第四章 春人の話

 写真を見た瞬間、俺はドキッとした。

「これ……」

そう言った俺の横で、突然進二が頭を抱えた。

「進二?」

俺は手をかけようとしたが間に合わず、進二は地面に倒れた。異変に気づいた陸が顔を真っ青にして叫んだ。

「進二くん?進二くんってば!」

驚いて呆然とする俺とは違い、恭一さんは冷静だった。

「陸くん、進二くんを無闇に揺らしちゃだめだよ。安静にさせるんだ。春人くん、進二くんに声をかけ続けて。」

「……分かりました。進二、進二……返事してくれ……」

次の瞬間、俺の視界がぐるぐると回り、意識が遠のき始めた。倒れながらもかろうじて陸と恭一さんの方を見ると、二人も倒れている様子だった。

――なんだよ……急にお別れかよ……

俺は記憶の奥底に沈み込んでいく感覚に包まれながら、あの日のことを思い出していた。


 進二が俺ん家の隣のアパートに引っ越してきたのは、小学五年生の頃だったと思う。俺らはすぐに仲良くなり、いつも一緒に遊んでいた。中学校も同じで三年間クラスも一緒。出会ってからなんでも一緒のいわゆる親友だった。

 中学の卒業式を終えた春休みのことだった。その日俺は家族でショッピングモールに出かけていた。新生活のためのあれやこれやを買い、帰りにファミレスで晩ごはんを食べた。昼間は天気が良かったが、たしか十八時くらいから突如大粒の雨が降り始めたと思う。家に帰ったのは二十時前だったが、未だに雨は降り続いていた。アパートの方を見ると、進二の部屋のベランダに洗濯物が干しっぱなしになっていた。しかし、部屋には明かりがついている。

「進二のところに行ってくるわ!」

「待ちなさい、春人!」

母さんの言葉を無視して、俺は家に着くなり車を降りると、進二のアパートに向かった。進二は母親と二人暮らしだが、母親は仕事で帰りが遅いことが多かった。だから、二十時くらいなら恐らく家には進二ひとりだ。俺は洗濯物を取り込み忘れていることを教えてやるついでに、ちょっと遊んでいこうと思っていた。

――ジリリリ、ジリリリ、ジリリリ

進二の部屋の前に着くと、俺はいつものようにチャイムを鳴らした。しかし、三回鳴らしても誰も出てくる気配はない。

――電気付けっぱなしで寝てるのか?

俺はドアの郵便受けを覗いた。進二の住むアパートは古くて、郵便受けから部屋の中がよく見えた。正面にはベランダに出るための大きな窓が見える。

――ん?

俺は嫌な予感がした。はっきりとは見えないが、ベランダの窓越しに倒れている人影があった。そこに俺を追いかけてきた母さんが来て俺を叱った。

「春人!人の家をそうやって覗くのはやめなさい。」

しかし、振り向いた俺の顔が青ざめていることに気がつくと、声のトーンを落として訊ねた。

「ちょっと……何が見えたの?」

 そこからはあっという間だった。母さんは郵便受けから部屋の中を確認すると、大家さんと救急車を呼んだ。救急車が到着するまでに合鍵で部屋を開けてもらう。中に入るとベランダに進二が倒れていた。進二は唇が真っ青になり、意識もない様子だった。俺は情けないことに、こわくてほとんど声も出さずに震えていた。母さんが俺の肩をさすりながら、俺に言い聞かせるように何度も言った。

「大丈夫、大丈夫だから……」

 よく考えたら、洗濯物を取り込み忘れるなんて進二らしくなかった。進二は大雑把だけど、やるべきことはきちんとやるやつだった。後から救急の人から聞いた話だが、進二はやはり洗濯物を取り込もうとしたらしかった。あの日の雨は激しかったので、ベランダの中にも雨が入っていたのだろう。洗濯物を干したりしまったりするときにいつも使っていた踏み台が雨で滑り、進二は転倒して頭を強打、そのまま気を失った可能性が高いとのことだった。二時間近く雨にさらされていたせいで、発見した時の進二の身体は冷え切っていた。


 進二の母親が到着したのは、救急車で病院に搬送されて、一時間くらい経った頃だった。待合い室で合流するなり、進二の母親は俺と母さんに何度も何度も頭を下げた。

「大変ご迷惑をおかけしました。何とお礼を言ったらいいか、本当にありがとうございます。春人くんが見つけてくれてなかったらと思うと……本当にありがとう。」

診察の結果、幸い進二は命に別状は無かったが、いまだ意識は戻らないままだった。病室では、進二の母親がベッドに静かに横たわる進二の手を握り、繰り返し声をかけていた。

「進二、ごめんね、お母さん進二をひとりにして、本当にごめんね。」

俺はその時、本気で泣いている大人を初めて見たと思った。


 進二の母親は意識が戻ったら連絡すると言ったけれど、入院してから一週間が経っても俺の家に連絡は無かった。進二の様子を聞きたくても、進二の母親はほとんど病院で過ごしているらしく、会うことすらできなかった。我慢できず、俺はお見舞いに行くことにした。

