第3話

「お、おじゃまします……」


 おずおずと部屋に入った卯月の目に入ってきたのはボロアパートという外見とは裏腹にとても綺麗に整理された畳部屋だった。

 玄関を入って直ぐ部屋が広がっており、右手に台所、左手に風呂とトイレに押し入れ。部屋の中央に丸いローテーブルと奥の壁には窓があり、その隅に小さいテレビ。その反対の隅には教科書が積まれた勉強用と覚しき机とその脇に小さい本棚があった。

 納まるべき物が納まるべき所にあり余計なものが無い、非常に整理が行き届いた部屋だった。

 学校での粗野な印象とは真逆の洗練された居住空間に思わず立ち止まってしまうも、それを不信に思った辰巳の視線で気を取り直し、真ん中に置かれたローテーブル前にちょこんと正座した。


 改めて部屋を見渡してみると年季の入ったアパートだが、広さは十分であり長身の辰巳が1人で暮らすには問題ない大きさ。

 ローテーブルを見れば汚れも無く、空間全体にホコリっぽさを感じないところから彼が適度に掃除をしている事が窺えた。

 初めて入る他人の部屋、と言う以上にこれまで思っていた辰巳への印象とはかけ離れた彼の部屋の様子に思わず色々観察していると、辰巳がトレーを持って来た。


「何か弱みになりそうな物は見つかったか?」

「う、それは……」

「まあいいさ、一先ず飯食え。話はそこからだ」

「そ、そんな。またご飯をいただくなんてできません!」

「うるせえ、腹空かした頭で話し合いなんかできるか。飯が先だ」


 問答無用とでも言うようにでん、とトレーをテーブルに置く。

 学校にいる時とはまた違う諌めるような圧力のある辰巳の視線に――昨日の今日ということもあって――卯月何も言い返せなかった。

 その時ふと馴染みのある匂いが漂ってきた。

 視線を上げるとトレーに乗せられていたのは水の入ったグラスとサラダ、そして日本人とインド人ならなじみ深いあの料理だった。


「……カレーですか?」

「そうだけど、カレー嫌いか?」

「い、いいえ。そんなことありません!」

「おう……そうか、ならいいんだが」


 嫌に語気を強めて言い返す竹虎に少し気押されてしまう。

 まあ、日本に住んでてカレー嫌いなヤツなんてそうはいないか、と卯月とテーブルを挟んで向かいに腰を下ろす。

 手を合わせると彼女も続く形で手を合わせた。


「いただきます」

「い、いただきます」


 食欲をそそるスパイスの香りに誘われルーとご飯を掬い口へと運ぶ。


(うん、上手くいってる)


