第7話
それからも辰巳の家で晩ご飯を食べる卯月の日常は続いた。
流水のように迷い無く行われる辰巳の調理と出される料理の質の高さ、豊富な品数にバランスの良い食事の数々は卯月の胃袋を十二分に満足させてくれた。
そして、これまで学校で見せてきた不真面目な辰巳とは真逆の料理への真摯な姿勢を目の当たりにする度、卯月が懸念した様な事が起こる気配は微塵もなかった。
そんなある日、放課後の教室で卯月はひとりプリントの仕分けと、それをホチキスで束ねる作業していた。
何故そんなことをしているのかと言うと、その日最後の授業であったLHRの内容を学級ノートに纏めていたところ、大量のプリントを持った担任がやって来たのだった。
なんでも、月末に行われるオリエンテーションのプリントなのだが、枚数が多い上に教務室でやっていると他の先生から別の仕事を振られたりすることがある為、教室にやって来たと言う。
卯月達のクラスの担任はまだ年若い女性であった。
熱心に生徒を指導し、自らも精進を怠らない姿勢が評価され、クラス担任を任されたと言う。
彼女も担任という役職に責任を持って臨んでいるが、その忙しさにまだ慣れておらず、日頃から常に忙しそうに動き回っているのを卯月はよく知っていた。
そんな彼女の頑張りの一助になりたい、そう思った卯月は丁度書いていた学級ノートも書き終わるタイミングだった事もあって作業の代行を申し出たのだった。
最初は驚いて、拒否していた担任だったが「自分なら手が空いてる」「先生には他にもやることがあるでしょう。任せてください」と卯月に押し負ける形で任せることになり現在に至る。
担任は最後に「ちゃんと下校時間までに帰るように」「無理に全部やろうとしなくても大丈夫だから」と念を押し教室を出ていった。
(本当に、すごい量……)
仕分けをしていた卯月は改めてプリントの山に目を向けるとその量に苦笑い起こりそうになった。
今纏めているプリントはオリエンテーションのしおりになる物である。
オリエンテーションは一泊二日の日程ではあるものの、それがクラス40名分となれば相当な量だった。
これを本来の教職の合間にしなければならないのだから、その苦労を考えると担任の彼女に対して頭が下がる思いだった。
作業を始めて30分が経った現在、進捗はおよそ3割ほどだった。
最終下校時刻まで残りあと30分ほど。思った以上に進みが遅い。
できたしおりの数を見て卯月は内心焦りを覚えていた。
このペースでは間違いなく終わらない。
担任からは「無理しなくて良い」と言われている。
だが、卯月はその言葉に甘えるつもりは無かった。
自分がやると、できると言った以上なんとしても終わらせたかった。
何より、自分に任せてくれた担任の気持ちを裏切りたく無かった。
(早くしないと……)
増していく焦燥を胸に抱えた卯月は、ペースを上げようとプリントに手を伸ばす。
だが、焦りからか、狙いがぶれた手はプリントの山の登場ではなく中腹にぶつかり、紙の雪崩を引き起こした。
「あ!」
やってしまった。
ただでさえ時間が差し迫っているのにこれでは更に時間を食ってしまうではないか。
どうしよう。
このままでは間に合わない。
どうしよう。
自分から言い出したことなのに。
卯月の鼓動が早くなり、全身から嫌な汗が噴き出す。
焦りがさっきまで快調に回していた頭の回転に歯止めを掛け、脳内を満たしていく。
それでも止まっているわけにもいかず、床に散らばるプリント達を拾い集める。
その手先はいつの間にか震え、呼吸も荒くなっていく。
それでも何とか床に広がる紙を一枚一枚拾い集める。
その時、ガラッ、と教室の扉が開かれる音が聞こえた。
(もう先生が!?)
