第9話
それが起こったのは翌朝のことだった。
その日は定期的に行われる職員会議のため担任不在のまま行われていたSHR中に起こった。
「竹寅さんどうしたの?具合悪いの?」
「え、いいえ。なんでもありませんよ」
近くの席の女子の言葉に思わずドキッとしてしまう。
どうやら顔に出てしまったようだ。
日直のやる気のないSHRの進行に徐々に混沌としつつある教室内。
そろそろ、注意するべきかと思っていた卯月は隣の席の女生徒から声をかけられタイミングを逸してしまう。
いつもの笑顔に切り替えて対応すると「なんだ~よかった」と返してくれた。
その事にホッとしながら辰巳の席に目を向ける。そこにはSHRがもうすぐで終わろうとしているのに未だに空。
辰巳は遅刻していたのだ。
(最近は授業態度も良くなってたのに……)
辰巳の遅刻など他の者から見れば特別なことではない。
だが、プライベートでの交流や「善処する」と言う言葉通りに学校での態度を徐々に改めるようになってきた辰巳。
それは他の者から見れば気にもとめないほどの変化であった。だが、彼の素の部分を間近で見て、少しずつ印象を改めようとしていた卯月にとってこの無断遅刻は少ないくないショックだった。
人の心根はそう簡単に変わらないのだろうか、と残念なような悔しいような思いを抱く。
担任のいないSHRの終わりまで秒読みとなった時計を見て、それでも今か今かと彼の登校を待ち望んでいたその時、教室後方の扉が勢いよく開かれた。
特徴的な金色の髪を紅に染め、学生服をドロドロに汚した辰巳がそこ立っていた。
目や口に大きな痣、おまけに額から血を流しておりその金髪を一部赤く染めていた。
何かから逃げてきたのか、肩で息をする辰巳の様相に教室の面々が一気にどよめき出した。
「ええ!?何、何なの!?」
「喧嘩か!?遂に御山の奴どっかの学校とやったのか!?」
「やだ、怖い……」
辰巳への恐怖と嫌悪感に溢れるクラスメイト。
卯月の心中も動揺で満たされていた。
見直した、と思っていたのもただの気の迷いだったのだろうか。
だが、そんな周囲とは裏腹に彼の有様に驚いた誠司が一目散に駆け寄っていくのが見えた。
「た、辰巳君!?大丈夫なの!?」
「……んあ?おう、誠司か。もう一限始まっちまったか?」
「1限て、それどころじゃないでしょ!頭から血出てるんだよ!?」
「血?マジで?……あ、本当だ」
他の者達が辰巳を恐れる中、迷い無く彼を心配する誠司。
彼は辰巳が喧嘩をしてきたなど微塵も思っていない。
ただ、一人の人間として、友人として、怪我をした辰巳を心の底から心配しているのだ。
その姿に卯月もハッとなる。
今考えるべきは、思うべきは彼がどんな人物で何をしてきたかでは無いのだから。
「皆さん、静かにしてください。他のクラスもまだHRの時間ですよ」
動揺を押さえ込んだ卯月は一先ずクラス委員であることから、波立つ生徒達に指示を出す。
本来であれば担任の指示に従うところだが未だ来る気配は無い。
保健委員に辰巳を保健室に連れて行って貰うよう頼む。
「保健委員の方、御山君を保健室まで連れて行って貰えませんか?」
「え、ええええええ!?無理無理無理!?」
しかし、彼に怯えきった保健委員の女子の耳には届かず首を左右に激しく振り拒否を示す。
仕方なく次の手に移る。
「根津川君、すみませんが御山君を保健室まで連れて行ってくれませんか?」
「わかった!ほら行くよ」
このクラスで唯一彼と仲の良く、今も辰巳を心配している誠司に保健室に連れて行って貰うよう頼めば、二つ返事で快諾してくれた。
本当なら自分が連れて行って直接事情を問いただしたいが、自分達二人が関わるところを周りに見せてはいけないという言葉を思い出しぐっと堪えた。
誠司は騒動の渦中でありながらどこかボーッとしてイマイチ状況を飲み込めていない様な辰巳の手を取って引き摺るように教室を出ていった。
誠司は小さいながら意外と力のあるのだなと、密かに驚く卯月だった。
~~~
後に職員会議が終わり戻ってきた担任に事の次第を伝えるとそのまま保健室に直行していった。
1限の授業は担任の授業と言うこともあってそのまま自習。
教室内は突然の
卯月も自習の為に取り出した問題集を解きながらもその一方で辰巳の事を考えていた。
彼に一体何があったのだろうか。
昨日は慰めるようなこと言っていたのに。
やはり、根は粗暴な人だったのだろうか。
答えの出ない問いが何度も心の中を巡る。
ふと気が付けば問題集が全く進んでいなかった。
(彼の事が気になって勉強が手に着かないなんて)
一旦気持ちを整理するため顔でも洗ってこようかと教室を出て階段に付近のお手洗いに向かっていた時だった。
階段したから昇ってきた誠司とばったり出くわしたのは。
「根津川君」
「あ、竹寅さん」
誠司のいつもの朗らかな笑顔で返す。
「御山君はどうでしたか?」
「大きい怪我はないみたい。頭の怪我も傷は浅いから大人しくしてれば治るってさ」
「そうですか……。良かった……」
「それより、保健室着くなり突然グースカ寝始めてさ、お陰でウチの先生が『話聞けないから戻れない』って嘆いてたよ」
「それはまた……」
「全然起きないから手当は問題なく出来たけどね」と苦笑いする誠司に卯月も同じ苦笑いを浮かべる。
しかし、彼に何があったのか、それが何も分からなかったことに内心で落胆していた。
卯月の心は今も揺れている。
それが心配から来るのかそれともこれまで改めてきた印象を裏切られた事への憤りなのか卯月自身にも分からなかった。
