ep6.抹茶とアイス③

「そういえばこのあいだ、廊下で狐先輩とすれ違ったら挨拶された」

 少し集中力が切れてきて、世間話のつもりで、手に持ったシャーペンを弄びながら僕はそう口にした。高森は取りかかっていた英語のプリントから顔を上げてじっと僕を見た。

「狐先輩って?」

 怪訝そうな顔つきになる。

 そこで、それが失言だったことに気がついた。うっかりしていた。あまりに心のなかでそう呼びすぎていてすっかり定着してしまっていたが、僕が勝手に呼んでいるだけであってそれは本名ではない。ひそかにそう呼んでいることを高森に話したこともなかったのだ。

「……バスケ部の、」

「ああ」

 僕が内心ひやひやしながら短くそう説明をすると、高森も誰のことかすぐに思い至ったようだ。何度か小さく頷いた。この説明だけで理解するあたり、やはり彼が狐に似ていると思うのは僕だけではないんじゃないだろうか。ほんの少し開き直ってそんなふうに思う。

 高森は僕の顔を見て苦笑する。

「裏でそんなふうに呼んでるって知られたら、もう挨拶してくれなくなっちゃうかもな。せっかく織部のこと覚えてくれたみたいなのに」

「せっかく、って言われてもな。また勧誘されるくらいなら、覚えてもらわなくてもいい」

 今後関わり合いになることはないだろうと思っていた手前、廊下で遭遇したときには驚いたし、挨拶されたのにはもっと驚いた。僕はまったく気がついていなかったのだが、あれ織部くんだよねこんにちは、と親しげな調子で声をかけられて顔を上げると糸目をさらに細くして微笑んでいる狐先輩が目の前にいた。

 特に何かそれ以上の会話を交わしたわけではない。僕がしどろもどろになっているうちに、じゃあまたね、と手を振って狐先輩はすぐ去っていった。

「勧誘っていうより、ただ織部のこと見かけたから声かけてくれただけなんじゃないか。あの日はおれたちしかいなかったし、先輩も覚えやすかったんだろうな。気のいい先輩じゃないか」

 僕の話を聞いて、高森はそう言った。それが何だか僕には意外に思えた。

「……意外だな。何となく高森は、あの先輩とは合わないんじゃないかっていう気がしてた」

「別にそんな敬遠する感じじゃないよ。いい先輩だと思う」

「まあ確かに悪い先輩ではなさそうだったけど」

 それはそのとおりだったので、僕も同意する。話しやすい先輩ではあった。

「なら、なおさらちゃんと名前で呼べよ」

「でも、先輩の名前ちゃんと覚えてないんだ。何だったっけ」

 今さらそれを佐宗に訊ねるのは気が引けるし、訊ねたところでバスケ部に入部するつもりはないのだからあまり意味がない。へたに部活に興味があると思われてもかなわない。

「おれも忘れた」

 高森が覚えているのならちょうどいいと思ったのだが、予想に反してそんな答えが返ってくる。清々しいほどの笑顔だった。

「何だよ。僕と大差ないじゃないか。どの口で、ちゃんと名前で呼べとか言ってたんだよ」

「確かに、そのとおりだな」

 あきれた声でそう言うと、高森はおかしそうにまた笑った。

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