第10話
「一体何があったんですか?」
夜、辰巳の部屋を訪れた卯月は開口一番で彼に尋ねると既に料理を始めていた辰巳は一瞬固まった。
バイト終わりに幾つかの医療用品買ってから訪ねようとした卯月はいつもより部屋に行く時間が遅くなってしまうことを加味し、先に辰巳に到着が遅れる旨と先に料理を始めて欲しいと連絡を入れていたのだ。
彼の料理を監視しなければならない立場ではあるが自分の都合で彼の生活時間まで奪ってしまうのは申し訳ない上、これまで彼が見せてきた料理への真摯な態度からそこまで厳しい監視の目は必要ないと思ったからだ。
「……叔母さんから何も聞いてないのか?」
「ええ、先ほど電話越しに誰かをこっぴどく叱っているのは見ましたが」
卯月から白い目を向けられた辰巳は彼女から手渡された医療品の入った袋を受け取る。小さな声で「さんきゅ」と言いながら気まずそうに視線を逸らした。
弥生が叱っていたのは十中八九辰巳だったのだろう。
先日聞いた話では彼の保護者として学校へ伝わっているのは弥生だなので、きっと担任から弥生へ連絡が行ったのだろう。
「まあ、詳細までは分かりませんでしたが」
誠司と話した後、暫くして辰巳は保健室から戻ってきた。
その顔には大きなガーゼやら包帯やら絆創膏等治療の幾つも巻かれており、他の生徒達を再び驚かせた。
傷は酷くないと事前に誠司から聞いていた卯月はその有様に周囲の者より驚いた。
対して本人は何処吹く風といったように保健室で爆睡していたにも関わらずいつものようにうたた寝を決めていたのだが。その姿には誠司も苦笑していた。
夜になった今少しはガーゼ等、幾つかは取れたもののまだ治療の跡は残っており、見ていて痛々しいことこの上なかった。
辰巳は仕方なさそうに後頭部を掻くと卯月をいつものローテーブルに促す。
「座ってろ、もうすぐ出来る」
「ちょっと、話を逸らさないでください」
「飯が先だ」
不承不承席に着いた卯月の視線を背に辰巳は観念したように一つため息をついた。
~~~
夕食を終えた辰巳は
「朝のバイトが終って登校しようとした時によ、」
「朝にアルバイトしていたのですか!?」
思わず声を上げてしまった。
しかし、これまでの日々を思い返すと辰巳とは近所に住んでいながら先日のメイド服での訪問時まで顔を合わせた事が無かった。
特に鉢合わせしそうな登校時も一度としてその顔を見たことは無く、それどころか彼が遅刻しない時は卯月より先に教室にいた。
心の隅で奇妙に思っていたが朝にアルバイトをしていたとなるとこれまで登校時に顔を合わせなかったことも、卯月よりも先に学校にいた事も説明がつく。
「……まあな。で、バイト先出ようとした時怪しい動きをしてる奴見つけてな。気になって見張ってたら、案の定万引きしやがってさ」
「万引き!?」
「追いかけて捕まえようとしたんだけど……まあ、大人しく捕まってくれなくてさ。色々抵抗されてもみ合いになって……で、こうなったってわけ」
そう言って辰巳は自信の頭を指す。
そこにはまだ幾つものガーゼや包帯が巻かれておりその抵抗の激しさを物語っていた。
「それでも何とかして取り押さえて、バイト先の店長に連絡して、警察に引き渡すって事になった」
「そんなことがあったんですか……」
卯月は自分を恥じた。
彼が危険を顧みず万引き犯を捕まえたのに、その風体だけで他の者と同じように「喧嘩をしてきた」と思ってしまった事に。
辰巳の身に起こったことは彼自身が語らないが為にその真実を卯月が知ることが無いのは当然だが、ここでの交流で知った彼が学校で言われているような人物では無いことを、人に暴力を振るうような事をしない人と知っているにも関わらず彼を疑ってしまった。
卯月はそんな己が堪らなく腹立たしかった。
「それで、どうして怪我をしたまま学校に?」
「あー、それなんだが……」
途端に渋い顔になり歯切れが悪くなる辰巳。
これまでも口ごもりながらではあったのだが、今はそれ以上だ。
しかし、再び観念したように口を開いた。
「……万引き犯捕まえて店に戻ったらもうSHRの時間で、警察待ってたら1限に遅れるって思って……店長に犯人任せて学校行った……」
