ep2.ラズベリーリコッタマフィン④
鬱屈とした僕の気分と相反するように朗らかな天気だった。実に行楽日和だ。世の中の仲睦まじい家族はこんな日には喜色満面で揃ってどこかへ出掛けるのだろうが、僕は特に用事もなかったので自室のベッドで横になって読書の続きをしていた。
両親は揃っていたが、父親はリビングで気だるげにテレビを観ていて、母親は何か持ち帰った仕事の続きをしている様子だった。仕事用の眼鏡をかけてノートパソコンの画面を凝視していた。団欒する雰囲気でもなく、僕にしてみても取り立てて話す内容もなかったので、朝食を済ませたあと僕は早々に自室に籠もった。休みだからと外出せずにいられない人種の気が知れない。
文庫本のページをめくる。読み進めていた物語はすでに佳境だったが、何だか身が入らずにあまり内容が頭に入ってこない。目下の悩みの種は高森だった。どうやって連絡をしようか、そればかりが脳裏にちらつく。
本の内容がわからなくなってページを戻る。さっきからそんなことの繰り返しで、全然先に進まなかった。物語の同じ展開を何度もなぞっていると、ふいに横に置いていたスマホが振動した。新着メッセージを告げる。見ると、高森からだった。
僕は本を閉じてスマホを取り上げ、戸惑いながら画面をタップした。そこに表示されたメッセージを繰り返し読みなおす。何の変哲もない、短い文章。
『今って暇? 家?』
僕が送るまで送ってこないんじゃなかったのか。その疑問を呑みこんだまま、僕はそれに何ごともなかったかのように返信する。
『そうだけど』
文字を打って送信ボタンを押すと、僕のメッセージがあっさりと画面上に表示される。すぐに既読がついた。それから、ポコン、と高森からの新しいメッセージが表示される。
『じゃあ今から少し出てこられる? 駅まで』
何なんだいったい。
僕は戸惑いながら、それに了承の返信をした。高森から、両手を挙げて万歳をしているファンシーな猫のスタンプが送られてくる。こいつこういうの使うのか。僕も何かスタンプを返そうとして、思いなおして結局そのままメッセージ画面を閉じた。僕は微妙なバランスをした、お世辞にも可愛いとは言いがたいキャラクターの無料のスタンプしか持っていない。
出掛けることを両親に伝えるためリビングに出向く。部屋のなかを覗くと母親はまだ仕事が片付かないのか難しい顔をしてノートパソコンを覗きこんでいて、父親はいつの間にかテレビの音をBGMにソファで寝ていた。上下する腹の上でテレビのリモコンがぐらぐら揺れている。
出掛けてくると声をかけると、母親は睨みつけていたノートパソコンから顔を上げて僕を見た。かけた眼鏡のせいでいつもより少し老けて見える。
「え、なぁに」
そう言って眼鏡をはずした。僕が声をかけたことには気づいたが、何と言ったのかまでは聞こえなかったらしい。
「ちょっと出掛けてくる」
僕はもう一度そう繰り返した。
「出掛けるの」と母親は僕の言葉を反芻した。
「うん」
「わかった。いってらっしゃい。どこまで?」
「駅」
「そう。気をつけてね」
それから思いだしたように、昼ごはんはどうするのかと訊ねてくる。僕は少し考えてから、そう遅くはならないと思うと返した。
外に出ると陽射しが暖かく、歩いていると少し汗ばむくらいだった。こんな日にどこか遠くへ出掛けたら、やはりきっと楽しいのだろう。駅に向かう途中、よそゆきの装いをした親子連れや、中高生のグループとすれ違った。彼らはみな僕と違って一様に浮かれて見えた。
駅に着いて高森を探す。探すまでもなかった。改札のすぐ前の柱に凭れるようにして立ち、スマホを眺めているのをすぐに見つけた。ジーンズに無地のTシャツというシンプルな服装だったが、遠目からでもやはり高森は目立った。黒のショルダーバッグを斜めにかけている。僕はスマホに財布と定期券だけをジーンズのポケットに突っこんで出てきた。
