第4話 告白

 受験生の夏休みは学校と塾の夏期講習に通っているうちにあっという間に終わった。

 関東住みの佳海はまだ休みが続いていたけれど、東北の学校なので短いのだ。

 佳海からは相変わらず毎日LINEが届く。もうすっかり成海さんより佳海とやりとりをすることが多くなった。

 もし私が祖母から何も託されず、何も知らないままだったら、佳海のように無邪気に日々を謳歌できただろうか。佳海は鏡映しのもうひとりの私なのだろうか、いや、どのみち私は佳海のように生まれながらの明るい光のようなものは持っていない。

 毎日祖母の家で過ごしていた私は、祖母の死後自宅にいても居場所がないように思えた。祖母の家はやがて売却され、今は見知らぬ家族が住んでいる。

 机の上には祖母と幼い頃の笑顔の私が写っている写真が飾られているけれど、背格好も中身も、あまりにも自分は変わってしまったと思う。満面の笑みの私が抱えているクマのぬいぐるみのコロンは祖母がプレゼントしてくれたものだ。今もベッドに置いているけれど、すっかりボロボロになっている。祖母が大切にしていたふたつのスノウ・ドームも中の水が少なくなって全体的に色あせている。時が経つと共に何もかもが変わっていってしまう。

 受験のプレッシャーの中でも、友人たちは恋をしていた。カップルで放課後に一緒に勉強したり、気になる人に勉強を教えて欲しいと言ってアプローチしたり。塾でもカップルができて、授業が終わったあとに話し込んでいたり、仲良く帰る姿を見かけた。

 みんながきらめいて見えるのに、私だけ蚊帳の外の暗闇の中にいるように思えた。

 恋をしなければあのきらめきは降ってこないのだろうか。人を好きになるのは決して楽しく幸せなことだけではないはずなのに、恋とはなんと残酷なものだろう。


 スーパーの店先で売れ残りなのか、ガラス瓶のラムネが割引されて売っている。近づいて持ち上げてみると、夏の終わりの日射しを受け、ぬるいラムネの中でガラス玉が青い宝石のように光った。

 幼い頃、あのガラス瓶の中のガラス玉が欲しくてたまらず、祖母と買い物に行った時に買ってもらい、ラムネを飲んだ後でわがままを言って瓶を割ってもらった。

「ほら、出てきた。綺麗ね」

 祖母が洗ってから私の手のひらにそっと載せてくれたガラス玉は確かに美しかったけれども、瓶のなかに閉じ込められていた時の夏空のような輝きは失われ、ただのありふれたガラス玉に見えた。私ががっかりしていることに、祖母はすぐに気づいた。

「瓶の中にある時のほうが綺麗だった?」

 わざわざ割ってまで出してもらったのに申し訳なくて黙ったままでいると、祖母は割れたガラス瓶のかけらを処分しながら苦笑した。

「そういうことってあるよね。手が届かない時はものすごく綺麗に見えるのに、実際に手に入るとそうでもなかったりするの。でも逆もあって、自分の手元に来ると思いがけずに宝物になることもある。だから最初の印象だけで決めつけずに、心を開いて手に取ってみるといいんじゃないかな」

 私はもう一度ガラス玉を見つめた。

「……私、このガラスの玉、大切にするよ。普通のガラスだけど、ばあばが一生懸命出してくれたものだから宝物だよ」

「このちゃんがそう言ってくれると嬉しいな」

 祖母はにっこり笑って私の頭を撫でてくれた。

 

 祖母に聞きたい。

 私にとって恋はどちらになるの?

 きらめていて見えるのに大したものではないものなの?

 それとも、思いがけずに宝物になるの?

 そもそも私には関係がないものなの?

 心の中の祖母はただ優しく笑いかけてくれるだけだった。

 

 夏の終わり、私は唐突に一年の頃同じクラスだった男子に告白された。放課後に図書館で勉強した帰りに玄関で待ち伏せされたのだ。

 彼のことはクラスのひとりというくらいの認識で、人柄もあまり知らなかったけれど、よく笑っている明るい子だったと思う。一年生の頃は背も同じくらいだったのに、いつもの笑顔もなく、思い詰めた顔をして近づいてきた彼はずいぶん背も伸びていて、咄嗟に怖いと思った。

「石川のこと、ずっと好きだったんだ」

 恋とはどんなものなのか。誰かに恋するとは、そして誰かに好意を寄せられるのはどんな感覚なのか、ずっと、想像してきた。

 でも、生まれて初めて好きと言われた私は、ただそこから逃げ出したいとだけ思っていた。彼に私のことなんて見て欲しくなかった。

「ごめん……お互い今は受験生だし……そういうのはちょっと……」

「うん、俺も今付き合おうとかではなくて……同じT学院目指すしさ、お互いに励まし合って、合格したら付き合えたらいいなと思って。ダメかな?」

「先のことはわからないし、恋愛に興味ないの。ごめんね」

 ほとんど顔を見ないようにして早口で言うと、私は彼の横をすり抜けて走って玄関を出た。

 動悸が激しい。憧れていた恋の舞台にようやく引き上げられたのに、彼は他の誰でもなく私を見てくれたのに、私に広がるのはただただ怖い、という思いだった。思い詰めたような目、私より大きな体格。彼がその気になれば私などどうにでもされてしまいそうだった。もちろん、彼はそんな人ではないだろうけれど。