「はあ!?あれだけの怪我をして手当より遅刻の方を優先したんですか!?」
大声を上げる卯月に辰巳は両手で耳を塞いで顔を顰める。
「そういうときは学校に事情を説明すれば多少の遅刻ぐらい許して貰えますのに……」
「あん時はそこまで考えが至らなかったんだよ」
「何故ですか……?」
呆れを込めたため息をつく卯月。
「……ね、寝不足で……」
その視線に言いづらそうにしながらも渋々辰巳は答えた。
「寝不足?」
「バイトの時間が早くてな。……朝は基本的に寝不足であんまり頭が回らなねえんだ」
そう言ってる間に欠伸をする辰巳。
そう言えば辰巳は朝は不機嫌なのに夕方や夜は割としっかりしている。
「もしかして、朝いつも不機嫌そうにしてるのって……」
「……寝ないように目に力入れたり……あと寝不足でイライラしてた」
「偶に制服汚したり、怪我して学校きてたのは喧嘩してきたとか無く?」
「喧嘩はしねえよ。手怪我したら飯作れなくなるだろ。アレはまあ……バイトの疲れと寝不足で電柱とか……色んな所にぶつかったり……あとコケたりした」
辰巳は恥ずかしそうにそっぽを向く。
卯月は大きな溜息ととも脱力感と確かな安堵を吐き出した。
彼が理不尽な暴力を振るっているわけではないという安堵と想像もしなかった抜けた理由が彼女の中で張りつめていた何かを放出させる。
「『御山辰巳』は喧嘩っ早く、授業も真面目に聞かない不良生徒」というのは卯月達の学校に通っている者達にとってある意味常識であった。
しかし、その常識は思った以上に間抜けで、その見た目から生じる誤解の上に形成されていた。
本当の彼は料理に一生懸命で、日々のアルバイトに苦心する一人の男子だったのだ。
しかし、それと同時に自分の胸の中にぢくりと鈍い痛みが走った。
気が付いたのだ。
卯月もまた辰巳を外見で判断しようとした者達と同じだったことに。
辰巳の人柄は他の人達より知っていた筈なのに。
「……すまん」
「ちょ、何なんですか、いきなり!?」
突然深々と頭を下げた辰巳に卯月は驚く。
「いや、これまで寝不足でイライラしてたせいでお前の注意を受け取らなかったからさ……」
確かに以前は真面目に授業を受けない辰巳にほぼ毎日のように注意していたが、彼の授業態度は卯月の秘密を知った時から日ごとに改善している。
今では授業中にノートをとったり、教師に当てられれば答える等少しずつ授業に参加するようになっていた。
そんな辰巳の変わりようには教師陣も目を丸くしており、めっきり注意することの減った今ではそんな日常すら遠い昔に感じるほどだった。
「これからは……まあ、お前に注意されないくらいには改めるよ」
「いや、他の人にも注意されないようにしてくださいよ」
思わずツッコミを入れてしまった。
「辰巳は乾いている」と根津川はそう言ったが卯月はどちらかというと「変に潔い」という印象を感じる。
自分の非を隠さず素直に謝罪できるのは人としては美点だろうがどこかアッサリし過ぎている様に感じた。
何というか自分自身の感情を他人事のような、どこか冷めたようにみているきらいがある。
そっぽを向きつつ「前向きに善処する方向で検討する」と言う辰巳に卯月は何度目かの呆れのため息をつく。
「全く、そんなにイライラするなんていつも何時に起きてるんですか?」
「……4時」
小さい声で答える辰巳。
「4時!?なんでそんな朝早くにアルバイトを!?」
「朝の方が時給が良いんだよ」
バツの悪そうに答える辰巳。
「それなら放課後のアルバイトにした方が」
「放課後もやってるよ」
「放課後も!?もしかして、晩ご飯が夜の8時半なのって……」
「バイト終わるのが8時だからよ」
「あなたバカですか!?にアルバイト詰め込んだせいで授業も禄に受けないんだったら何のために学校に来てるんですか!?」
思わず声を荒げてしまう。
しかし、学業が本分の学生にとってアルバイトでその本分が全うできないのでは学校に通ってる意味が無い。
しかし、
「……わかってるよ。ンなこたあ」
一瞬、辰巳の目に
いつもと違い体温が奪われたような冷えた声に思わず声が出せなかった。
しかし、辰巳が顔を上げたときにはいつもの不遜な表情に戻っていた。