反射的に顔を上げると、ガン!という鈍い音と共に頭頂部に激痛が走った。
「い……っったあぁ……!!?」
何とか絶叫を堪える。
視線を上げるとそこには机の板裏が。
どうやら他の机に頭をぶつけてしまったらしい。
散らばったプリントは周りの机の下にも広がっていた為、それを拾おうとして机の下に潜り込みそのまま勢いよく顔を上げたのが原因だった。
周りに注意を払えなかった情けなさと激痛が卯月の脳内にセットで詰め込まれ更に混沌を加速させる。
来るのが早すぎる。
時間は少ないとはいえまだ20数分はあった。
だが、向こうの仕事の進捗次第ではこちらより早く終わることも十分考えられることだ。
ならば、もっと早く作業を終わらせて担任を待っているべきだったのではないか。
ならば何でもっと早く、効率よく、作業を進められなかったのか。
その方法はきっとあったのに何で思い浮かばなかったのか。
『竹寅卯月』にはきっとそれが出来たはず。
『学園の天女』と言われる自分にはこれくらい出来て当然の筈なのに。
なのに。
なのに何故出来なかったのか。
どうして。
どうして。
どうして。
焦り。
羞恥。
痛み。
そして、後悔。
様々なもので混沌と化した卯月の頭の中には担任が言っていた「無理に全部やろうとしなくても大丈夫」と言う言葉はとっくに消え失せてしまう程、まともに機能しなくなっていた。
開かれた扉からこちらに近づく足音が聞こえる。
床に這いつくばったまま自然とプリントを拾う手も止まる。
こんな見窄らしい姿、誰かに見られたらもう『学園の天女様』の評判は一気に地に落ちるんだろうな、と卯月は機能しなくなった頭の片隅で思考した。
足音は卯月の目の前で止まった。
(ああ、見られた)
惨め。
今の自らを表現したらその一言だろう。
その思いで一杯になった卯月は顔を上げてその人物を確認する気力すら起きない。
ただひたすらに下を向き続ける。
視界を閉じる気力すら湧かないまま。
その時、卯月の視界に手が入り込んできた。
長く、少し荒れて、ゴツゴツした手が。
手は俯いて教室の床を見続ける卯月視界に広がったままのプリントを拾い集めていく。
「……何ぼーっとしてんだ?」
その声にハッと顔を上げる。
最近よく聞くようになった低めの男子の声。
視界には鮮やかな金色の頭髪に、鋭い片目。
しゃがんでいるのに、高すぎる身長のせいで少し見上げる形になってしまうその人物の名は、
「御山……くん?」
『学園の独眼竜』こと『御山辰巳』だった。
辰巳は散らばったプリントを手際よく集め、種類毎に整えると卯月に差し出した。
「ほらよ、竹寅」
「……え?あ、ありがとうございます」
頭の中が混沌としていた事もあり、卯月は一瞬答えるのが遅れてしまうも、なんとか返事をする。
「おい、大丈夫か?さっきすげー音したけど」
「だ、大丈夫!大丈夫です!」
「そうか、なら良いけど」
「それより、あなたはこんな時間まで何してるんですか?」
「……小テストの点数で説教くらってた」
言いずらそうに目をそらす辰巳に、卯月はジト目を向ける。
最近の辰巳は授業態度が良くなったとはいえ、基本授業を寝ているのは変わらず。
であれば成績のほうは語るべくもない。
「じゃあそういうお前は何やってたんだよ」
その言葉にサッと身体が冷える。
あの様を見られた。
それもよりによってこの人に。
先ほどは呆然としていたため認識できなかった事実を時間差で認識しはじめた卯月は嫌な汗が噴き出すような感覚に襲われた。
「ぷ、プリントを纏めるお仕事……先生のお仕事だったのですが、忙しそうだったので私が引き受けたんです」
「ふーん……、床に紙ばらまいて、項垂れてか?」
「あ、あれは……その、休憩していて……」
「ほーお……」
辰巳の眉間に深い皺が刻まれる。
その鋭い視線に思わず卯月は顔を逸らしてしまった。
我ながら苦しい言い訳なのはわかっているが、さっきの混乱のせいでこれ以上の上手い言葉が出てこなかったのだ。
羞恥と恐怖から手が震える。
それを隠そうと、卯月は手を身体の後ろに回した。
(またこの人に見られてしまった)
何故ここ最近、それも、よりによって調子を崩したタイミングでこの人に出くわすのだろうか。
卯月は自分の運命を呪いたくなった。
そして、これからかけられるであろう言葉に耐えられるように強く目を閉じていると、
「……まあ、なんでも良いけどさ。ほら」
小さなため息の音が聞こえた。
「え?」
それと共に卯月がぎゅっと引き結んだ目を恐る恐る開く。
その視界には自らの手を差し出す辰巳の姿が入ってきた。
「どうした、立てるか?」
