた潮風が頬をなでる。ふらりと立ち寄った夜の海岸は、いつの間にか朝になっていた。砂浜に寝そべった状態で目を覚ました俺はそのまま空を眺めていた。太陽の光が眩しい。どこまでも広がるような快晴。目を閉じると、雑木林を通り抜ける風のざわめきや、繰り返し寄せる波の音が耳に届く。俺は青空に向けて大きく息を吸いこんだ。


 そして自分の右手が何かを握りしめていることに気が付いた。表面が妙に手触りが良い。そのまま右手を持ち上げる形で太陽にかざしてみる。宝石のような瑠璃色に光るその鍵を見たときに、俺はすべてがわかった気がした。その鍵を両手で抱きしめて、大きく息を吐き出した。


 その鍵に小さく描かれていたのは、うみがめの絵だった。

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水中うみがめ号 翔吏 @shori_music_

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