 市販のルーと実家から送られてきたスパイスを混ぜた独自のカレーは、元になった料理の名残である出汁の風味を仄かに携え、それでいて互いに邪魔をせず引き立てあっていた。

 人に振る舞うことなど全く考えずいつも通りに作った為特に味見とかはしておらず、出来が少々気がかりだったが大丈夫で安心した。

 特に親しいわけでもないが自分から招いたのだ。

 下手な物を出すのは辰巳のプライドとして許せなかった。

 その時、ふと視線を目線を上げる。

 そこには、


「ん~~~~ッ!!」


 目を輝かせながらカレーを頬張る天女様がいた。


「ふ、ふごい!ふごいおいしいでう!」

「お、おう。とりあえず口ん中のもん飲み込んでから話せ」


 口の中をもごもご租借したまま興奮する卯月に気押される。

 何とか意味のある言葉を発することができるよう、口の中を片付けるよう促した。

 そのまま竹虎はあっという間に盛り付けたカレーを平らげると水の入ったグラスぐいっと煽った。


「……っぷは、御山くん!すごいですこのカレー!確かなコクと深みがあって、その上辛さも程良くて、今まで食べたどのカレーより美味しいです!!」

「そ、そうか……。まあ、口に合ったようで何よりだ」


 キラキラ輝く眼で美味しさを伝えてくる卯月に三度気押される。

 ここまで絶賛されるとどことなく背中がこそばゆくなってくる。


「このカレーどうしたんですか!?」

「いや、どうしたもこうしたも俺が作ったんだけど。昨日の肉じゃがアレンジして」

「えぇ、御山くんが!?」

「と言うか、一人暮らししてるこの部屋で俺以外の誰が飯作るんだよ」

「それもそうでしたね……」


 すると卯月のの視線が下がる。

 その視線の先には空になった自分のカレー皿に向いていた。

 そういうことかと、内心苦笑して、彼女の皿を取り上げると台所に向う。

 卯月はどうやらそれだけで辰巳の意図を理解したようだった。


「そ、そんな。結構です!」

「何言ってんだ、あからさまに『足りない』って顔に書いておいて」

「書いてません!」


 正直、卯月としては食べ足りないというのは真実だった。

 辰巳の肉じゃがアレンジカレーはこれまで卯月が食べてきたカレーの中でも間違いなくトップクラスに美味しい。

 美味しいというより、好みに合っていると言った方が正しいだろう。

 昨日の肉じゃがを食べた時も、もっと食べたいと思ったほどだ。

 しかし、だからといって、お替わりを求められるかと言われれば間違いなく答えは「No」だ。

 ほぼ、他人である辰巳にそこまで迷惑を掛けるわけにはいけない。


(それに……)


「作り過ぎちまったんだ、食ってってくれると助かる。じゃねえと暫くカレー地獄になっちまうからな」


 卯月が台所を見るとカレーの入った大きめの鍋が目に入った。

 一人暮らしには大きめの鍋。

 あの中に入っているカレーの量を想像すると、いくら辰巳が育ち盛りの高校生でも食べきるまでに飽きてしまうだろう。


「なら……仕方ないですね。お願いします」


 ようやく出されたGoサインに少し肩をすくめながら皿にカレーを盛り付け差し出した。

 卯月は差し出されたカレーをおずおずと食べ出す。

 遠慮しているのか、恥ずかしいのか、若干耳が赤くなっており最初ほどのペースは早くないが黙々と食べている。

 この分な2杯目も問題なく平らげてくれるだろう。

 それから暫くの間会話はなく、アパートの一室には2人分の食事音が響く。

 そして辰巳が3杯目を食べ終わったその時を待っていたかのように卯月が切り出した。


「あ、あのー……」

「なんだ、もう一杯いるか?」

「違います!えっと、なんというかその……」


 頬を中心に顔を赤くして視線を彷徨わせる。

 恐らく考えられる事は一つ。


「満腹になって急に冷静になったんだろ?『何してんだろ。特に仲良くないクラスメイトの家で訳分からんこと喚いて、上がり込んで、飯ご馳走になって』って」

「み、みなまで言わないでください……!!」


 両手で顔を覆って小さくなる卯月。

 同年代の女子と比べても高めの身長を誇る彼女が今ばかりは小さく見えた。


「別に気にすることはねえよ。部屋に入れたのは俺なんだから」

「で、ですが」

「あのまま部屋の外で騒がれて、近所迷惑になってった方がもっと迷惑だからな」

「す、すみません……」


 再びトマトの様に顔を真っ赤にして小さくなる。

 その様子がクラスで見る凜と済ました大人びた表情と違い、年相応の女の子のように見えた。

 そして、同時に胸の奥からモヤモヤした感情が湧き上がってきた。


(こんな顔できんのに、なんで……)


 その感情は、昨夜、卯月が訪ねてきてからずっと胸の奥に吹き溜まっていた。

 なんとか夢として忘れようとしたことで一時は納まりかけた。

 だが、こうして改めて現実であったと突きつけられてからは無視出来ないほど辰巳の中で膨れあがってきていた。

 こうやって彼女は『昨日のことを黙っていて欲しい』とわざわざ1人でここに来たことから恐らく想像通りなのだろう。


「……なあ、竹虎。昨日のことはそんなに知られたくねえのか?」

「あ、あたりまえです!」

「わざわざ夜中に1人で男の部屋に来て、弱み探す程にか?」

「う、……まあ、はい」


 卯月の答えに、辰巳は目を瞑って大きくため息をした。

 御山辰巳は世間一般では『不良』というカテゴリーに分類される人間だ。

 辰巳本人もそのレッテルを自覚できないほど自らを客観視できていない訳ではない。

 遅刻は珍しくなく、授業は寝てばかり。

 教師の説教に対しても反省の意はなく、直す気なし。

 そんなお世辞にも良い人間とは言い難いヤツに自分の秘密を知られたなんて、自分が同じ立場だったら間違いなく人生の終わりだと辰巳は思った。

 言いふらされ、からかわれ、身も心も弄ばれる。

 それが、見目麗しい才女なら尚のことだ。

 いつそんな目に遭うかわからない、そんな不安にまみれた日々など想像したくない。

 卯月は、今そんな状況にいるのだ。


(そりゃ、冷静になんてなれないし、飯も喉を通らんか……)


