第2話-5

 問題の家は、中心街を一望できる見晴らしの良い小高い丘にあった。

 夕日に照らされて橙に染まる街並みが美しい。

 和眞は遅れるまいとここまでも走ってきたら、一番乗りになってしまったようだ。玉のような汗を流す火照った顔を、丘に吹く風が冷やしてくる。伸び放題の生け垣の前で息をととのえているうちに、雪路たちがやってきた。

「なんだそれ?」

「いや……ちょっとな」

 自分が脇に抱えていた麻袋を指さして訊かれるが、はぐらかした。雪路はそれ以上追及することもなく、

「行くぞ」

 と、歩き出した。敷地内へ足を踏み入れる雪路の背中に、和眞とギンがついていく。

 何年か前に建て替えられたという木造の一軒家は、比較的綺麗だった。今は住む人がおらずもぬけの空だという。 

 雪路は玄関には向かわず、家の横を通り過ぎてぐるりと裏庭にまわった。

 裏の奥には干からびた草がそのままになっている小さな畑があった。

(これが家庭菜園ね……)

 畑の脇には前の住人が忘れていったのであろうスコップやジョウロが捨て置かれていた。

 ギン、と雪路が呼ぶと、返事をするように銀髪の男は鼻を鳴らした。

「ここだ」

 畑の隅まで歩いていくと、顎で地面を指す。それは首のない犬の骨が埋められた場所であろう。ギンが一度調査したときに掘り返したのか、他にくらべて土が少し盛り上がっていた。

 日が沈むのは早い。空はだんだん紫になったかと思うと、あたりは一気に暗くなった。 

 

 わおーーん。


 犬の鳴き声がした。

 和眞が振り返ると、いつの間には黒い大きな犬がいた。毛並みはボロ雑巾のように汚れていた。尖った犬歯をむき出しにして低く唸っている。今にもこちらに襲いかかってきそうである。

「お前が犬神か……?」

 当然返答はなく、黒い犬は一歩ずつ近づいてきた。和眞は後ずさりながら、念のため腰元にある警棒に右手をかけた。

「和眞、手を出すな」

 雪路は静かに制されて、和眞は警棒から手を離した。それを見て安堵の息を吐いた雪路はギンに向かって目で合図した。

 三白眼の男は、和眞には聞き取ることのできない呪文のような言葉を呟いた。その音に反応して、黒犬の耳がひくひくと動く。

 依然として続く緊張感に、和眞が思わず固唾を呑んだとき。

 犬から低い声が聞こえてきた。

『どこだ』

と、一言だけ口にした。

 犬が人語を話すなどありえない。目の前の黒犬はやはりただの野犬ではなく、犬神なのだ。

「テメェを犬神にした奴らは、すでにこの世にいねえぞ」

 ギンは叫ぶが、黒犬は歯牙にもかけず、また一歩こちらへと近づく。

『どこだ』

 また同じ言葉を繰り返した。

「だからテメェが憎んでいる奴らはもういねぇっての!」

 イラついたようにギンが怒鳴る。

 雪路は風呂敷に包まれた桐箱を掲げ「貴方の頭を持ってきましたよ」と丁寧に語り掛ける。しかし、

『どこだ』

と、またしても地響きのような唸り声が聞こえただけだった。

「怒りで我を忘れているのか?」

 和眞は隣に立つ雪路に小声で訊く。

「これは……もしかしたら」

 雪路は黒犬にゆっくりと歩み寄り、目の前まで行くと両ひざを曲げてしゃがんだ。

 全身真っ黒の中に光る、犬の瞳に目線を合わせて口を開いた。

「捜しているご家族は、この丘に眠っていますよ」

 ひどく優しい声で出して微笑んだ。

「ご家族? 犬神にした者は血縁者も死んだんじゃなかったのか?」

 戸惑う和眞に、雪路は黒犬を見つめたまま答える。

「僕は犬神を作った人間のことを調べたと言っただろう? 今から三十年前、家の繁栄を願って犬神の呪法を行ったのは豪商の男だった。大きな商家なら何か記録をつけているかと思って探してみたら。筆まめな男で日記をつけていた。彼の義理の妹のお子さんが保存しているのを見せてもらったんだ。そこにはこう記されていた」

 ――犬神の呪法を行う。森に住む黒犬を捕まえてきて庭に埋める。仲間の子犬が家に入り込んできたので、森へ捨てておいた。

「この犬は母犬なんだよ」

 和眞は驚き、黒犬に視線を投げた

「探している家族というのは、子犬だったのか……」

 雪路はふたたび犬神に語り掛ける。

「あなたの首をこの奥の森に胴体と一緒に埋めます。ご家族と一緒に眠ってくれませんか?」

 犬神はしばらく雪路を見つめていたが、大きな身を翻して庭の柵を飛び越えて裏にある林の中へと消えていった。

 一連の動きを三人は何も言わずに見守っていた。

「……許してくれたのか?」

「そうみたいだ」

 張りつめていた空気がふわりと緩む。和眞も雪路もはぁと息を吐いた。

 雪路はギンが立っている傍まで行き、しゃがみこんだ。素手でゆるく盛り上がった土をかき分け始める。和眞とギンも無言で近づいて、雪路を手伝う。

「手が汚れるよ」

「いいんだ」

 しばらく堀り進めると、小さな白い塊が出てきた。雪路は和服の懐から手ぬぐいを取り出して、大切に包んだ。

 家の裏にあった林に入ると、畑から持ち出したスコップを使って、和眞が穴を掘った。 そこに雪路が持ってきていた首の骨と、先ほどの白い塊を一緒に入れた。土をかぶせようとしたとき、和眞はおもむろに手を止めた。

 不思議がる雪路に、和眞は麻袋を取り出て中を見せた。

「これ、一緒に入れてやろうと思って」

 中には大きく立派なサツマイモがずっしりと入っていた。

「なんでツマイモなんだ?」

「え? うちの田舎じゃ犬の大好物はこれなんだが……。こいつ、食い物を食べさせてもらえなかったって聞いたからな。腹いっぱい食わせてやろうかと」

 雪路は呆気に取られて拍子抜けした顔をした。

「芋かよ! シケてんな! 肉の方がいいに決まってんだろ!」

 それまで黙っていたギンが荒ぶる。和眞は自分の常識が田舎のものだったと悟り、急に恥ずかしくなってきた。

「それを取りに行ってたのか?」

「……ああ」 

 ぷっと、雪路は噴き出した。腹を抱えて笑っている。和眞はますます羞恥にかられて、顔が赤くなる。暗くなったおかげでばれないのが救いだった。

 苦しそうなほど笑った後、雪路は「はあ、久しぶりにこんなに笑った」と目じりの涙をふいた。

「入れよう。きっと喜ぶぞ」

「それだけ笑われた後では信じられんぞ」

 じと目で睨んでみても、雪路はどこ吹く風だ。

 結局大量のサツマイモも一緒に入れて、土をかぶせてやった。

 最後に雪路が手を合わせて、何かを小さく唱えた。和眞も合掌して、あの犬と子犬の成仏を祈った。

 すべてを終えて丘をおりるころには、夜がはじまっていた。朧月の柔らかな光が帰り道を照らしている。

 

 それ以降、野犬と思われる被害は出なくなった。

 悲痛な叫びにも似た犬の遠吠えも、聞こえなくなったという。

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