第6話【異世界少年と煙草】

 煙管キセルを咥える柔らかな桜色の唇。


 清涼感のある匂いの煙がゆっくりと吐き出され、空中に解けて消えていく。

 真剣な光を宿した青い瞳が見つめるのは、無色透明なお湯が煮える大釜。必要な材料を全て投下してあり、あとは掻き混ぜながら呪文を唱えるだけの段階である。



「〈混ざれ〉〈混ざれ〉〈等しく〉〈混ざれ〉」



 あの性癖を容赦なく暴露する不思議な魔法薬の効果を打ち消す為、ユフィーリアは解除薬の調合に精を出していた。

 鼻血を大量に噴出して失血死する寸前で蘇生されたユフィーリアの元に、未だ性癖を暴露し続ける学院長のグローリアが駆け込んできたのだ。怒りと羞恥心で顔を真っ赤に染め、紫色の瞳を潤ませて「今すぐ解除薬を作れ!!」という意味を込めて「もっと虐められたい!!」と叫んだのだ。


 その性癖暴露を聞いたユフィーリアは、割と真剣な表情で「じゃあそのままでよくね?」などと発言していたが、涙目の学院長にぶん殴られて渋々と解除薬の調合に乗り出した次第である。



「はあー、面倒臭えな。今回は材料があるからいいけど」



 咥えた煙管を器用に口の端で揺らすユフィーリアは、呪文を唱える作業を止めて大釜の下で焚いていた火を消す。



「よし完成」


「出来たぁ?」


「おうよ」



 解除薬の完成を聞きつけたエドワードが、大量の試験管を用務員室に運び入れる。今回の被害者全員分の試験管らしい。学院長が「痛いのはあんまり好きじゃないからねちっこく焦らされるのがいいの」と少し弱めな被虐趣味であることを明かしながら置いて行ったものだ。

 ユフィーリアが指先をツイと空中に滑らせれば、エドワードが運び入れた試験管に次々と解除薬が詰め込まれていく。その手腕は慣れたもので、側で見学しているショウはまるで工場のようだと思った。


 被害者全員分の解除薬を試験管に詰め込んだユフィーリアは、



「エド、悪いけどこれグローリアに届けてきてくれ」


「えー、俺ちゃんだけぇ?」


「だってその方がいいだろ」



 ユフィーリアは不満げな様子のエドワードに詰め寄ると、



「『子供の姿になれ』ってハルから言われてんだろ。ちょっと時間を置けば忘れるって」


「あー、なるほどねぇ。ハルちゃんってお馬鹿だもんねぇ」



 狡いユフィーリアとエドワードは「シシシッ」と声を押し殺して笑っているが、側に控えるショウは間違いなく覚えているのであとでハルアに助言をしようと心に決める。


 大量の試験管を台車に乗せ、エドワードは学院長に解除薬を届けに出かけてしまった。ハルアとアイゼルネは購買部までお茶会用の茶葉を買いに出かけているので、用務員室に残ったのはショウとユフィーリアだけである。

 現在の状況に緊張しているのはショウだけで、ユフィーリアは欠伸をしながら愛用の煙管を咥えていた。ミントに似た清涼感のある香りが鼻孔をくすぐる。


 その煙管を燻らせる仕草や煙を吐き出す唇の、何と妖艶なことか。



(うう……どうしても見てしまう……)



 ショウは思わずユフィーリアから視線を逸らした。


 それまでは「仕草が格好いい」「似合っている」としか自分自身でも認識していなかったが、あの性癖を暴露する魔法薬のせいで自覚してしまったら大変だ。もう煙管を燻らせる姿がえっちなものに見えて仕方がない。

 いやいや、あれは彼女にとって必要なものなのだ。冷気が溜まりやすい体質であるユフィーリアは、身体から冷気を吸い上げる為に煙管を活用しているのだ。煙管で冷気を吸い上げなければ、たちまち身体が凍りついてしまう。


