第5話
翌朝、卯月は学校への通学路を歩いていた。
雲一つない晴天。
風に舞う桜の花びら。
新たな年度を祝福するパレードのように華やかな景色。
しかし、そのどれもが彼女の視界には入っていなかった。
卯月の胸中を埋めていたのは辰巳のことだった。
『バイトのことは周りには言わない』
昨夜彼はそう言っていたが所詮は口約束。
本当に守ってくれる保証は何処にもない。
クラスに着けば既に卯月の秘密は暴露され、笑いものにされているかもしれない。
胸の内を埋める不安の渦は彼女の視線を無意識に下に向けさせ、歩みは遅くなっていた。
いっそこのままこのまま学校を休んでしまおうか――という考えが一瞬頭を過ぎったがかぶりを振って追い出す。
(それだけは……それだけはできません)
卯月は体の芯に凍えるような寒さを抱えながら教室へ重たい足を動かした。
~~~
なんとか教室の前までたどり着いた卯月は震える手で教室の扉に手を掛ける。
いつもより重く感じられる引き戸を開くと教室にいた者達の視線が一斉に自分に向けられた。
一瞬息が詰まりそうになる。
いつものことなのに今日はその視線が今日はとても恐ろしかった。
「おはよー竹寅さん!」
「おっすー!」
「お、おはようございます……」
皆に気付かれないように平静を装うも声が僅かに震えてしまう。
なんとか動揺が伝わらないよう笑顔を心がけるも上手く笑えている自信が無い。
自分の元に集まってきたクラスメイト達が口々に話題を振ってくる中、視線だけ教室内に走らせると辰巳は既に登校しておりいつものように自分の席に突っ伏していた。
その状況に更に身が固くなる。
一見あちらもいつもと変わらないが卯月が教室に来るまでに何をしていたのかはわからない。
もしかしたら、もう――
「あ、竹寅さん。そう言えばなんだけど――」
来た。
一人の女子生徒の言葉に卯月の体は一瞬で全身が脳に至るまで石になった様に固くなる。
それに伴い体が呼吸を忘れたかのように息が止まりかける。
なんとか呼吸をしようとも呼吸が浅く、酸素を上手く取り込めないせいか頭が正常に働いてくれない。
(やはり、あの人は約束なんて守らなかったんだ……)
せめて告げられる言葉に少しでも耐えられるよう身を固くして――、
「月末にやる『オリエンテーション』、だっけ?あれの日にちっていつだっけ?」
「……へ?」
恐れていた言葉は、来なかった。
「いや~、実は用紙無くしちゃってさ。何日にやるのとか、何が必要かとかわかんなくなっちゃて、あははは」
「オリエンテーション……ああ、オリエンテーションのことですか。では、あとで先生に新しい用紙を貰っておきますね」
女子生徒は「ありがと~」と感謝の言葉と共に恥ずかしそうに顔を赤らめ頬をかく。
卯月達の学校では毎年4月の終わりに新入生同士の親睦を深める目的でオリエンテーションが行われることになっている。
内容としては近くのキャンプ場に行き一泊するというもの。
「オリエンテーション?そんなのあったっけ?」
「あー、そういえばあったな。すっかり忘れてた」
「バッカだなあお前。ウチのクラスは、あの『天女様』がいるんだぞ!ここで良いところ見せないでどうすんだ!」
「そ、それもそうだな!」
「怠かったけど俄然やる気出てきたわ!!」
「ねえねえ、竹寅さんはオリエンテーションどうする?」
「班一緒になろうよ!きっと楽しいよ」
「え……ええ、そうですね」
「私、竹寅さんと同じ班になりたーい!」
「私も!竹寅さん優秀だから何があってもきっと大丈夫だよね~」
卯月の一言に教室の空気が一気に熱気を帯びる。
あまりの盛り上がりに苦笑しつつ、クラスメイト達にばれないようホッと息を吐いた。
(まさか、本当に約束を守った……?)