僕が近づくと高森は顔を上げ、薄緑色の目を細めてにっと笑った。
「こっち」
何の説明もなく歩きだす。さっさと歩いていってしまうので、僕はしかたなくそれについていった。高森は改札には入らずに、そのまま駅の反対側へと抜けた。こちら側はマンションが多く立ち並ぶ住宅街だ。高森の家もこちら側のはずだ。駅前にある大きなショッピングモールは、僕はあまり利用したことがない。
駅を出てすぐの場所に何やら人だかりができていた。最後尾、と書かれたプレートを持った従業員らしき人が見える。僕は眉をひそめた。嫌な予感がした。
「もしかしてこれに並ぶのか?」
「そうだよ」
おずおずと訊ねると、高森は悪びれたふうもなく頷いた。
お一人様一個の限定品を買うための頭数にでもされたのか。高森はまたさっさと歩いていってしまい、そのまま最後尾につく。ちょいちょいと僕を手招きした。僕はいろいろと文句を言いたい気持ちを抑えて高森のあとを追うと、おとなしく一緒に列に並んだ。わけもわからないまま帰るのも癪だった。暖かい陽気と人いきれが混ざって気持ちが悪く、少し不快になる。人の多い場所は好きではない。
列の進みは遅かった。数センチずつじりじりとしか動かない。それでも五分ほど並んでいると、行列の先にあるものが僕の目にもようやく見えてきた。
「あれ、」
僕がそれが何であるかに気がつくと、高森はふっと笑った。
「この土日はここに来てるらしいよ」
マフィンの移動販売だ。そういえば最近は高森に連絡するほうに気をとられて、キッチンカーの目撃情報のチェックが疎かだった。ここ最近ずっと、僕は高森に振りまわされっぱなしだ。
それにしてもそうならそうと何ではっきり言わないんだ。僕の反応を楽しんでいるのか。意地が悪い。僕は無言で高森を睨む。高森は楽しそうに僕の顔を見返した。腹が立って、勢いをつけて高森の足を蹴る。いてっ、と小さく呻いて高森は僕から少し距離をとった。ほんの少し溜飲が下がる。高森は僕に蹴られた足をさすった。
「すぐ暴力に訴えるのよくないと思う」
うるさい。
ただこの先に何があるのかがわかったことで、僕の気持ちはずいぶんと穏やかになった。ごちゃごちゃとした列の待ち時間も苦痛ではない。
やがて僕たちの順番がまわってきた。
いらっしゃいませー、と店員に明るく挨拶される。僕は目の前のショーケースを覗きこんだ。オレンジピールやバナナチップ、抹茶生地にホイップとラムレーズンをトッピングしたものなど、とりどりのマフィンが並んでいる。ネット上で見ていた写真と同じだった。見た目に鮮やかなそれらを目の前にして気分が高揚する。高森も隣で興味深げにショーケースのなかのマフィンを眺めていた。
「へえ。ずいぶんいろいろな種類があるんだな」
感心したように独りごちている。
僕たちがマフィンを眺めているあいだ、店員はにこにことした笑みを終始絶やさずに僕たちの様子を見守っていた。
さんざん迷い、僕はラズベリーリコッタマフィンをひとつ購入した。マフィン生地にラズベリーとリコッタチーズをたっぷり混ぜこみました! と値札のポップに手書きで書かれている。手作り感満載だ。
「じゃあおれもそれにしよ」
そう言って高森も僕と同じものを購入した。店員が紙箱にひとつずつ入れて僕たちに渡してくれる。紙箱の蓋を留めているシールにはコック帽を被った熊がマフィンを食べている絵柄がプリントされていた。店のオリジナルのシールなのだろう。
「ありがとうございましたー」
店員の明るい声を背に僕と高森は列を離れた。僕はほくほくとした気持ちで手に持っていた紙箱を胸元に引き寄せた。
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