鮮やかな皮膚
久須クス
読み切り
雪が降る様は、しんしんと表される。そして、世界の色彩は雪の銀白に飲み込まれていって、音すらも巻き込まれていくかのようだ。
七歳の誕生日を迎えてからずっと、ユキノの世界は白銀に染まっている。四歳のときに一度だけ見たことのある雪景色にそっくりの色だ。誕生日を迎える前まで見ていた世界の色は、雪のような白銀の薄い幕の向こう側にある。もう鮮やかな景色を見ることはない。
「ユキノの世界色彩は、やっぱり自分の名前からきてるの?」
「自分ではみんなと同じように、調色師が見せた色彩帳から選んだつもりだけど。でも小さい頃からずっと『あなたの名前は雪景色の雪からとりました』って言われていれば、影響されてるかもね」
白銀の世界で、カオルが「やっぱり」と言いたげに笑った。カオルからふわりと浮かび上がった銀色は、舞い散る雪というよりも蝶の羽ばたきのようだった。
「カオルの世界色彩は……紫色だっけ」
「薄明だよ。朝焼けだし、夕焼け。その間に見られる、ほんの少しの間の紫色――それがわたしの世界色彩」
カオルの説明を受けても、ユキノは上手くその色を思い描けなかった。白銀に覆われる前にそんな景色を見たことがあっただろうか。世界色彩に染まる前の七年間の記憶を遡ってみても、カオルのいうような朝焼けや夕焼けの薄明の紫は思い出せなかった。
ユキノの中に思い当たる光景がないのだと、カオルも気づいたのだろう。自分のことに興味を持ってもらえないのが悔しいのか、ユキノの態度に呆れたのか分からないが、ユキノには真似できない表情で口を開いた。
「ユキノってさ、物言いが雑だよね。名前も世界色彩もすごく繊細そうなのに。わたしは実物を知らないから分からないけど、雪って触っただけで溶けるんでしょ? 名は体を表すって絶対ウソだね」
「私の中身と私の名前と私の世界色彩は関係ないでしょう」
「小さい頃から名前の由来を聞かされてきたからそうかも、ってさっき自分で言ったくせに」
言ったばかりの言葉だ。さすがに身に覚えがある。ユキノが言葉に詰まると、カオルがまた笑みを深めた。カオルから発せられる銀色が濃くなって、真っ白な世界に光るものは目に痛いのだと知った。
世界色彩は、寂しさは自分だけのものでいいと肯定するために生まれたのだという。自分だけの色。自分の人生を彩る、自分だけの世界。誰にも見ることのできない、誰かと分かり合うことを諦めていい、そんな視界だ。
自分の体は自分だけのものである。だから自分を大切にしなさい。そういったことを自覚させるために、世界色彩が施されるのだと説明された。
ユキノ自身がそれに納得しているかどうか、と聞かれれば、「分からない」と答えるしかない。少なくとも、世界色彩という技術が確立する前の時代に生きるのは嫌だった。そこでは、自分の体や意識を無視されて、全体というよく分からないもののために生きなければならないらしい。
今の時代でも、学校で集団行動はしているし、家族という帰属意識を持つような血縁関係に基づく小さな所属はある。それでも、決して個人の器から他人の器に干渉してくることはない。干渉できないのだ。
自分は自分。あなたはあなた。
見ているものも、感じているものも違う。同じものを分かち合えないのだと、体がもう分かっている。
――七歳の誕生日にそれまで見ていた世界の色は塗り替えられて、世界は自分だけの色になる。
――そして、十四歳を迎える年の六月三十日、自分だけの色だった世界に、自分が選んだ人の色を重ね合わせる。
七歳になると同時に塗り替えられる視界の色を世界色彩といい、それぞれが見てきた光景や触れてきたもの、感じてきたものをもとにして、調色師と呼ばれる専門家によって世界色彩は選定される。
七歳までは、世界は様々な色に彩られていて、目も眩むような視界だった。それはユキノだけではなく、世界色彩を得た多くの人が持つ感慨で、未発達の肉体であれだけの情報をよく受け入れられていたものだと思う。
七歳の誕生日を迎える前までに感じていた、伝えたい、分かって欲しい、という寂しさは癒やされた。自分は自分。あなたはあなた。明確な輪郭は、絶対に色が混ざらないパレットの仕切りと同じだ。
シアン、マゼンタ、イエローからなる重なり合った複雑な色彩。名前のついた色。誰かに伝えようとしても伝わらない色。たくさんの色があり、世界は眩しく、輝いていた。
けれど、同じものを見ているはずなのに、隣りにいる人と話せば話すほど、もどかしさが募っていく世界でもあった。究極的なまでに寂しい世界だった。
世界色彩は、十四歳の六月三十日に書き換えが行われる。七歳の誕生日に各々のその人だけの世界色彩を得たあと、まるで「好きな人を選んでその人を迎え入れなさい」と言わんばかりに、誰かを選んで、その相手の世界色彩と自分の世界色彩を混ぜた新しい世界色彩に書き換えなければならない。