未だに早鐘を打つ心臓を何とか押さえつつ周囲の言葉に耳を澄ますも、沸き起こるオリエンテーションの話題以外聞こえてこない。
辰巳の方を見やればいつものように机に突っ伏したままだった。
「竹寅さんどうしたの……って、ああ御山ね」
近くにいた女子が卯月の見ていたものに気付いた。
「今日もあの調子だよ。……何であんなに眠そうなんだろうね」
「知らないの?きっと夜中にバイク乗り回してるからだよ」
「バイク?」
「そうそう、て言っても原チャリらしいけどね。深夜に駅向こうの道路で仲間と乗り回してるって聞いたことあるよ」
「こわ!暴走族じゃん……」
周りの女子達がヒソヒソ声で辰巳の事を話し出す。
だが、それは卯月の耳には入ってこなかった。
彼女の頭の中は今、辰巳が本当に卯月の秘密を守ってくれた、その事で事実と安堵でいっぱいだったからだ。
密かに胸をなで下ろしたのも束の間、担任が教室に入ってきた。
クラス内の騒ぎ立てる声に掻き消されたせいで朝のHRのチャイムは既に鳴っていたようだ。
担任の声に蜘蛛の子を散らすように席に生徒達に混じり、卯月は教室最後列にある自分の席に着く。
HR中、周りにバレないよう再び辰巳を見やれば珍しく彼は体を起こし担任の話に耳を傾けていた。
(珍しい……)
頬杖をつきつつも眠りこけないよう踏ん張るその姿に担任も驚いたように少しだけ目を見張った。
いつもなら、HRだろうが授業だろうが、果ては開始終了の挨拶すらお構いなく常に机に突っ伏し、微動だにしないほど熟睡を決め込んでいるというのに。
よく見れば、いつも着崩されていた制服もしっかり着用している。
一体彼に何があっただろう。
その後も観察すると、辰巳は授業中は堂々と居眠りをすることはなくなっただけと言うことがわかった。
その証拠に頬杖をつきつつ船を漕いでいたり、開きっぱなしのノートが真っ白だったりと相変わらず授業を聞いているわけではなかった。
だが、その程度なら多少の差はあれ他の生徒もしている。
一応、堂々と寝たりと端から授業を放棄する行動を取らなくなっただけマシになっているのだろう。
このくらいの授業態度なら卯月が注意することはない。
これからどうやって彼に授業を受けさせるかは教師達の技量の問題になるからだ。
辰巳の変化を不思議に思いつつも、『辰巳への注意』という自分の仕事が減ったことに卯月は少しだけ肩が軽くなった気がした。
ちなみに、授業以外の時間、辰巳は相変わらず机に突っ伏して熟睡していた。
~~~
夜8時半。
昨夜取り決めた通りに卯月は辰巳の部屋を訪ねていた。
ピンポーン。
軽快なチャイム音と共に玄関のドアが開かれると、出てきたのは昨日同様伸びすぎた金色の頭髪を首の後ろで束ねた辰巳だった。
「おう、来たか」
「ええ、来ましたよ」
「じゃあ入れ」
「お、お邪魔します……」
ぺこりと頭を下げ入室した卯月は部屋の隅に鞄を置くと台所の端に立つ。
調理台の上には既に食材があり準備は整っていた。
「じゃ、始めていいか?」
その長身にあった丈の長いエプロンを身に纏うと辰巳は卯月に許可を求める。
卯月はそれに頷くと辰巳は料理を開始した。
まず初めに野菜。
キャベツを千切りにし、ザルに移し、水を張ったボウルに入れる。
その次にトマトをくし切りにした後、タマネギを薄切りにしていく。
薄切りにしたタマネギは耐熱ボウルに入れ、ラップをした後電子レンジへ。
ここで、先ほど浸していた千切りキャベツを水から引き上げ水気を切っておく。
リズミカルに、滑らかに、迷いなく調理をする姿はいっそ心地よくすら感じた。
古めのアパートと言うこともあって台所はお世辞にも広いとは言えない。
しかし、そんなもの辰巳の調理技術の前ではデメリットにすらないほど彼の調理は洗練されていた。
(すごい……)
料理には明るくない卯月にもそれが一朝一夕で身につくものではないことは端から見ていたも容易に理解できるほどだった。
(一体いつから彼は調理場に立っていたのでしょう?)