 祖母は何にでも心を開いてみるといいと言った。けれど、彼には心は開けない、それは確固たる直感だった。

 彼がついてこないことを確かめてから自転車置き場に行くと、佳海にLINEをした。あの男子が差し出した気持ちは私にはとても抱えきれないほど重たくて、すぐにでも吐き出したかった。

〈今、男子に告白された〉

 まもなく佳海からの返信ふきだしが画面に現れた。

〈誰? 知ってる人?〉

〈一年の頃同じクラスだった男子。でもほとんど話したことがないからどうして急に告白してきたのかわからない〉

〈どうするの? なんて返事したの?〉

〈受験だしごめんねって。別に仲良くなかったし〉

〈そしたら何て言ってた?〉

〈同じ大学志望しているから合格したら付き合いたいって。でも私は先のことはわからないからって断ったよ〉

〈へえ~、このちゃんモテるね〉

〈まさか。生まれて初めて告白されたんだよ〉

 送ってから、今まで恋愛経験者のふりをしてきた嘘がばれてしまうと焦った。

〈そうなの? もう何人か付き合っていると思っていたよ。お兄ちゃんもこのちゃんが気になってるみたいだったよ。私がやりとりしているか今でも聞いてくるし〉

 佳海からの返信を見て、それ以上つっこんでこないことにほっとする。

〈告白されるって別に嬉しいことじゃないね。なんだか怖かった〉

〈お兄ちゃんの話、スルーしないでよ〉

〈ごめんごめん。でも直接繋がってないしさ。大学生だし、私の受験を心配してくれているんだと思うよ。うちのパパに言われたから〉

〈そうかなあ。私に隠れて繋がってないよね?〉

〈ないよないよ〉

〈その告白してきた男子のことも無視してよ?〉

〈怖いって思ったんだよ? 今までもほとんど話さなかったし、これからもそうだと思う〉

〈でも同じ大学に行くんだよね? 心配だなあ〉

 私はつい笑ってしまった。佳海と話していると心が軽くなっていく。

〈佳海、やきもち妬いてるみたい〉

〈そうだよ。やきもち妬いてる。だってこのちゃんのことは私が一番好きなんだから〉


 ――あ。

 胸の線香花火が弾けるようにきらめいた。


〈ごめん、告白されるの嬉しくないんだよね。取り消し〉

 やっぱり、告白なんだ……。そうわかっても不思議と何も怖くなかった。

〈取り消さないで。嬉しいから〉

〈嬉しい? ほんと?〉

〈うん。ありがとう〉

〈ありがとう、か……。このちゃんとはこんなに遠くに離れているから今どんな顔しているかも見えないもんね。私が知らない仲良しの子たちだってたくさんいるよね。私なんて遠くにいるLINEするだけの友だちでしかないよね〉

 溢れるような言葉に佳海の思いが滲んでいる。

〈言い方悪かったかも知れないけれど、私、佳海と毎日一番話しているよ〉

〈一番じゃ嫌。私だけじゃないと嫌〉

 出た、佳海のわがまま。ふっと笑いが漏れたけれど、胸がドキドキして指がかすかに震え、文字がうまく打てない。

〈「一番」好きって佳海も言ったくせに〉

〈じゃあ、訂正する。このちゃんだけ好き。本当に好き。このちゃん以外どうでもいい。このちゃんだけいてくれたらいいの。だからこのちゃんも私だけを見て欲しい。私との運命を信じて欲しい〉


 線香花火が百発も千発も弾けてきらめく。

 痛い。全身が痛くて、でもどうしようもなく甘い。

 さっき、男子に同じ「好き」を言われた時には怖さしかなかったのに。


〈私じゃだめ? 嫌い? このちゃんは私のことどう思っているの?〉


 私は……私だって――佳海を……

 でもそこで私の思考は止まった。


 ――好きって何なのだろう。


 私も好き。――そう言ったらどうなるの? 佳海はきっと喜ぶだろう。そしてたくさんの愛の言葉をくれるだろう。祖母が言ってくれたように、私をどれだけ大切に思うか伝えてくれるだろう。私も覚えたての言葉を精一杯返すだろう。それは付き合う、といえるものかも知れない。でも、祖母たちと同じように私たちは東北と関東に遠く離れていて、その上まだ高校生で親の保護のもとに生きているから、その距離は祖母たちよりも遠い。私たちが自分の力でできることは余りに少ない。次に会えるのは一体いつになるのかもわからない。

 それに、私の父母は和貴を始めとした男性と私が付き合うことを願っていて、成海さんも子どもたちが普通に生きることを願っている。男の子とも普通に恋をしてきた佳海は会えなくて先の見えない私のことをやがて見限り、私は祖母のように何年も何十年も佳海への思いを抱いたまま、ひとりで生きていくのではないだろうか?


 それでも、好きって言える?

 それほどに私は強い気持ちがあると言える?

 ――ううん。私はまだわからない。どこまで佳海のことを好きなのか。佳海がどこまで私を好きなのか。

 ――だから、始めてはいけない。


〈気持ち悪くなんてないよ。東北の姉として私も佳海のこと大切だもん〉

〈姉?〉

〈だってそうでしょう、私のほうが年上なんだし〉

〈そりゃそうだけど〉

 佳海の失望した表情が浮かんで心臓がぎゅっと縮まるように思えた。


 ごめんね。ごめんね佳海。でも今なら痛みも小さいでしょ。私たちすぐにまた、幼なじみに戻れるよね。


〈ちょっと宿題あるからそっちする〉

 佳海からの素っ気ない返信に、わかった、がんばってね、と書いて送ったけれど、いつまでも既読がつかなかった。

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