 病室に行くと、疲れ切った顔をした進二の母親が椅子に座っていた。

「こんにちは。」

声をかけると、進二の母親は俺を見て少し驚いたようだったが、待合室に移動して状況を説明してくれた。聞くと、進二はまだ意識が戻っていなかった。打ちどころが悪かったのかはっきりした原因は分からないけれど、あれからずっと意識が戻らず、いつ戻るかも分からないらしかった。

「春人くん、お見舞いに来てくれてありがとうね。」

最後に進二の母親はそう言って微笑んだが、俺はとてもやるせ無い気持ちになった。中学を卒業してから携帯を持つようになっていたので、目が覚めたらすぐに教えてほしいと、進二の母親と連絡先を交換して帰った。


 結局、それからしばらく連絡は無かった。一学期が始まり、進二と一緒に通うはずだった高校には一人で通った。教室にも購買にも昇降口にも進二はいない。中学まで毎日のように遊んでいたのに、こんなにも簡単に日常は変わるのだと思い知った。


 進二が倒れてから一ヶ月半が過ぎた頃、その日は唐突にやってきた。帰りのホームルームが終わり、携帯を見ると、進二の母親から意識が戻ったというメールが入っていた。

――ついに、ついに進二の目が覚めたんだ……!

正直その頃の俺は、もう目が覚めないんじゃないかという最悪の可能性も頭をよぎるようになっていた。だから、あまりの嬉しさに思わず叫んだ。

「よっしゃ!」

俺は学校を飛び出して、全速力で病院へ向かった。

 病院に着くと入口に母さんの姿があった。母さんも進二の母親から連絡をもらい、一足先に駆けつけていた。病院の一階にあるカフェに居ると言うので向かうと、そこには進二の母親が一人で座っていた。

「春人くん、久しぶりね。」

俺が席に着くのを待ってから、進二の母親はゆっくり話し始めた。

「進二は一昨日目が覚めたの。目覚めてから色々と検査があって、すぐには連絡できなくてごめんなさいね。」

「……そうですか、進二はどこですか?」

「ごめんね、面会はできないの。」

「え?」

「進二が人と会うことを嫌がっていて……」

「何が嫌なのか分かんねぇけど、見た目が変わってたって俺気にしないし。会わせて下さいよ。」

「春人くん、違うの……」

「とにかく会わせて下さいって!」

「春人くん、聞いて。……進二はね、記憶喪失なの。」

「……は?」

「倒れる前のことは記憶がないの。だから、春人くんのことも覚えてないわ。」

「……へぇ……記憶喪失……」

口に出しても現実味がなく、その言葉は全く俺の頭に入ってこなかった。俺がその言葉の受け入れを拒否しているかのようだった。母さんがテーブルの下で俺の手を強く握っていた。


 記憶喪失になった進二はかなり混乱し、面会を拒んでいるらしかった。医者も落ち着くまではそっとしておいた方が良いとの見解だそうで、俺は会うのを諦めた。その代わりせめて起きてる姿を見たいとお願いすると、進二の母親は病室を覗かせてくれた。進二にバレないようにちらっと見ると、ベッドの上には目を開けて上体を起こした進二がいた。進二はぼーっとした表情で窓の外を眺めていた。俺は声を出さずに泣いた。嬉しいのか悲しいのかは自分でも分からなかった。


 目が覚めて二週間後、進二は病院を退院し新潟に引っ越すことになった。新潟には進二の母親の実家があり、母親の強い意向で実家にいるおじいさんおばあさんと四人で暮らすのだという。進二を極力一人にしないため、そして田舎の穏やかな環境で進二を療養させるためだった。

 引っ越し当日、隣のアパートで引っ越し作業をする進二を俺は窓から眺めていた。結局病院にいる間、進二は面会を拒否し続けていたので一切会えないまま今日を迎えた。

――引っ越してしまえばもう一生会えないかもしれない。

そう思うと俺はどうしても最後に声をかけたくて、気づけば家を飛び出していた。進二はちょうど車に乗ろうとしていた。俺が近づくと、進二がこちらに気づき、俺らは目が合った。けれど、俺は声が出せなかった。

――あぁ……俺はバカだ……

進二の表情はひどく悲しげだった。恐らく進二は俺の様子から、俺がかつての知り合いだと気づいたのだろう。だけど自分は覚えていない。優しい進二は当然、罪悪感を覚えるだろう。

――俺は進二に、こんな顔をさせたかったんじゃないのに。

面会を拒んでいたのは、ただ混乱しているだけでは無かったのだと、その時やっと理解した。進二にとっても俺にとっても、会うべきじゃ無かったのだ。俺に気づいた進二の母親が俺に声をかけようとするのを無視し、一礼して俺はその場を立ち去った。後ろで車のエンジン音が聞こえ、進二を乗せた車が走り去る音がした。

 その日から、俺はいつも何か足りない気がして、満たされなかった。心に無数の穴が空いていて、取り込んでも取り込んでも、その穴からこぼれ落ちていくようだ。けれど、それでも俺は日常を過ごさなければならない。毎日高校に通って勉強し、友達と遊び、ご飯を食べ、風呂に入って寝る。それはひどく残酷だと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

日常は非日常を呼ぶ 荒野 夏 @summer-v

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