 だから、その、別にあれはえっちなものでも何でもないのだ。ただショウが一方的に悪いだけである。



「どうした、ショウ坊?」


「あ……」



 不思議そうに首を傾げるユフィーリアに顔を覗き込まれ、ショウの心臓がドキリと跳ねる。


 いつ見ても綺麗な顔だ。高級人形も鼻で笑えるほど整った顔立ちが間近に迫り、ゴクリと生唾を飲み込む。

 元の世界で見たどの女性よりも綺麗で強く、それで世界で1番優しい恋人だ。そんな彼女の顔が近くにあれば、緊張しない訳がない。


 ショウが慌てて「何でもない」と視線を逸らせば、



「そうかァ?」



 ユフィーリアは押し殺したように笑うと、



「ああ、そういやショウ坊はコッチの方が好きだったな?」



 彼女が取り出したものは、手のひら大の小さな箱だった。真っ黒な表面には銘柄のようなものが書かれており、すでに開封された痕跡がある。

 どこからどう見ても煙草の箱である。この異世界にも煙草があるのかと驚くが、問題はそこではない。


 ショウの性癖は煙管よりも煙草寄りである。喫煙者だった叔父にいくらか影響されているのだろうが、根性焼きをされるのだったら叔父ではなくユフィーリアにしてもらいたいという願望が魔法薬のせいで露わになってしまい以下略。



「えぁ、ユフィーリア……」


「何だよショウ坊、変な声を出して」



 ショウが悶々と考えている横で、ユフィーリアは意地の悪い笑みを浮かべながら煙草の箱を振る。

 箱から飛び出てきた煙草の吸い口を咥えると、指先に小さな炎を灯らせて煙草の火をつけた。魔法で煙草の火を灯すなど今までなかったので、思わず見入ってしまった。


 副流煙がショウの方へと飛んでいかないように配慮しているのか、ユフィーリアは顔を背けて「ふぅ」と息を吐く。それまでミントに似た清涼感のある匂いの煙が、嗅ぎ覚えのある煙草の匂いになる。



「吸うのは久々だけど、一応は煙草も嗜めるんだぜ」



 煙草の吸い口部分を噛み潰しながら、ユフィーリアは笑う。


 煙草を咥える仕草や煙草を挟む指先、煙草を吸う時の憂いを帯びた表情など全てがショウの性癖に突き刺さった。心臓を抉られた時のような衝撃が襲いかかる。

 喫煙者だった叔父の吸い方は汚かったと思う。汚れた灰皿には大量の煙草の吸い殻が押し潰されており、掃除をしないと怒って煙草の火をショウの腕や手のひらに押し付けてきた。その時の熱さは今でも思い出せるが、今はその熱さが恋しい。


 叔父にやられて嫌だったことを、ユフィーリアにやってほしいと矛盾した望みを持つ自分がここにいる。ああ何と愚かなのだろう。



「やべッ煙が溜まりすぎた。アイゼに説教される」



 それまで悠々と煙草を吹かしていたユフィーリアは「換気、換気っと」と言って用務員室の窓を開けた。

 部屋の中を漂っていた煙草の匂いが窓から飛び出していき、今の時期特有の爽やかな空気に溶け込んで消えてしまう。とても名残惜しいものを感じた。


 用務員室の隅に設置された長椅子ソファに腰掛けたユフィーリアは、



「煙草を吸ってる時の方が好きか?」


「えぁう」



 性癖を荒らされている真っ最中なショウは、ずっとユフィーリアを視線で追いかけていた事実に気づいて視線を逸らした。「別に見ていませんけど」的な雰囲気を装ってみたが、多分もう遅い。


 ショウの反応を楽しむようにユフィーリアは本棚から魔導書を取り出し、煙草を吸いながら頁を捲り始める。もう何度も繰り返し読んだ魔導書だ。わざとやっているのだろう。

 先程、ユフィーリア自身の性癖も荒らしたばかりだ。『やられたら数倍にしてやり返す』精神が根付いているユフィーリアなりのショウに対する仕返しなのだろう。



(あ――)