これまで学校で見せた不真面目さとは異なり料理に真摯に向き合う辰巳の姿を疑問に思った。
すると、辰巳の調理の進みが止まった。
何やら豚のロース肉に切れ込みを入れていた。
「何の用だ?」
「あ、いえ、何してるのかなーって思いまして」
「豚肉の筋切ってんだ」
「筋?」
よく見るとロース肉の白い脂身と赤身の境に垂直になるように包丁で1cm間隔の切れ込みを入れていた。
「こうやっておかないと、焼いたときに身が縮んで焼きムラが出来たりすんだよ」
「へえ~そうなんですね」
卯月は感嘆の声を漏らす。
薄めの肉は焼くとよく反り返ったり縮んだりしていたのを思い出した。
一通り切れ込みを入れ終わると今度は肉達に塩こしょうと共に白い粉ををまぶし始めた。
「白いのは何ですか?」
「片栗粉。これまぶしておくとタレがよく絡む――」
「タレとは?」
「……生姜焼きのだ」
「生姜焼き!今日は生姜焼きなんですね!」
思わず喜色の声を上げてしまう。
卯月は好き嫌いはないが特に肉料理が好きだった。
「……あのさ」
「へ?……あ、ごめんなさい!お料理の邪魔でしたね……」
気が付くと邪魔にならない間合いにいたはずなのにいつの間にか肩が触れそうなほど近づいてしまっていた。
「……いや、別に良いけど」
小さく息を吐いた辰巳は料理を再開する。
卯月は辰巳の邪魔にならないよう再び距離を開け見守った。
その後も豚肉を焼く傍らで調味料を混ぜ合わせタレを作り、電子レンジで加熱していたタマネギと共にタレを絡め炒める。
換気扇で排出しきれない芳しいタレの匂いが部屋に満ちる中、もう一つのコンロでは沸騰させていたお湯に顆粒だし、刻んだネギ、豆腐、乾燥ワカメを入れ、弱火にした後味噌を溶き、スタンダードな味噌汁が出来ていた。
「はいよ、待たせたな」
プレートに乗せられ運ばれてきたのは炊きたての白いご飯に、味噌汁、そして、メインの生姜焼きとトマトに彩られた山盛りの千切りキャベツだった。
「おお……」
感嘆の声を上げてしまう。
辰巳はテーブルを挟んみ卯月の向かいに腰を下ろすと手を合わせる。
「んじゃ、食べるか」
「はい」
「「いただきます」」
まず最初に、生姜焼きを箸で掴み上げる。
辰巳が言っていたようにタレが良く絡んだ生姜焼きは部屋の照明に照らされて輝いていた。
口に運べば、甘辛く、溶け出した豚の脂身がより生姜焼きに味の深みもたらしていた。
タマネギも、加熱したことで増した甘みが肉一辺倒にし過ぎない旨味を引き出している。
続いて、千切りキャベツ。
一本一本が細くシャキシャキとしたキャベツの食感は噛み心地は瑞々しい。
ご飯も固すぎず、柔らかすぎない、程良い水分量で炊かれており、噛めば噛むほど甘みがましてくる。
味噌汁は、味の濃いめのメニューに対し少しだけ薄めに作られいるが、味噌の中に確かに出汁を感じる良い塩梅。
「美味しいです!」
一通り味わった卯月は思わずそう叫んでいた。
「おう……そうか、ならよかった」
掛け値なし賞賛に辰巳は照れくさそうに目をそらしてそう言った。
「本当に美味しいです。今まで食べてきたものはタレが水っぽくて全然お肉に絡んでくれなかったのに御山君のはちゃんとお肉に絡んでてしっかりタレの味がします!」
「片栗粉のお陰だな。片栗粉がタレを肉に絡めるんだ」
「ほへ~」
口に物を含んだまま相づちを打つ卯月。
しかし、それでも料理を口に運ぶ度に、全身で美味しさに身を震わせる卯月の様子に毒気を抜かれたように内心苦笑いするのだった。
「お前本当に美味そうに食うよな」
「へ?……あ!いや、その……はしたなかったですね……すみません」
思わず体が硬くなった。
人前で品のないことをしてはならないと幼少期から口を酸っぱくして言われていた卯月だったが、美味しいものを食べて追記が緩んでしまったらしい。
反射的に目を引き結んでしまう。
「いや、別に咎めたわけじゃなくて……そうやって『美味い美味い』って言って美味そうに食ってくれる方が作りがいがあるってだけだ」
辰巳は少し照れくさそうに視線を逸らす。
「こんなボロアパートでの飯なんだ、マナーがどうたらなんて言うつもりはねえよ。残したりしないんだったら好きなように食ってくれ」
ぶっきらぼうな辰巳の言葉に卯月の固くなっていた体が解れた気がした。
「あ、ありがとうございます……」
「……ん」
すると、徐に辰巳が手を差し出してきた。
「なんですか?」
「お替わりまだあるけど、どうする?」
「え?」
気が付けばいつの間にか器達の中身は空になっていた。
「い、いえ、私はもう結構で……」
「何言ってんだ、昨日あれだけカレー食っといてこの程度で足りてるわけねえだろ?」
ギクッと肩を揺らしてしまう。卯月は昨日の自分をビンタしたくなった。
高校1年生という時期はおそらく人生で最も成長する時期。
普通の人でもかなり食べれる時期である。
だが、卯月はの食欲は同年代の同性、いや、下手な男子よりも旺盛であった。
