第3話
ある日、僕はいつものように学生会館にある漫画研究会のサークル部屋に足を運んだ。それは夏だった。キャンパス周りの、木が多く立ち並ぶ場所には至る所にセミの抜け殻が落ちていて、ジージーというセミの鳴き声は一帯を轟かせているといっても良い位だった。
その音色は部屋の中からでも聞こえて、その部屋のごった返した喧騒と混ざりあっているようでもあり、呼応しているようでもあった。
テニスサークルなんかよりずっと控えめだが、かといって他のお真面目な芸術系サークルよりは明らかに片付いていないような、この丁度いい粗雑感、それがたまらなく僕には心地の良いものだった。
部屋には様々な形の人間の生きる有様があった。ある時はグループ間での動きもあり、またある時はグループ内で全く別々に行動していたり、ただ一つ言えるのは、特にその部屋の総体としては特に一つの意味を形成することなく、ひしめき合っていた。
右奥の片隅ではわざわざ持ってきた碁盤やら碁石やらで囲碁をやりながら、大学生活の世間話に興じる者達がいた。
なかなかに可愛い女子大学生がそのすぐ近くで漫画を描き、テレビゲームをやっている者までいる。
しかし僕が実際その部屋で何をしていたかというと、漫画好きあるいはラノベ好きの友人に、本や漫画を借りることを口実として、しかも実相としてはその手のことをテーマとしてとりとめのない話に浸っていただけだった。その日の僕は伊民と御厨の長話を何ともなしに聞いていた。
「……闘争によってこれまで押し殺されていた『群衆』の価値がやがて剝き出しになる頃がくるだろう、その時に既存の社会は崩壊し、有機的連帯の発生とともに……」
「それは全然関係ない、御厨は黙っとけ」
「黙っとけって何だよ!」
「『下剋上』として立ち現れたその自己承認を巡る闘争は一つの極致を迎えてしまう。
『セカイ系』の勃興だ。
パートナー同士の愛を世界の危機に対する救済のテーマへと結びつけるというこの構図は当時の名作とされたライトノベルに見られたが、そういった……」
「しかしそんな救済だ何だといったって、相互に依存した独占的な愛によって生まれるものなんだろう? それはセカイよりも前に資本主義の独占に結び……」
「それは全然関係ない、御厨。お前は何でもいいから黙っとけ」
「だから黙っとけって何だよ!」
「とにかく、そういったセカイ系の構図も次第に廃れ始め、その反動として日常への眼差しへのベクトルの変換が行われる。
サブカルチャーに日常性を持ち込もうというその試みはセカイ系のマンネリ化を打破はしたかもしれないが、却って物語の狭溢さを持ち込むことにもなった」
「何を言ってるんだ伊民、僕は日常における労働の価値を……」
「御厨、それも全然関係ない。御厨は黙っとけ。僕はその狭くなったサブカルチャーに広さをもう一度紐づけするために何が必要かを考えてきていた」
「紐ならここにあるヨ~」
と、自らの靴紐をわざわざ解いて伊民に分けてあげたのは、やっぱり大学の亡霊たるコウノだった。
その余りにも間抜けな感じに御厨と伊民の二人とも笑ってしまって、この議論、いや言い合いも立ち消えになってしまった。それでしばらくすると全員がまた黙ってしまって、僕はその時、「御厨黙っとけ」と言ったことを伊民はさぞ後悔してることだろう、などと思った。
「伊民グループ長様、何か他にお話はないんですか?」
御厨はわざといやに調子づいておべっかを使うような言い回しでそう言った。
伊民も自分に呆れたのか、
「ああもういいよ、いいんだよもう、あんなのはもう、なんだ、もうくだらない話だよ。
それよりこんな駄弁ってないでなにか実践的なことをしなきゃ。僕たちにはサブカルチャーを論じていないで『実際に見る』ことが必要だよ」
「どこかに行くの?」
僕はようやく話すタイミングを得てそう言った。
「そういうことだよ」
この瞬間、一斉に仲間内全員が沸き立った。といえばいい話にも聞こえるが、単純に伊民の面倒くさい話に退屈していただけなのかもしれない。まあそれは良いのだが。
「よし、決めた。今度の日曜朝九時、秋葉原駅集合! 以上」
そう言うなり伊民は早急に帰り支度を終わらせもうドアへと向かおうとしている。
「……え、それだけかよ?」と御厨。
「まだ待ち合わせ場所も目的地も聞いてないんだけど……」
僕がそう言ってうじうじしているうちに、全員は慌てだして、
「伊民、駅のどこの改札で集合なんだよ!」
「何か準備するものはあるのかい」
「アキバ……メイド喫茶……」
などと各々で叫びながら、部屋を飛び出した伊民を止めに行ったのだった。
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