第3話 母のくちぐせ3

 午前八時。風夏は弟を連れて、自らがオーナーとなった花屋へとやってきた。とても小さな、だが顧客もついて、愛されている店だ。

 自営業のノウハウなんて学んだことはなかったし、大学進学を目指していた風夏にとって、とても大きな賭だったがこの花屋——Brightは、何としてでも残したかった。

 部活で悔しいことがあったとき、友人と悲しいことがあったとき。どんな時でも、朧気な幼い記憶の中から、両親との幸せな温もりが蘇る場所がここだったから。ここにくれば、両親の笑顔が見える気がするから。この世で最も愛してくれた人達を忘れて、無邪気に笑う弟のために、そんな宝箱のような空間を残してあげたかった。

 だからどんなに周りが無謀だと止めたときにも、風夏は頑として意志を変えなかった。温情のつもりだったのだろう、「子どもにうまくできるわけがないのだから手放すべきだ」と諭した大人も、そんな彼女の様子には負けるしかなかった。

 今は四月も半ば、気合いを入れて営業を再開して、早半月ほどが経っている。

 しかし、やはり全てが上手く回っているわけではなかった。風夏の武器は、時偶お手伝いをしながら親に学んだスキルだけだったのだから当然と言えば当然だ。商品として扱う植物は生き物で、季節や天候に状態が左右されることも、植物同士の相性も考慮する必要があった。店内の雰囲気や陳列方法の工夫、商品ごとに異なる仕入れ方法、仕入れ先とのやりとりや礼儀。帳簿のつけ方、ラッピングの仕方…

 挙げれば切りのない業務内容に、初めはてんやわんやだった。今でこそ心の余裕を取り返しつつあるが、当初は電話が鳴り響いただけで心臓がばくばくしていた程である。

 そんな中でも風夏が毎日欠かさず行ったことがあった。それは店の植物すべてに挨拶をすることだ。

「みんな、おはよう。今日もよろしくね。お客さんを幸せにしてなぁ」

 実際に声をかけながら、植物ひとつひとつの様子を確認する。これも両親が必ずやっていたことだった。

 小さい頃、風夏も見様見真似でやってみたことがあった。どうして両親は返事もしない植物に声をかけるのか、と疑問を持ったからだ。そうして真似を継続して一月頃、分かったことがあった。植物は確かに話すことはできないが、伝えてくれる何かがある。声をかけると、草花が喜ぶのが分かったし、元気か元気じゃないのか、ピンとくるようになったのだ。なるほど、だから挨拶をするのか。幼い風夏は、それ以降、手伝う際には植物に挨拶するようになった。

 店内を一周し終え、カウンター奥の座敷にタオルを敷いて夏空を寝かせた。最近のお気に入りのおもちゃである布絵本を出すと夏空が手を伸ばした。

「あうー」

 夏空の、お気に入りを満足そうにカシャカシャ言わせている様子を確認し、風夏はベビーガードを閉めた。

 両親とお揃いのエプロンを着けて、店のドアを開いてドアプレートをOpenにしたら、今から植物への水やりである。これが案外時間がかかるのだ。水ができるだけ土に直接かかるように根元にかけるのよ、と母が教えてくれた。植物によっては、葉に水がかかると傷む種類もあるらしい。水やりひとつとっても、植物とは奥が深い。知らずに真面目な顔つきになった。口が横一文字だ。

——優しく葉を避けて・・・

 風夏は時折、夏空の発する喃語に返事をしながら、弟の様子を伺った。

 植物の世話に一区切りがつき、事務作業へと移る。カウンター下から取り出したのは二冊のファイルで、中身は過去同月の帳簿の売上額と仕入れ先への発注数である。それらを照らし合わせて、来月分の仕入れの参考にしようとしたのだ。

 季節を彩る植物は異なる。シーズン毎のイベントに合わせた需要も異なる。実際の所、帳簿を照らし合わせるだけではその辺りの感覚が掴み切れておらず、この一年は様子見だろうとは思うものの、風夏は画策しているところだった。

 営業そのものを軌道に乗せるのも難しく、店の売上げから生活費を捻出することは現状困難だった。少数ではあるが、懇意にしてくださる顧客のおかげで何とか経営を安定させている状態だ。これからは、自らも顧客を生み出していかねばならない。風夏は必死だった。

 つまり、生活費は他でどうにか工面する必要がある現状だ。今は両親の遺産や、弟のおかげで遺族基礎年金を受給できているが、花屋をどうにかしない限りお金は減っていく一方である。夏空の今後を思うと切迫感は尚のことだった。

——夏空が大きくなったら、やりたいことがいっぱい出てくる。親がいいひん、お金がないで我慢させたくない。

 両親からたくさん愛してもらった記憶があっても寂しさが拭えないというのに、物心も付く前に親を失った弟はどれだけ哀れなのだろう。風夏は、変わらずご機嫌に遊ぶ夏空へと視線をやった。

——この子には、学びたいと思ったことを学べるようにしてやりたい。

 自分と同じように、夢を諦めることがないように。風夏はそっと夏空から視線を外した。

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