そして、卯月自身もその自覚はあった。
しかし、『女性の大食い』というのはよろしくないと教えられ育ってきた卯月は人前で食事をする際は意図して食べる量をセーブしている。
以来、学校での昼食など家以外での食事では周りに合わせた量を取るようにしてきた。
勿論それで足りるわけ無いのだが、そのことが原因で周りから変な目で見られるのは勘弁したい卯月にとっては隠すしかなかった。
故に、ほぼ他人である辰巳の前でソレを明かすのは大変宜しくなかった。
「な、なんのことでしょうか~?ワタシ二ハワカリマセ~ン」
「嘘下手すぎか」
しかし、動揺した卯月には赤子でも見破れそうな薄っぺらい嘘しかできなかった。
辰巳にその嘘をバッサリ切り裂かれた卯月は茹だったタコの様になったた顔を手で覆った。
「……笑わないんですか?」
「何を?」
「こんなに食べるの変だって、可笑しいと思わないんですか?」
消え入りそうな卯月の声に辰巳はめんどくさそうに頭を掻きながら答えた。
「別になんとも思わねえよ。何も変なことはねえ、食えばいいじゃねえか好きなだけ。女子だからっていっぱい食っちゃいけねえ決まりがあるわけじゃねえんだ」
卯月は思わず顔を上げた。
「いっぱい食べる女の人なんて探せばいくらでもいる。……まあ、お前がそれを知られたくないって言うんなら無理にとは言わないけどよ。少なくとも俺はそんなにおかしい事とは思わん。寧ろ美味そうに、いっぱい食ってくれた方が作りがいがあって嬉しいよ」
思いがけない辰巳の言葉に放心してしまう。
辰巳は卯月に背を向け盛り付けをする。
「『食べる』って言うのは『人を良くする』って書くだろ。おやっ……俺の親が昔言ってたことなんだけどよ、『ちゃんと食わなきゃ人は生きれない』『食うことは生きること』ってよ。食べることで、働けて、眠れて、考えれて、泣けて、笑える。最初は何言ってるか全くわからんかった。でも、ある時、食うことを疎かにしたばっかりに大変なことになった人がいてさ、それで食うことって本当に大切なんだなってわかったんだ」
辰巳は盛り付けた皿を卯月に差し出した。
「だからお前も、ちゃんと腹一杯食えよ。このことも口外するつもりなんてねえ。それにな、お前が食うもんだと思ってもう結構作っちまったんだ。寧ろ食ってくれなきゃこっちが困る」
辰巳はわざとらしく少し困ったように眉尻を下げため息をした。
「……じゃあ、お願いします」
若干頬を染め、恥ずかしそうな、恨みがましいそうな、そんな目で皿を受け取る卯月に、「最初からそうしろ」と、しかし、少し満足そうな顔をする辰巳だった。
~~~
「ありがとうございました。御夕飯美味しかったです」
食事を終えた卯月は玄関で一礼をする。
辰巳は照れ隠しに「ん」とだけ返事をして弥生の分の生姜焼きを入れたタッパーが入った紙袋ともう一つ小さめの白い紙箱を手渡した。
「これは?」
「あーなんというか、その……昨日のお詫び……のケーキだ」
昨日のお詫びと言う言葉に卯月の頭の上に?が踊る。
「ほら昨日、お前のアルバイトについて俺の勝手な勘違いで色々余計な事言って、それで恥ずかしい思いもさせたのにまだしっかり謝ってなかったからよ……ごめん」
「ちょ、ちょっと!なんなんですかいきなり、頭を上げてください!」
頭を下げる辰巳に思わずギョッとする卯月。
そう言えば確かに、あの後『凪』に連れて行ったことで有耶無耶になっていたのを思い出した。
「いや、女子に恥ずかしい思いさせたのに何にもしないのはどうかと思って……」
「そんなこと言いましたら、私だって突然押しかけて、晩ご飯ご馳走になりました。だから、今回の件はお相子様とういうことにしませんか?」
「お相子か……わかった。ありがとう竹寅」
「はい」
「あ、ケーキどうしましょう……」
互いに手討ちと言うことになってのであればこのケーキは存在意義を失う。
ならば、と購入者の辰巳に返すのが妥当だろうか。
「それは持って行ってくれ。叔母さんの分もあるから」
「そんな、叔母様の分まで。ありがとうございます」
お礼を言い、卯月は今度こそ辰巳の部屋を後にした。
初めての夕食は色々あったが特に問題は無かった。
怪しいところは見当たらず、料理は美味しい。
勿論これで警戒を緩めるわけではなく暫くは監視を続けるつもりだが弥生が彼の料理に信頼を置いている理由が何となくわかった気がした。
そして、それと同時に卯月の中にはある疑問が湧いてきていた。
学校でのこれまでの不真面目な態度と、家で見せた誠実な対応。
相反する二つ態度に、本当に両方とも『御山辰巳』なのかと疑いたくなった。
アパートの古びた階段を降りて彼の部屋を振り返ると、古びた廊下の電灯が今もちらつき、部屋の扉を怪しく見せている。
この違いは一体何なのだろう。
何が彼を変えさせるのだろう。
卯月はそれが気になっていた。
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