第7話 スノウ・ドーム
部屋には先に佳海のための予備の布団を敷いていたけれど、ベッドとクローゼット、机の狭間の狭い空間に敷いたのでぎゅうぎゅうだった。
「狭っ……これ本当に佳海、眠れるのかな」
「大丈夫大丈夫、私どこでも熟睡できるの。このちゃんのお部屋、落ち着くし」
佳海は大きな目を好奇心で輝かせながら部屋を見渡している。
「急だったから片付いていなくて恥ずかしいよ」
「そんなことないよ、片付いているよ。この写真、このちゃんとおばあちゃんだよね? このちゃん可愛い」
「五歳くらいの時だよ。私もずいぶん変わっちゃった」
「ううん、今も面影があるよ。このちゃんはおばあちゃんやお父さん、お母さんに本当に可愛がられて育ったんだね」
フォトフレームを手にした佳海に優しく見つめられて恥ずかしくなり、私は照明のリモコンを手にした。ふたりきりになっても、明るいままでは話せそうもなかった。
「そうかな……えっと、話をする前に電気消してもいい? カーテン開けてるから月明かりは入るだろうけれど」
「うん、私もいつも電気全部消してる」
部屋が暗くなると、私は窓辺に飾っているふたつのスノウ・ドームを手にして布団の上に座っている佳海に見せた。淡い月の光に照らされ、ふわふわと中の雪が揺れている。
「これね、私たちのおばあちゃんたちのスノウ・ドーム。ふたりで北海道の小樽市に旅行した時にお揃いで買ったんだって。他にもいろいろあるけれど、ばあばはこれを一番大切にしていたの。ひとつは千佳さんが持っていたもので、亡くなって十年した頃に成海さんが送ってくれたんだよ。もうどっちが誰のものだったかわからないけれど、必ずふたつ一緒にして持っていてねって言われたんだ」
「へえ……」
佳海は神妙な顔をしてスノウ・ドームのひとつを受け取り、ひっくり返した。
「もう古いから水も少なくなってきているけれど、ふたりが小樽に行った時夏だったから、今度は雪景色を見に来たいねと言ってお揃いで買ったんだって」
「ロマンチック……ふたりは本当に仲良しだったんだね」
佳海の手のひらに抱かれたスノウ・ドームの中で、ゆっくりと雪が降り積もっていく。
祖母と千佳さんの想いのように。
私の佳海への想いのように。
――ばあば。勇気を下さい。
私は意を決して切り出した。
「私たちのおばあちゃん、ただの親友どうしだったわけじゃないの。ふたりは誰にも内緒でずっと愛し合っていた。一年に一度会うのを楽しみにしながら、会えない日々は手紙や電話で励まし合って、いつかふたりで暮らせる日を願っていた」
佳海の目が驚きに見開かれる。その目を私もまっすぐ見つめる。逸らしてはいけない。
「二十五年間、ふたりはほとんど会えなくてもずっと愛し合っていた。いつか一緒になれると信じてね。でも突然、千佳さんが心臓発作で亡くなってしまったの。それでもばあばは千佳さんのことを死ぬまで忘れなかった。十九年も」
話しながら、涙が溢れた。
「私は、怖い。そこまで思い続けてもばあばたちの恋は成就しなかったのに、私も佳海を好きになるのが怖い。私たちはばあばたちよりもっとずっと早く出会ってしまったから、ほとんど会えないうちに佳海が私に飽きたり、別の人を好きになってしまうのが怖い。その後、私が何十年もひとりで佳海を思い続けるのが怖い。ばあばと同じ運命をたどるのが怖い。だから運命なんて信じたくない」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を見せたくなくて、私は両手で顔を覆って泣いた。
ずっと、誰かにこの思いを聞いて欲しかった。
同じ運命で繋がれた佳海に、理解して欲しかった。
ふわっと温かい腕で包まれる。佳海が私の横に座り、優しく抱き締めてくれていた。
「――このちゃん。私のこと、好きなの?」