分かり合えないことを分かっていて、自分のものは自分のものだと握り締めて生きてきて、決してあなたの尊厳は犯さないと誰もが示してきた。
自分以外の世界色彩を受け入れるということはどういうことなのだろう――十四歳以上の人間は、みんな七歳のときに塗られた自分だけの世界色彩から、他の人の世界色彩と混ぜ合わせた世界色彩に書き換えられている。周りにいる十四歳以上の誰かに聞けば、それがどういうものか、そのときのその人の感じたものを教えてくれるだろう。
けれど、ユキノは――ユキノ以外の世界色彩に染まった誰もが――知っている。その人の感じたものを知ったところで、自分が同じものを感じることはないのだ。言葉は曖昧で、体は言葉として伝えられたものを相手の言う通りにそのまま再現することはできない。寂しさだけが正しくお互いの間を行き来している。
明日は人生で二度目の世界色彩書き換えの日だった。六限目の授業が終わったあとのホームルームで、クラスの担任が改めて説明したが、人に言われるまでもなくクラスの誰もが知っている。
クラスの話題は、ここ最近ずっと世界色彩の書き換えで持ち切りで、ユキノやカオルが所属するこのクラスだけではなく、十四歳の六月三十日を迎える人間はみんなそうだろう。
そして、そう思うことすら、みんな自分自身に対する後ろめたさと、誰かから向けられる気持ち悪さを感じているに違いなかった。自分は自分。あなたはあなた。自分の輪郭を保つために、相手の輪郭に触れないこと。相手のことを、自分の中で思いを巡らせないこと。分かち合うことができない相手の内面を暴き、犯し、自分の色に染め上げることだ。
ホームルームを終えたあとの教室には、ユキノとカオル以外にも何人か残っていて、二人と同じように明日の世界色彩書き換えの話をしている。
世界色彩を書き換えるために混ぜ合う相手は、当日まで秘匿される。事前に希望した相手の世界色彩と自分の世界色彩が混ざり合う。書き換えの世界色彩の持ち主は、一対一のつがいの形にはならず、一人の人間が複数の人間に世界色彩を与えることもある。それは同時に、誰からも求められない世界色彩の持ち主もいるということだった。
自分は自分。あなたはあなた。寂しさだけが正しく人の間を行き来している。独りだということは、誰にも脅かされないということ。
「カオルは」
「なに?」
ホームルームが終わったあとの教室の窓の外は、まだ夕暮れから遠い色をしているらしい。七歳で雪のような真っ白の世界色彩になったユキノは、当然十四歳が教室から見る放課後の窓の外の空の色など分からない。
カオルは、ユキノの世界色彩の元となった雪に触れたことがないと言った。久々に「ほら、やっぱり分かってもらえない。寂しいね」という声が聞こえた。もうその声が誰の声かも思い出せない。
「もう夕焼けが見えてるの?」
「えっ、今? ええ……今は六月だし、まだ……明るいんじゃないかな。わたしはずっと朝も夜も来ないから分かんないけど」
カオルは、自身の世界色彩を薄明だと言った。朝焼けで、夕焼けだと。何度聞いてもうまく思い描けないユキノは、ずっとカオルの世界色彩を紫だと言っていた。
――朝も夜も来ない世界。
今まで一度も聞いたことのない言い方で、ユキノの世界色彩の中にいるカオルから銀色の輝きが一瞬にして飛び散ってしまったかのようだった。
――あまりにも白すぎる世界は目に痛かった。でもそれは、眩しいものを見ていたからだ。
自分の中で湧き上がった感情だから許して欲しい、とユキノは誰かに許しを請うた。本当はきっと、目の前にいるカオルに、今考えたことを伝えるべきなのだ。
私は今、あなたの輪郭を脅かしました。まだ世界色彩が混ざることを許されていないにもかかわらず、私はあなたの世界色彩を共有しようとしました。
「ユキノ? どうかした?」
ユキノの一言に対して、カオルはその三倍を返してくる。二人の会話で、ユキノが急に黙り込むことは珍しくなかった。それにもかかわらず、カオルがユキノの様子を窺ったのは、言葉を飲み込むよりも激しく、唇を噛み締めて、泣き出せたらどんなに楽かという顔をしていたからだろう。
こんなに激しい感情であっても、ユキノはカオルと分かち合うことはできない。見えているものが違うから。感じているものが違うから。体が違うから。心が違うから。自分は自分。あなたはあなた。色々なものが混ざり合って、ぐちゃぐちゃになった。
「きもちわるい」
全部伝えるのに、こんなに分かりやすい言葉はなかった。
鮮やかな皮膚 久須クス @kusu_kusu_kusu
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