 そこでショウは気づいた。


 ユフィーリアが咥える煙草の灰が落ちそうになっているのだ。

 彼女はそれに気づいた素振りはなく、鼻歌混じりに魔導書の頁を捲り続ける。あのままでは大切な魔導書に落ちて火事の原因を作ってしまう。そうでなくても焦げ跡を作ればユフィーリアは悲しむことだろう。


 ショウはユフィーリアの隣に座ると、



「ユフィーリア」


「ん、どうしたショウ坊――」



 魔導書から顔を上げたユフィーリアに、ショウは両手を差し出した。



「ここに落としてくれ」


「え、何を?」


「煙草の灰だ」



 ショウに指摘されてようやく煙草の状態に気づいたユフィーリアは、



「いやいやショウ坊の手のひらに煙草の火を押し付けるとか、そんな拷問みたいなことをして溜まるか!?」


「あ」



 ユフィーリアは咥えていた煙草を、自分の手のひらで握り潰してしまった。じゅ、と煙草の火が消える音が微かに聞こえてくる。


 そんな、なんてことだ。だって煙草の火はどれほど小さくても熱いものだし、ショウもその熱さは身を持って知っている。それを握り潰すなど言語道断だ。

 それならいっそショウの手のひらに押し付けてくれた方がよかった。ユフィーリアの手のひらに火傷が残るぐらいなら、ショウの手のひらを灰皿の代わりにしてくれればよかったのに。


 火が消えた煙草をゴミ箱に投げ入れるユフィーリアは、



「慣れねえことはするモンじゃねえなァ」


「ユフィーリア……!!」


「おおおう!? ショウ坊!?」



 ショウはユフィーリアが煙草を握り潰した手を掴み、火傷の痕跡を確認する。長手袋で覆われているから分からないが、手のひらの中心は僅かに熱い。

 特にユフィーリアは体温が低いのだ。煙草の火を握り潰して消すなどすれば、酷い火傷が残ってしまう。最愛の恋人にそんな深い傷を負わせるなど、ショウには耐えられなかった。


 泣きそうな表情で手のひらを見つめるショウに何を思ったのか、ユフィーリアは「大丈夫だよ」と言う。



「ほら」


「…………」



 ユフィーリアは長手袋ドレスグローブを取り払い、証拠とばかりに手のひらを見せてきた。

 真っ白な手のひらには、火傷の跡すらない。綺麗に整えられた爪先から白魚のようにほっそりとした指先、それから柔らかな手のひらもまじまじと観察するが火傷は一切見当たらなかった。


 安堵の息を漏らすショウに、ユフィーリアは「な?」と長手袋を装着しながら言った。



「普段は外で吸うんだけど、室内で吸ってた姿がバレた時にはよくやったな」


「出来ればもうやらないでほしい」


「アタシには煙管があるから煙草自体あんまり吸う機会はねえよ。たまにエドの喫煙には付き合うけど」


「エドワードさんは喫煙者なのか?」


「アイツもそんなに吸ってねえけどな、まあ吸うよ」



 用務員の中で意外な喫煙者の話を聞き、ショウは素直に驚いた。

 嗅覚が優れているエドワードのことだから、てっきり煙草の匂いは心底嫌いかと思っていたのだ。そんな彼が喫煙者だったとは驚きである。


 ユフィーリアはいつもの煙管を咥えて、



「で、ショウ坊はどっちの方が好みだ?」


「え、えと……」



 ショウは少しだけ逡巡し、



「煙管も、煙草も、ユフィーリアに似合ってる。煙管はいつもの姿だし、煙草の時はちょっと特別に感じる」


「そっか」



 ユフィーリアはニッと笑うと、



「じゃあ、たまに吸うかな。吸わないだけで、味が嫌いな訳じゃねえし」


「その時は是非、俺の手のひらを灰皿に」


「ショウ坊、アタシに舌を噛み切って死ねって言ってんのか? そんなことをするぐらいならアタシは自分の手のひらを灰皿に使う」



 ――どうやらショウの欲望が完全に満たされることはないらしい。

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