「え、ええ……大丈夫です」
少しふらつきながらも辰巳の手を借りず卯月は立ち上がった。
「そっか、ならさっさと終わらそう」
「終わらそうって、何を?」
「何って、プリント纏めだよ。もうすぐ最終下校時間だし手伝うって言ってんだよ」
「え!?」
突然のことに思わず声を上げてしまう。
プライベートの方で関わりが出来たとはいえ、学校での関係に変化は無い辰巳と卯月。
辰巳の授業態度は改善したとはいえそれ以外は相変わらず険しい顔をしており、性根の方はあまり変化が無いのではと思っていた。
その為に意外な申し出に驚いてしまった。
「で、ですが……」
「この後店の手伝いするんだろ?なら二人でやった方が早い」
「そうですけど……」
「なんだよ。またぞろ俺が誰かに言いふらすんじゃねーかって思ってんのか?別にしねーよ、そんな下らねえこと」
「い、いえ。そういうことでは無くて……」
卯月の胸は早鐘を打っていた。
辰巳との交流で彼がそういったことをしないのはなんとなく理解しているし、申し出もありがたい。
ありがたい、のだが。
その先の言葉が出てこなかった。
喉がひりつき、じっとりとした気持ちの悪い汗が出る。
怖い。
辰巳がでは無く、言いようのない何かへの恐れが卯月の身体を締め付けていた。
「なあ、竹寅」
辰巳の言葉に思わず身が跳ねてしまう。
反射的に何かに耐えるように身を固くしていると、
「こういう時は『お願いします』って言えば良いんだよ」
これまで聞いたことの無い優しい辰巳の声が降ってきた。
「え……」
「まあ、自分からやるって言った手前、他人の手を借りずらいのはわかるけどよ。別に元からお前がやらなきゃいけないことじゃないんなら、誰かの手を借りたって良いんだよ」
優しく、じんわり染みこむような辰巳の言葉は、同時に大きな衝撃を卯月にもたらした。
「誰かの手を借りる……」
「そうだ」
「借りても、良いのですか……?」
僅かに震える卯月の声に辰巳は無言で力強く頷く。
その首肯に卯月は少しだけ深く息を吸うと、
「それでは……お願いします御山君」
「おう。じゃ、さっさと終わらそうぜ」
そうして、二人で作業を始めようとした時、
ぐぅううううう……。
聞き覚えのある腹音の噴火が鳴り響く。
その音源に辰巳が呆れたように半眼を向けると、腹の主は顔を真っ赤にしていた。
「またか」
「う、煩いです!それよりもさっさと終わらせすよ!」
「まあ待て」
恥じらいからか、作業を終わらせようとする卯月。
そんな彼女を辰巳が苦笑しながら制すと自分の鞄からある物を取り出した。
「腹が減ってちゃ身体も頭も動かねえだろ?」
差し出されたのはシリアルが混ぜられた一本のチョコバーだった。
「こんな物持って来てるんですか?」
「小腹が空いた時用の非常食だ。っていうかこんなもん俺以外のヤツも持って来てるだろ?」
「確かに皆さんがお菓子を食べているのは見たことがありますが……私は勉学に必要のない物は極力持ってきてませんので……」
「そうかよ」
「……いいんですか?」
「こんなん大したもんでもねえし、俺のも分もある」
そう言ってもう一つ取り出した。
「食ったらプリントの纏め、やろう」
「あ、ありがとうございます……」
差し出されたチョコバーをおずおずと受け取る卯月。
少々恥ずかしい。
だが、この人の前では何故だか少しだけ安心できた。
口に入れたチョコバーは、苦さが強いビターテイストだったが、その奥に仄かな甘味を確かに感じた。
腹ごしらえを住ませた二人の作業は最初こそぎこちなかったものの、順調に進んだ。
量があるものの、作業自体はそこまで難しいものでは無かった為、互いに役割を決めて行うことで一気に効率が上がった。
そして、効率が上がれば必然的にそれに要する時間も短く済む。
全ての作業を終えたのは最終下校時間の10分前だった。
「これで、終わりだな」
「はい」
机の上の40人分のしおりを見て卯月は感嘆の溜息をつく。
自分一人では今日中に終わらせることは間違いなく出来なかった。
だが、そんな卯月に辰巳は手を貸してくれた。
手伝ってくれた。
初めは何か良くわからないものに怯えてその手を取れなかった卯月だったが、彼の穏やかな声は不思議とその怯えを取り払ってくれたのだ。
(そうだ、お礼を言わないと)
感慨に耽っていて重要なことを失念していた。
「御山君、本当に……あれ?」
隣にいたはずの辰巳がいつの間にかいなくなっていた。
教室を見回してもどこにも見当たらなかった。
「え……?」
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