 先ほどの食らいつきようから彼女が相当お腹を空かせていたのは明白。

 そんな状態だったからまともに頭が回らなかったのだろう。

 なんとか食事を取らせ、腹を満たし、頭の回転を正常にさせたは良いが彼女にかける言葉が辰巳には見つからなかった。


(それらしい弱みっぽいっものでも教えとけば良いか……、いや、本人から『これが俺の弱みです』なんて教えられたもんなんてバカ正直に信じるヤツはいねえか。胡散臭いにも程がある)


 辰巳が言葉を出し倦ねていると、卯月が立ち上がった。


「竹虎?」

「……帰ります。随分お邪魔してしまいましたし」


 壁に掛けてある時計は九時半を指していた。


「夜分遅くに突然押しかけて、迷惑をお掛けして、その上御夕飯までご馳走になってしまって、本当にすいませんでした。こんなことを言うのは可笑しいのですが、御山くんのカレーライス本当に美味しかったです」


 綺麗な所作で頭を下げる卯月の目にはうっすら涙が滲ませた微笑みを浮かべていた。 

 全てを諦め、これから起こるであろう出来事を受け入れる覚悟を決めたような悲壮な微笑みが。


 その笑顔が、辰巳の一番古い記憶と重なり、


「竹虎!」


 気が付けば、玄関を出ようとしていた彼女を呼び止めていた。


「御山くん……?」


 卯月は驚いて振り向いた。

 これから辰巳が言う事は完全なるお節介だ。

 いや、お節介で済めばまだ良いだろう。場合によれば恐喝と捉えられそのまま警察を呼ばれれば辰巳の人生はお仕舞いだ。

 だが、それでも引けなかった。

 ここで引いたらこれまで生きてきた『自分』という存在に嘘をつくことになるからだ。

 他人に誇れるような人生ではないが、辰巳は――御山辰巳という『人間』は――そういった顔が、この世の何よりも大嫌いな者として、見過ごすことができなかった。


「なあ、竹虎。お前バイト、やってんのか?」

「……はい」


 熱くなりそうな頭に必至にブレーキを掛け言葉を探した。


「じゃあ、昨日のあの格好は……そのバイトの制服みたいなもんか?」

「ええ、まあ……」


 一つ一つ、事実を確認し、卯月に問いを投げかける。

 その答えに辰巳は一つ息を吐き心を落ち着かせる。


「竹虎。昨日と今日のことは黙っといてやる。代わりに、今やってるそのバイト辞めろ」

「ええ!?」

「そうしたら、この事は墓の下まで持って行ってやる。それが条件だ」

「どういうことですか?なんでそんなこと、あなたに指図されなくてはいけないのですか!?」

「そうだ、お前の言うとおりだ。お前がどんな仕事をしようが俺には関係ねえ。どんな事情があったのか、なんでそんな仕事してんのかも皆目見当もつかねえよ。でもだ、その仕事だけは辞めろ」


 辰巳は真っ直ぐ卯月の目を見つめた。

 しかし、卯月は柳眉を逆立て睨み返す。


「……それは出来ません」

「何でだよ」


 卯月は少し視線を落とし俯いた。


「このお仕事は、私にとって、とても大事なものだからです」

「はあ!?なんでそんな仕事が!?」

「それをあなたに言う必要はありません!」


 その言葉に辰巳の腹の底に苛立ちの火種が焚きつき始めた。


「じゃあ、言わなくても良い!言わなくても良いからさっさと辞めろ!」

「あなた人の話聞いてましたか!?私はこの仕事が大事なんです!辞めたくないんです!!大体何なんですか、あなたさっき『自分には関係ない事』って言ったじゃないですか!だったら口出してくる筋合いは無いはずですよ!」