私は泣きながら頷いた。
「好きで好きでたまらないよ」
その気持ちを認めることすら怖くてできなかったけれど。今まで恋をしたことはなくとも、線香花火のようなきらめきも、胸の痛みも、目が覚めて最初に思うのが佳海の笑顔であることも、眠る前に佳海と夢で会えるようにと願うことも、これが恋なのだと、私は佳海を好きなのだと全身でわかっていた。
「嬉しい。やっぱり私たち、運命だったんだね。私がこのちゃんを好きになって、このちゃんが私を好きになる運命だったんだね」
「佳海は怖くないの? 私たちも永遠に成就しない運命かも知れないのに」
顔を上げると、佳海はどこまでも愛情深い、穏やかな海のような瞳で私を見つめていた。成海さんによく似た瞳だった。少し前まで自分の思い通りにならないとすねていたのに、いつからこんな目をするようになったのだろう。
「怖くないよ。確かに私のおばあちゃんは早く死んでしまって、ふたりは一緒に暮らすことはできなかったけれど、このちゃんのおばあちゃんにすごく大きな愛を残したんだと思う。だからこのちゃんのおばあちゃんは死ぬまでずっと私のおばあちゃんを愛し続けることができたんじゃないかな。きっと今は天国で仲良く一緒にいるよ。――それに」
佳海はそっと私の涙を指で拭い、頬を撫でた。
「私たちが恋することでおばあちゃんたちの恋はもう一度成就したんだと思う」
思わぬ言葉だった。
「このちゃん。私、私のおばあちゃんがこのちゃんのおばあちゃんと恋をしていたなんて何も知らなかった。だけど、このちゃんに会えると小さい時から本当に嬉しくて、楽しくて、安心できた。夏に再会した時も、やっぱりそうだった。いつまでもふたりで話していたかった。この間、このちゃんが男子に告白された時、誰にも取られたくないってすごく強く思った。このちゃんはおばあちゃんたちのことを知っていたから怖かったんだね。それでも私のことを好きになってくれたんだね。そして私は何も知らなくてもこのちゃんを好きになったんだよ。これは私たちの運命だよ」
「……本当にそう思う?」
「だからここまで来たんだよ」
佳海の表情には雪ひとかけらの迷いもなかった。
「私が一生掛けてこのちゃんに運命も永遠も信じさせてあげる」
――ああ。
揺るがない意志でそう言ってくれた佳海の顔に、祖母が繰り返し語ってくれた言葉が重なる。
〈いつか、心の底から大好きでどうしようもないくらい、寝ても覚めてもその人のことばかり思い浮かぶような恋をする時が来ると思うの。たったひとりの人をこのちゃんが見つけたら、どんな人でもばあばは必ず味方するからね〉
祖母もこんな気持ちだったんだろうか。
恐れながら、震えながら、それでも心から溢れる愛しさを止められなくて、千佳さんへと手を伸ばしたのだろうか。誰も味方がいない中、暗闇の中をお互いだけを頼りに小さな光に向かって歩いたのだろうか。
だから、どんな人を好きになっても必ず私の味方になると約束してくれたのだろうか。
祖母は私に精一杯教えてくれたのだ、誰かを好きになることを恐れることはないと。
自分の心を信じていいと。
人を愛することは素晴らしいことだと。
「佳海が好きだよ」
ようやくそう言うと、佳海は満開のひまわりのように笑って再び私を抱き締めた。
「嬉しい。私も大好きだよ」
佳海の温かさに溶けてしまいそうになる。
「このちゃん。キスしていい?」
ドキンと心臓が大きく動き、とっさに佳海の腕から離れた。全身に響く鼓動は佳海に聞こえているのではないかと思うほどだ。喉がからからに渇いてしまう。
「嫌?」
「い……いけど……私、したことないからどうすればいいのかわからない……」
「私もしたことないよ」
「そうなの?」
驚いた私の顔に佳海の真剣な顔が近づいて来た。察してぎゅっと目を閉じると、触れるか触れないかのぬくもりが一瞬唇をかすめた。