「でも、最近ようやくこの生活にも慣れてきたからよ、これからはちゃんと受ける」
雰囲気が悪くなったのを感じたのか、流れを変えるようにあっけらかんと言い放つ辰巳。
「そんなにお忙しいのでしたら、お夕食は無理に作っていただかなくても……」
「そこは気にすんな。飯作るのなんてバイトに比べたら大した労力じゃねえよ」
「そんな……」
卯月は疑問だった。
何故辰巳は睡眠時間を削ってまでアルバイトをするのだろうか。
単に『生活のため』と考えればそこまでなのだろう。
彼の住居からも彼の経済状況が良いものでは無いのは明らかだ。
だが、弥生の古い知人である彼の親への信頼をみるに、高校進学と共に一人暮らしを始める息子に経済援助をしないような狭量な人物とはどうしても思えない。
ならば何故、彼はここまで身を粉にして働くのだろう。
その疑問が喉元まで出かかり――、
「あの、――」
「ん?」
「……いえ、なんでもありません」
結局声になることはなかった。
この疑問はきっと彼の心の深い部分に繋がっているのだろう。
もしかしたらソレが辰巳の『乾き』に、他人と深く関わろうとしない部分に繋がっているのかもしれない。
その人の根幹に関わる部分へは安易に踏み込んではいけないし、踏み込んで欲しくは無い。
卯月にもそういう部分はある。
だが、辰巳は卯月の深い部分に触れず、卯月を慰める言葉をくれた。
なんで辰巳がそのようなことを言ったのかは分からないが今でもあの言葉を思い返すと恥ずかしさと同時に少し心が軽くなる。
なのに卯月は彼になんと言えばいいのか言葉が出てこない。
卯月はそんな自分が歯がゆかった。
「ところで、お替わりはいらんのか?」
ハッとする。
どうやら考え込んだせいでいつもより箸が進んでいなかったようだ。
首縦に振り皿を差し出す。
台所に立つ辰巳の背中を見やる。
その背はこれまでと変らず広く大きいはずなのに、何だか今日はいつもと違って見えた。
(何故こんな無茶なことをしているのでしょう。何か力になれることは……)
そこまで思って卯月はハッとする。
ほんの少し前まで卯月にとって辰巳は不真面目なクラスメイトで有り、同時に自分の秘密を知る隣人。
この上なく厄介な存在だったはずなのに、いつの間にか彼の身を案じ、力になりたいとさえ思っている。
その変化に卯月自身がとても驚きを感じた。
しかし、その変化は思ったより不快なものでは無かった。
「あの、」
「なんだよ」
「……手伝います」
「え?」
「明日からは、私も……お料理手伝います。私に出来ることがあれば言ってください!」
彼が何を抱えているのかは分からない。
自分には何が出来るのか分からない。
この申し出はきっと辰巳が抱えるモノの何の力にもならないだろう。
それでも卯月は辰巳のために何かしてあげたかった。
見て見ぬ振りはどうしても出来なかったのだ。
その言葉に目を見開いた辰巳はそっぽを向きながらも少し頬を染め「おう」とだけ返したのだった。
~~~
その後、宣言通りに洗い物に向かいながら卯月は物思いに耽っていた。
(寧ろ、謝るべきは私の方なのに)
先ほどかつての行いを謝罪した辰巳が頭を埋めつくしていた。
彼の身に起きたことは現代を生きる
しかし、彼の人となりは分かっていたはずなのに信じ切れず、その見た目で判断してしまった。
そんな自分の浅はかさが嫌になった。
頭を下げる彼に一瞬、謝罪の言葉が喉まで出かかったが、すんでの所で飲み込んだ。
きっとこの謝罪は彼のためでは無く、自分の罪悪感や嫌悪感を晴らしたいがための身勝手なものだからだ。
ならば、自分はどうすれば良いのか。
卯月は洗い物の手を少し止め、一つ深呼吸する。
(そんなの、決まってる。今度は信じる。強く)
弱い自分の疑念で生まれた感情なら、今度は強く信じよう。
言葉で謝罪して終わりにするのでは無く、辰巳のように行動で示そう。
一人そう誓った卯月はさっきより少しだけスポンジを掴む手に力を込める。
古びたシンクの排水口には洗い流された汚れが流れ込んでいった。
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