ただ、今はこの胸の揺らぎを何とか沈めたかった。その鍵が欲しかった。
だが、望む情報は得られなかった卯月は根津川に
「あの、根津川君。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「竹寅さんが僕にかい。へえ、珍しいね。なんだい、聞きたいことって?」
「それは……、御山君はどんな人なのですか?」
自分は何を聞いているのか。
一緒に過ごした時間ならきっと誠司より長いだろうに。
それでも、今彼に対して揺れる気持ちがどうしようも無くて、を何とかしたくて、聞いてみたくなった。
辰巳と同性で有る彼は一体辰巳をどう思っているのかと。
その問いに対して誠司は「うーん」と唸ると口を開いた。
「何というか悪い人では無いってかんじかな?」
思った以上に抽象的な答えに卯月は肩透かしを食った気分になった。
他者から恐れられる辰巳とこの学校で唯一親しくしている彼ならば、辰巳への確信的な理解をしているものだと思ったのだが。
「どういうことですか?」
「個人的な感覚なんだけど、悪い人特有の陰湿さ、みたいな雰囲気や……匂い?『湿気』みたいなものを感じないんだよね。それとは真逆のカラッカラの砂地みたいに乾いてて何にも臭わない、周りに対して何も思ってないないって感じ……とでも言えばいいのかな」
「乾いていて、何も考えていない、匂いですか……」
卯月もよく周囲の状況を把握するのに耳をそばだてているので彼の言わんとしていることは何となく分かる。
他人に対して害意や悪意をもって何かしょうとする際、「あ、コイツこれから良からぬ事をするな」という『予感』を感じる時がある。
その『予感』の感じ方は人それぞれだが卯月は周囲の音から、彼の場合は匂いのような感覚で察知するのだろう。
誠司の言葉を噛みしめて辰巳の行動を思い返せば確かに思い当たる節があった。
これまで彼はどれだけ周りが注意しようとも聞く耳を持たず不真面目な態度を貫いていたのも、見ようによっては周りの人からどう思われようと構わない、周囲への無関心の現れだったように思う。
そして、卯月も自信の秘密を知られ、時間を共にするようになっても何かを要求するような事も脅かすこともしなかった。
もしかしたら何か良からぬ事を要求されるかもと内心恐れていた卯月は随分拍子抜けしたものだ。
その他にも弥生に対しても何かあったらいつでも頼るよう言っていたのに以前、気まぐれに店に来た時を除けば全く関わっていない様だった。
そう考えると辰巳が周りに対して無関心だという誠司の言葉も一理ある。
そして、日常的に同じ空間にいる周囲へ全く興味が無い人物が、より関わりの薄い他校の者に手を上げるなどあるはずは無い。
そう思うと卯月の張り詰めていた胸の内が少しずつ緩んでいく。
「まあ、ドライというよりも単に集団が苦手なんだと思うよ。クラスにいるときは静かだけど、お昼食べるときとか二人の時はそれなりに話すし、たまにお弁当交換したり、お菓子わけてくれるし」
集団が苦手。
確かに卯月と二人の時もそれなりに話す。
しかし、少し疑問が残る。
辰巳の部屋に初めて行ったときは、お腹が空いている卯月にお握りと肉じゃがをくれた。
2度目の訪問をしたとき辰巳が卯月のことを案じてアルバイトを辞めるよう言ってきた。
それ以外にも、一人で作業する卯月をなんの得も無いのに手伝ってくれたり、気落ちする卯月を励ましたりしてくれた。
単に彼がドライで集団が苦手な人物かと言われると卯月には少し疑問だった。
(何だか本当に色々良くしてもらってばかりですね……)
思い返せば食事も、気遣いも、彼には色んなものをもらってばかりだった。
気付くと卯月の心音は少し早く、暖かいものになっていた。
「竹寅さんも辰巳君が気になる?」
「へえ!?」
自分の心を見透かされたかと思い変な声が出てしまった。
しかし、誠司からはそんな雰囲気は見て取れない。
純粋に疑問に思ったから聞いただけのようだ。
「いや、まあ、あんな怪我をしていたので容態とかは気になりますし、それに最近授業態度も前よりマシになったみたいですし……」
「あはは、そうだね机でガン寝じゃなくて、うたた寝になったのは確かにマシになったと言えるね」
誠司の毒舌に思わず苦笑を浮かべてしまう。
「でも、これまで何言っても変わらなかった辰巳君がほんのちょっとでも変わったって事は本人に何かしらの変化でもあったのかもね」
「根津川君も知らないのですか?」
「僕だって辰巳君の全部を知ってるわけでも無いさ。知り合ったのだって高校入ってからだし」
「そうだったのですか!?」
と、そう言ったところで思い出した。
辰巳はこの春卯月と同じく高校入学と共にこの地区に引っ越してきたのだ。
知り合いなどいるはずも無い。
「僕を何だと思ったのさ。まあそんなに仲良く見えたのなら嬉しいけどね」
根津川は照れくさそうに笑う。
「まあ、何はともあれ辰巳君は皆が思う程酷い人じゃ無いってことは確かだよ。なんたってこんなチビな僕を見捨てないで一緒に学校までの道を探して、さ迷ってたくれたんだから!」
「え?」
「僕、そういう人を見る目だけには自信あるんだ」
そう言うと卯月の横を通り教室に向かっていった。
「悪い人じゃ無い」根津川の主観のこもった印象だったが何故だか心の底にストンと落ちる。
それに気が付いたときはもう卯月の心は揺れていなかった。
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