目を開けると、佳海が首をかしげていた。
「……キスできた?」
「よくわかんなかった」
「私も」
私たちは弾かれたように笑い、ドアの向こうの父母を思い出して慌ててしーっと声を潜めた。
「次に会う時までに練習しておくよ」
と私が言うと、佳海の目が見開かれる。
「どうやって? 誰と?」
「コロンと」
笑いをこらえながら枕元のコロンを抱き寄せて佳海に見せると、やきもち妬いちゃうからやめて、と口をとがらせた。
「このちゃんも誰ともキスしたことなくてよかった。これから初めてを全部、一緒にしていけるね」
「そっか……そうだね」
佳海はまたもや私の懸念をひっくり返してみせた。伏せられた鏡を裏返した瞬間に光が反射するように心にきらめきが散る。
「私、恋することがずっと怖かった。でも誰のことも好きにならないのも、好かれないのも寂しいとも思ってきたけれど……恋してこなくてよかったって今初めて思えた」
「私のために取っておいてくれたんだね」
「可愛いこと言うね」
胸がきゅんとする。
「だけど、佳海までキスが初めてだなんて思わなかった。前に友だちと同じ子を好きになって面倒だった、好きになるのってしんどいことも多いって言ってたじゃない? だからとっくに誰かと付き合っているんだと思ってた」
佳海は遠い目をして苦笑した。大人びた表情だった。
「ああ、そういうことあったね。その時は友だちと気まずくなるくらいなら別にいいやって思って私は諦めたの。つまりは私の気持ちもその程度だったんだよ。恋愛ってめんどくさいものだなと思って興味も無くしてた。だけど、このちゃんを好きになって……このちゃんのことは振られても絶対諦めたくないと思った。こんな強い気持ち初めて。だからここまで来たんだよ」
「振ったんじゃないよ。私だって佳海のことが好きだったから嬉しかったけれど、まだあの時は自分の気持ちも、佳海の気持ちも怖くて信じられなかった。どうしてもうまくいくと思えなかった。それなら友だちでいたほうがいいと思ったの」
「今は信じられる……?」
不安そうな顔をした佳海を見て、私は大きく頷いた。
「佳海が、永遠も運命も信じさせてくれるって言ってくれたでしょ。それに、ばあばが、私がどんな人を好きになっても味方するって言っていたのを思い出したの。私たちのこと、ばあばはきっと味方してくれていると思う。だから私も強くなれるよ」
そして佳海の手のひらに、スノウ・ドームをひとつ置いた。
「このスノウ・ドームを、佳海に持っていて欲しい」
「いいの? ふたつ一緒にしていてっておばあちゃんに言われたんでしょう?」
「佳海は千佳さんの孫だもん、もちろんばあばは賛成してくれるよ。このスノウ・ドームたちは、今度は私たちを守ってくれるはずだから」
「わかった。いつかまたふたつを並べて置ける日まで、お守りにしよう」
佳海は自分の持つスノウ・ドームを私の持つものにそっとくっつけた。まるでキスのように。その瞬間、ふわっとした熱が自分の中に立ちのぼるのを感じた。
「佳海……」
ん? と私を見た佳海の頬に片手を添えて、私はゆっくりと顔を傾けながら近づいた。何も言わなくとも全てを理解した佳海が雛鳥の産毛のようなまつげを閉じる。
私たちの柔らかな唇が触れて溶け合った瞬間、私がどんなに佳海を好きか、佳海がどんなに私を好きかがたとえようもなく甘やかに脳に身体に流れ込んだ。愛しさが言葉を介さず直接行き交う――これがキス。大好きな人とするもの。これから私たちが幾度となく重ねていくもの。
「……今のキス、スノウ・ドームに閉じ込めておきたい」
佳海が囁く。
ふたつのスノウ・ドームの中の雪はやみ、青白い月光が小さな町を優しく照らしていた。
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