 卯月も更に眉間に皺を寄せ、凄まじい剣幕で言い返す。

 そして、辰巳の中の火種は導火線に渡り、彼の腹の底に溜まり続けた怒りの油に着火した。


「筋合いもクソもあるか!!そもそも、高校生がデリヘルなんてやって良い分けねえだろ!!」

「……はい?」


「だから、デリヘルなんて辞めろつってんだよ!!安売りしてんじゃあねえよ!もっと自分を大事にしやがれ!!」


 辰巳の言葉に一瞬の静寂が流れる。

 その静寂を切り裂いたのは、卯月だった。


「でり……へる?何ですかそれ?」

「……は?」


 卯月の言葉に辰巳は固まった。


「おい……お前、デリヘルをやってんじゃねえのか?」

「だから何なんですかその『でるへる』というのは!?」

「……え」

「え?」


  2人の間に真冬の深夜の様な静寂が流れる。

 そして、一瞬のフリーズの後、竜巻もかくやという程の猛烈な羞恥に見舞われた辰巳はその場にしゃがみこんでしまった。


「ちょ、どうしたんですか御山君!?」

「…………ググれ……」

「ぐぐれ?」

「スマホで調べてくれ……」


 辰巳は絞り出したかのようなか細い声でそれだけ言うと両手で顔を覆いだまりこんだ。

 卯月は首を傾げながら、自らのスマホでその言葉を検索すると、その顔は秋の紅葉の様にみるみるうちに真っ赤になっていった。


「な、ななんあなななんてことカンガエテタンデスカアナタハ!!!???」

「うるせえよ!夜中にあんな格好して出歩いてたら誰だってそう思うわ!!」

「アレは叔母様の経営する喫茶店の制服です!私はそこでアルバイトしてるんです!」

「そんなの初見で分かるか!?」


 驚き。

 羞恥。

 混乱。

 盛大な勘違いをしていた彼らの脳内エンジンは未だに燃え続け明後日の方向に飛んで行く。

 そして、その声量は納まる気配はなかった。

 その為、


『ドンッ』


 という、重々しい音が壁から聞こえてくるのも必然だった。


「な、何ですか今の?もしかしておば――」

「いや違ぇよ。……お隣さんだ」


 辰巳は渋面を作ってため息を吐いた。

 壁ドン。

 アパートなどの集合住宅において、騒音を撒き散らす隣人に行う抗議運動の一つ。

 現在ではどういう経緯でか、少女漫画的胸キュンシチュエーションと混同されている。


(まさか、俺が壁ドンをもらうことになるとは……)


 こんな状態では文句も言えない。

 しかし、そのおかげで互いに頭に昇っていた血も降りてクールダウンすることができた。

 気付けば互いに肩で息をするほどヒートアップしていた言い合いは、あのまま更に熱くなっていれば近隣住民から警察を呼ばれていたかもしれない。

 そう思うと、壁ドンをした隣人に心の中で少し感謝したくなった。


「……悪い、何か色々言い過ぎた」

「……いえ、私も悪かったです」


 互いに謝罪し合うも、誤解からの盛大な言い合いせいで生まれた多大な疲労感と羞恥の様なものを感じる。

 おかげで双方どこかげっそりしてた。


「なあ、確認なんだがあのメイド服は、本当にお前の叔母さんがやってる喫茶店の制服なんだな?」

「くどいです。そうだと言ったじゃないですか」


 改めての確認に卯月渋い顔をする。

 ならば何故、昨夜あの格好のまま辰巳の家に来たのだろう。

 疑問に口を閉ざしていると、卯月がハッとした。


「あなたまさか、まだ私が『でりへ……』じゃない、『あんなこと』やってると思ってるんですか!?」

「え?」


 どうやら、少し黙ってしまったことと、生来の目つきの悪さから未だに辰巳が卯月のアルバイトについて疑っていると思われたようだ


「わかりました!そんなに疑わしいのでしたら証拠を見せてあげます!来てください!」

「おいちょっと待て、俺まだ何も言ってねーぞ!?」


 卯月は辰巳の手首を捕まえると引き摺るように外へと連れ出した。

 辰巳はこの日、『優等生 竹寅卯月』という少女への印象を2,3周ほど改める必要があることを確信するのだった。

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